高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”アランの言葉 片山敏彦の証言 「別の世界」に窓を開く孤独な純粋情感の世界”

2021-05-13 02:21:41 | 日記


文句無し。ここからぼくは一歩も出る必要は無い。 

2016年05月22日(日) :




アラン

「人間の思想の中には、美しいがゆえに滅びないような部分がある。実はそういう部分がまことの思想である。」

「美はひとをみちびく。何処へみちびくのか? その『何処へ』を言いえたひとは未だ嘗つてひとりもいない。美は真への里程標である。」




片山敏彦の証言
〈マルチネの娘さんが、紙片に、アランの講義の場所を書いて教えてくれ、私はその講義を聴きに行ってみた。霧の深い初冬の夜で、場所はモンパルナスの大通りに近いコレージュ・ド・セヴィニエの講堂だった。時間の三十分前に行ってももう坐るところはないくらい多数の聴講者が集っていたが、その人々の多様さに私は驚かされた。白髪の老人、黒衣の老婦から大学生、女学生などまでさまざまの人々がいた。河盛好蔵氏の話だと、アンドレ・モーロワの顔もしばしば聴講者の中に交っていたそうである。
 ・・・・・・
 アランの講義から自分の室へ帰った夜の、特色のある心持を、私は時の経つにつれてますます良く回想することができる。・・・それはほんとうに自己自身の教養と自己形成を楽しみとする人々が、真に思考するひとりのひとのソクラテス的な言葉の周りに、おのずと作った一つの環のようにも見えた。私は哲学というものについてその時まで持っていた概念が自分の内部でやや変り始めるのを感じた。同時に、フランスの文学というものに関して形成していた考えもまた自己の内部で修正されるのを感じ始めた。もっとも新しい大胆な文学的・芸術的・思索的試みの中にも、極めて永い伝統的な、踏み固められて来た方法の生きた伝承者たることの配慮が充分に感じられたし、また、あらゆる創造的精神の仕事は、その外形がいかにあれ、常に相通じ、照応して同時に全体を押し進めて行く義務を分担している、ということの自覚が顕著に感じられた。〉





これら言葉と証言のすべてに共感するぼくは、自分が一個の歴史的存在であるという静かな誇りを持っている。





これこそ前節に書くべきことかもしれないけれども、裕美さんのバッハを聴いてもZardを聴いても、変らないことは、ものさびしい秋にかえって魅了されるというきみの、孤独に向き合える心の態度ですね。純粋に自分と向き合い自分と対話していて、そこに集中するかぎりで聴者のことを忘れきって自分の世界に入りきっている。孤独な純粋情緒、それをどんな曲の演奏を聴いても厳かに感じる。自分をまったく孤独に置くことによってしか ほんとうに感動させるものは生れず、そこまで自分と向き合えるひとは必然的に「神」に面している、ひとことも神という言葉を言わなくともそれだけいっそう純粋に自分の「超越者」に面している、それがいつもきみの演奏のきみだけの響きの世界からぼくが感じていることなのです。そのようなきみが、ロマン・ロランがみずからのピアノ演奏を、特別に人間を認めたひとにしか聴かせず、けっして大勢の人前で弾こうとはしなかったように、きみは芸術の本質である「自分との対話」になりきることのできるひとであって、だからぼくはそこに、「別の世界」に窓を開くようなきみの演奏に、いつも「祈りの世界」を感じるのだろう。そう思っているのです。(人前での祈りはけっしてけっしてありえないことはイエスの言っている通りです。)

アランのいう「美がみちびく処」、其処へ、きみがみちびいてくれると ぼくは本気で思っています