B29 Superfortress Bombers in Action Over Japan (1945) WWII
天皇制の保持だけを条件にソ連を仲介とした終戦交渉を試みるのだが、ことごとくもてあそばれて「このスターリンにお任せください。仲介の骨を折って日本に平和をもたらしましょう。」などという返事は当然まったく来ない。「日露戦争以来の新しい日本の領土はすべて差し上げますです。なんだったら、ソ連・共産中国・大日本帝国が団結して英米と徹底抗戦しましょう。」という信じられない提案までして、ソ連にすがりついた日本。最近伊藤隆氏、長谷川毅氏、そして産経新聞の岡部伸記者などの研究やスクープによってその実態が明らかになってきた。敗戦選択派を日本では和平派と呼ぶが、これが彼ら和平派の交渉の実態である。
このB29の爆撃に家を焼かれ命を落とした多くの日本人も2発の原爆の死亡者も被害者も、戦争の始まりから終わりまで民草に過ぎず、国家防衛の外側に押し出されている。特攻の若者は死に誉を見出す以外の教育を受けておらず、外地に暮らした日本人は事実上棄民された。一方徹底抗戦派、竹やり教育を受けた一億玉砕派にしても、最後まで守り抜こうとした防衛とはすなわち、天皇制の保持であった。別名国体の保持。
和平派の代表といわれている鈴木貫太郎:wikipedia
首相の鈴木まで「西郷隆盛に似ている」としてソ連のスターリンに期待していた。そのスターリンは3週間前のポツダム会談でアメリカのトルーマン大統領に日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」として「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案、トルーマンもこれに同意していた[8]。
首を括るほどの失言である。何故鈴木貫太郎がいつまでも日本のヒーローに祭り上げられるのか、一度くらいは考えてみた方がいいだろう。
最後の最後までソ連を仲介とした敗戦交渉にすがりついたのは、敗戦選択派であり、言い換えれば和平派、結局ソ連の裏切りに万事窮した一派、すなわち戦後GHQ支配下において一番協力を惜しまなかった「平和愛好家」と称される面々である。和平派のなかで実際にリーダーシップをとった人物の名前も明らかになっている。ソ連の参戦によってようやくもはやこれまで、の決断が下される。すがりつく両手をソ連の戦車が踏み砕いたからである。アメリカに降参し、平和国家の名を戴いてGHQの傀儡となる。日米友好日米協力の始まりである。そうして国体を保持しえて戦後の日本がスタートしている。
米内光政:wikipedia
これについては「このポツダム宣言を軽視してもたいしたことにはならない、ソ連交渉に望みをつなぐ」という判断の甘さが米内にあったのではないかという推察がある(...)米内にはその他にも、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしたこと(...)
首を括ってしかるべき暴言である。戦争末期及び敗戦後の日本においてはこういう発言こそが幅を利かせる空気が充満していたということだろう。
大きな歴史的流れの中で、個人を捉えて云々するつもりは全く無い。ただ終戦間際から敗戦、敗戦後にかけての日本の姿があまりにも醜い。筋を通したものだけが悪人に仕立てられあらぬ罪を着せられ、処刑された。ソ連を介した終戦交渉が腰を抜かすほど馬鹿げているのと同程度に、戦後の言い訳(東京裁判史観創作)が見苦しいのである。私が今首をたれ意気消沈しているのは、東京裁判が、日米合意合作だという事実が目の前に突きつけられているからである。
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