
「さらさ西陣」というカフェにて。
こ初々さんの背景の壁は、なんと全部タイル。ここはもともと銭湯だったそうで、その名残があるんですねぇ。極彩色のタイルに囲まれてお茶というのもなんだか変な気分ですが、季節のケーキがとってもおいしかった~。場所は、烏丸紫明から東鞍馬口通りに入ってどんどん西へ行った南側にあります。(←分かりにくいですねぇ。建勲神社の裏側くらいですかね)
ところでずっと書きたいと思っていて書けなかった、「鷲田先生への質問」と「その答え」についてちょっぴり書いておこうと思います。
私の質問はこんなものでした。「地域の精神障害者の方の多くは、就労という形ではなかなか社会参加ができません。生活保護を受けていたり、ご家族のお世話になったりしながら、地域で生活されています。そのような方々に対して、「いてもいいだよ」というメッセージを伝えたいと思いながらやってきましたし、インターディペンデンス(相互依存)の関係をシステムとして構築していくことが仕事だというふうに思ってきました。しかし自分が結婚をして扶養家族になってみたり、つわりなどで全然動けなくなってみると、周囲に対して『申し訳ない』という気持ちを持ってしまいました。いざ立場が逆転してみると、なかなか自分で自分を肯定できないことに気がついて、愕然としたんです。理性では『いてもいいだよ。インターディペンデンスなんだよ』ということが言えても、感情では受け入れられないことにきづきました。このあたりについてどう折り合っていったらいいとお考えか、お聞かせください。」
それに対して鷲田先生は、まず「僕はそれを理性と感情の対立というふうには捉えないなぁ。こう言ってしまうと身も蓋もないけど、『いなくていい人はいない』というかね・・・『弱さのちから』という本にね、そのことは書いているので読んで頂きたいのだけど・・・」とおっしゃって、24時間要介護状態になってもたくさんの介護ボランティアを募集し、多くの方とインターディペンデンスの関係を築いておられる方のお話や、赤ちゃんという存在からいかに母親が救われているかというお話を引用され、最後にこうおっしゃいました。「いなくていい人はいない・・・という、祈るような気持ち、かな。」
先生の答えを聞いたときには「うーん、そうかぁ」と、納得したような、していないような、とにかく「消化しきれない」という感じだったのですが、帰り道に先生の答えを反芻するうちに「がつーん」とくるものがありました。私は「自分に対して言えないこと」というふうに捉えていましたが、おそらく究極の場面で他者に「いていいですか?」と問われれば、「いていいよ」と穏やかな気持ちで、心の底から、言うことができないのではないか。自分にも、他人にも、理屈ぬきには「いていいよ」と言えない自分・・・でもそんな自分でも、きっと「そう言いたい、言いたい、言わせて・・・」と『祈るような気持ちで』他者(や自分)に向き合うことはできるんだろう。信仰を持たない私は、「そこから」始めるよりほかはない。そんなことを、考えさせられたのでした。
と、ここまで書いてタイムリミットです。
これから仕事へ、行ってきまーす。