赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠🔹【越中刀工 宇多派菩提寺】 【曹洞宗 天冠山 三光寺】富山県高岡市柴野➡ 「織田信長」の四女で「前田利長」の妻【永姫】が中興した畠山家、宇多刀工宗家宇多家、分家宇田家、鍛冶家の菩提寺!!

2021-02-14 | 越中国吉岡庄・五位庄




●【永姫】《天正2年(1574年)~元和9年2月24日(1623年3月24日)》は、「織田信長」の四女で「前田利長」の正室。院号は玉泉院、法名は玉泉院殿松厳永寿大姉。










■高岡市柴野(十日市)に在る【三光寺】は前田利長の菩提寺「繁久寺」の末寺で、「繁久寺」の住職の隠居寺に成った寺。寺紋は「剣梅鉢紋」を使用している由緒在る古い寺で、この寺には室町時代に越中守護を務めた「畠山家」や吉岡庄(赤丸村舞谷 鍛冶屋町島)で南北朝時代から江戸時代迄続いたと云われる越中刀工「宇多家」やその一族の墓が在る。














■「赤丸村」と「畠山氏」
室町時代に、「赤丸住の藤原直家」が「川人山鞍馬寺」や「赤丸浅井神社」の神仏の前で、「鞍馬寺」を再興した父の十三回忌、十七回忌の法要を執り行った記録が「富山県史 中世」の「光厳東海和尚録」に記載されている。この法要を執り行ったのは、富山市蜷川の「越中蜷川氏菩提寺 最勝寺」の住職で「瑞泉二代亀阜和尚」で在る。藤原氏の菩提寺の「興福寺大乗院寺社雜事記」には「応仁の乱」の元凶と成った「畠山義就」の嫡男「修羅法師」の法要記録が在り、この「畠山修羅」の命日と「藤原直家」の父の命日が一致する事から、この法要を執り行った「赤丸住藤原直家」とは、藤原氏の寺「興福寺」に預けられていた「畠山修羅」の息子と見られる。

🔽「越中国利波郡五位庄赤丸村」と記載される「赤丸村」!!
【赤丸村】は「越中吉岡庄」の領主の南朝の【後醍醐天皇】が旗標にされた【赤丸の御旗】から名付けられたと見られる。「後醍醐天皇が」初めて「赤丸の御旗」を作られたのは、吉野への途中で奈良県賀名生の里の「掘家」に宿泊された時とされる。現在も掘家は遺されており、住民が住まいされていると云う。この「掘家」は、「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」、「木船城」や「福光城」を居城とした「越中石黒氏」の一族で「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」で都へ攻め登った石黒氏同族の「掘家」と見られる。
(※高岡市長を八期勤めた掘健二氏は石黒氏同族という。➡※「高岡市史」、「奈良県賀名生博物館」)


▼史上初めて【越中国利波郡五位庄赤丸村】の地名が登場する「赤丸村浅井神社」・「川人山鞍馬寺寺」に於ける法要記録



■「室町幕府」と「五位庄」
「越中吉岡庄」は室町時代に入ると、室町幕府御粮所に成り、「足利義満」は「五位庄」を「臨済宗相国寺」に寄進した。南北朝末期に「吉岡庄」から「五位庄」と改名された後に、越中は八郡に分割され、「利波郡」は「蓮間郡」と「利波郡」に分かれていた。(※室町幕府御粮所; 幕府の兵粮を調達する庄園)
「赤丸浅井城」の在る小矢部川西部は「利波郡」と成り、「畠山文書」の「越中統治絵図」に拠れば、この頃は「赤丸浅井城」は「畠山一族」で【応仁の乱】を起こした「畠山持国」の居城で在った事が記されている。「足利義満」の時代には「越中守護畠山氏の居城」の「赤丸浅井城」の周辺から、「臨済宗」以外の寺院は立ち退きを命じられた。
又、富山市蜷川を本拠とした「足利義満」の近臣で政所代の「蜷川新右衛門」は「新川郡、利波郡」を統治したと云う。(※「蜷川の昔」)

🔽赤丸村の旧家で高岡市関町の「総持寺」の門徒総代を長く勤めた「池田市右衛門家」には「総持寺由来」が伝承され、「赤丸浅井神社神官川人家」に伝えられた。➡【「国主」の命により真言宗総持寺は立ち退きを命ぜられた。】



この内容は、「元臨済宗寺院」で現在は曹洞宗の「三光寺」や越中蜷川氏の菩提寺「最勝寺」にも、同様の伝承が遺されている。



🔽「室町幕府三代将軍足利義満」は、室の「日野業子」の追善供養として【相国寺】へ「五位庄」(改名前は皇室庄園の「吉岡庄」と呼ばれた。)を寄進した。足利義満は母の親族で宇多天皇の末裔とされる「越中蜷川氏」を政所代として重用して「越中国利波郡、新川郡」を所領とした。一門の「蜷川新右衛門」は足利義満の側近として、又、相国寺の僧で在った連歌の「宗祇」の高弟として、後小松天皇の皇子の「一休禅師」とも親交が在り、「一休さん」には「新右衛門さん」として登場する。



























■「三光寺」は、蜷川の「最勝寺」とも親交が深く、何れも曹洞宗で在る。「最勝寺」 は元々、臨済宗だったが、後には曹洞宗に成った様だ。同じく、「三光寺」にも、臨済宗から曹洞宗に成ったと伝わっている。
この寺には、「畠山家」の墓所の周辺に、「宇多一族」の墓所が取り巻いている。この寺の墓所は、ほぼ「畠山家」と「宇多家」一族の墓で埋まっており、この寺が赤丸浅井神社とも近い事から、この寺は、元々は越中守護畠山家の菩提寺で在った可能性が高い。
「藤原直家の法要記録」を遺した「東海宗洋」は守山城城主神保氏の一族で在った事から、「守山城城主神保氏張」が能登畠山氏から神保家へ養子に入った背景は、元々、利波郡で在った赤丸村周辺は能登畠山氏の直轄地で在った事とも関係が深いとも見られる。
又、この地で「玉泉院」が「三光寺」を復興したのは、「守山城城主神保氏張」の妻が父「織田信長」の妹で在り、伯母の離婚後もその息子二人が暮らした「守山城」を近くに見られる場所で在った事とも関係していると思われる。
尚、「高岡守山城城主神保氏張」は「前田利家」との「能登末森城の戦い」に敗れた後に、一旦は佐々成政と共に肥後国に移ったが、成政切腹後は、徳川家の旗本に成って御府内に屋敷を構え、千葉に知行地を得ていたと云う。

■「三光寺」の宝物として、「前田利長」と織田信長の四女で妻の「玉泉院」 の書等三通を保有しており、年一回、正月に公開していると云う。

■「前田利長」の菩提寺「瑞龍寺」には、「玉泉院」の父の「織田信長」の「分骨廟」が在る。


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