高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

器量と場 決断的自由

2024-06-07 14:20:57 | 日記

2024年06月05日(水)


器量と場


 
何でこういう目に遭うんだろう、ぼくがまだそれだけの器量でしかないからだ、と思うよりも、(あれこれ理由をつけて)ぼくに相応しくない場にのこのこ出て来るからだ、だから軸が外れた分だけの目に遭うのだ、と思うほうが正しい。
 
 
義務的見聞は止めて自分の場に留まるのがどれほどよいことか。なのにぼくは、なぜあのひとたちは出て来ないのだろう、と、ひとのことを言っている。
 
 
 

本来的な決断的自由は、天がそれに味方し 世が跪くことによって知られる



人間は自分本来の場に納まっていなければ、敬意をもたれることも落ち着くことも(咎意識なしでいることも)できない。その場が自分本来の場であるかどうか、すなわち天に認可されているかどうかは、不思議なことに、じぶんの感覚で分る。それはまるで、自分本来の充実した、自分の決断に拠る自由は、自由そのものなのにそれこそは予め天から認可されているものであるかのようだ。そこには、天と、世人通念との、亀裂そのものが確認できる。ここにおいて、世は、不思議なことに、天に勝てずに我知らず跪いている。