どうしているかな~。
そう思いながら幼稚園へ迎えに行くと、「最初は少し泣いてましたが、そのあとは機嫌よく遊んで、礼拝にも出られました。」と先生がおっしゃるので、ちょっぴり拍子抜け。担任の先生からも詳しく聞いてみると、30分ほどはわーんと泣いていたけれども、抱っこしたりなんだりしているうちに突然「ボク、注射したの」と言い出して泣き止んだとか。・・・???・・・確かにインフルエンザの予防接種へ行きましたが、それもずいぶん前のこと。そして予防接種の時には恐がりも泣きもせず、「ボク、全然痛くなかったよ~」なんて余裕をみせていたというのに、「不安、寂しい」という状況で予防接種のことを思い出すとは、やはり予防接種も「やせ我慢」だったのであろうか・・・などと憐憫の気持ちが涌いてきますが、それはさておき。30分思い切り泣いて、それからは自分で気持ちを立ち上げて遊びへ入っていけたということを知って、ほっとしました。「不安、寂しい」でいっぱいにならずに、先生たちのあたたかい見守りの中で自分を奮い立たせ、一歩を踏み出せたんだね。そう思ったら、幼稚園の教室から出てくる我が子の姿を見つけたとき、不覚にも目頭が熱くなってしまってこちらが「わーん」と泣き出したい気分になりました。もちろん、涙はぐっとこらえて、ぎゅうっと抱きしめている間にひっこめましたけれども。
ところで。幼稚園に行く前の晩に我が子のことを祈っているとき、「泣く/泣かないというのは、大した問題ではないんだな。それに一喜一憂している場合じゃないな」ということに思い至りました。「泣く/泣かない」というのは、子どもによって「出し方」に違いがあるというだけのことで、子どもが初めて親から離れるときには不安や寂しさというものを体験していることには変わりがありません。その体験を子どもがどう周囲に伝えるか、というのは子どもの個性でしょうし、また子どもの発達段階によるところも大きいと思います。敏感にぎゃー!!と泣いて全身で表現する子どももあれば、先生にひっついて不安や寂しさを紛らわそうとする子どももいることでしょう。いずれにしても、子どもが感じている感情と体験がどのようなものであるのかということに思いを寄せ、子どもの「言葉にならないメッセージ」をいかにこちらがくんであげることができるか・・・もちろんくみとってやることが目標ではなく、その思いをしっかりと受け止めながら、「それでもなおかつ」いかにして子どもの背を押してやることができるのかということを考えなければなりません。幼稚園の場面だけではなく、子どもは自分が体験していることを日常生活のあらゆる場面でメッセージとして出してくると思いますが、それをそのまま見過ごしたりやり過ごしたりすることなく、「その背景に何があるのか」を考えられるようでありたい、そんな「見る目」「聞く耳」を自分にそなえさせてください・・・私が祈っていたのは、おもにそのことでした。ちょっと気を抜くと、「幼稚園に行き出して、甘えだして大変なのよ~」というふうに、まるで自分が「大変な状況の被害者」であるかのように思ってしまいがちな未熟な私なのですが、それを律するためにも祈らずにいられなかったのだと思います。親から離れて集団の場に入っていくという大変な状況にいるのは、私ではなく子ども本人であるということ。その子どもを励まし、背を押し、安心して過ごせる場所を見つけられるように応援してあげること。そのミッションをしっかり胸に刻み、惜しみなく力を差し出してやりたいというふうに思っています。
それが出来ているかどうかはともかくとして・・・
今日も元気に幼稚園へ行っています。今朝はオットの膝の上で「幼稚園、ひとりでいくの?おかあちゃんと行きたいな~。」とうにゃうにゃ言っていたそうですが、それでも奮発して幼稚園に向かっていきました。自転車の中では、「今日は泣かないよ。元気でいるよ。」と健気に宣言していましたが、先生が抱っこをすると口を真一文字にぐっとしめて「今にも泣きそう」、でも泣かないようにすごーーく頑張っている・・・「泣いても大丈夫だよ。先生が抱っこしてよしよししてくれるから」、そうずっと言っていたのですが、それでも「泣かないでいられた」ことが自分の誇りと自信になる日がくることを祈り、またそれが近いことを感じながら、ひとり自転車を走らせていたのでした。
そう思いながら幼稚園へ迎えに行くと、「最初は少し泣いてましたが、そのあとは機嫌よく遊んで、礼拝にも出られました。」と先生がおっしゃるので、ちょっぴり拍子抜け。担任の先生からも詳しく聞いてみると、30分ほどはわーんと泣いていたけれども、抱っこしたりなんだりしているうちに突然「ボク、注射したの」と言い出して泣き止んだとか。・・・???・・・確かにインフルエンザの予防接種へ行きましたが、それもずいぶん前のこと。そして予防接種の時には恐がりも泣きもせず、「ボク、全然痛くなかったよ~」なんて余裕をみせていたというのに、「不安、寂しい」という状況で予防接種のことを思い出すとは、やはり予防接種も「やせ我慢」だったのであろうか・・・などと憐憫の気持ちが涌いてきますが、それはさておき。30分思い切り泣いて、それからは自分で気持ちを立ち上げて遊びへ入っていけたということを知って、ほっとしました。「不安、寂しい」でいっぱいにならずに、先生たちのあたたかい見守りの中で自分を奮い立たせ、一歩を踏み出せたんだね。そう思ったら、幼稚園の教室から出てくる我が子の姿を見つけたとき、不覚にも目頭が熱くなってしまってこちらが「わーん」と泣き出したい気分になりました。もちろん、涙はぐっとこらえて、ぎゅうっと抱きしめている間にひっこめましたけれども。
ところで。幼稚園に行く前の晩に我が子のことを祈っているとき、「泣く/泣かないというのは、大した問題ではないんだな。それに一喜一憂している場合じゃないな」ということに思い至りました。「泣く/泣かない」というのは、子どもによって「出し方」に違いがあるというだけのことで、子どもが初めて親から離れるときには不安や寂しさというものを体験していることには変わりがありません。その体験を子どもがどう周囲に伝えるか、というのは子どもの個性でしょうし、また子どもの発達段階によるところも大きいと思います。敏感にぎゃー!!と泣いて全身で表現する子どももあれば、先生にひっついて不安や寂しさを紛らわそうとする子どももいることでしょう。いずれにしても、子どもが感じている感情と体験がどのようなものであるのかということに思いを寄せ、子どもの「言葉にならないメッセージ」をいかにこちらがくんであげることができるか・・・もちろんくみとってやることが目標ではなく、その思いをしっかりと受け止めながら、「それでもなおかつ」いかにして子どもの背を押してやることができるのかということを考えなければなりません。幼稚園の場面だけではなく、子どもは自分が体験していることを日常生活のあらゆる場面でメッセージとして出してくると思いますが、それをそのまま見過ごしたりやり過ごしたりすることなく、「その背景に何があるのか」を考えられるようでありたい、そんな「見る目」「聞く耳」を自分にそなえさせてください・・・私が祈っていたのは、おもにそのことでした。ちょっと気を抜くと、「幼稚園に行き出して、甘えだして大変なのよ~」というふうに、まるで自分が「大変な状況の被害者」であるかのように思ってしまいがちな未熟な私なのですが、それを律するためにも祈らずにいられなかったのだと思います。親から離れて集団の場に入っていくという大変な状況にいるのは、私ではなく子ども本人であるということ。その子どもを励まし、背を押し、安心して過ごせる場所を見つけられるように応援してあげること。そのミッションをしっかり胸に刻み、惜しみなく力を差し出してやりたいというふうに思っています。
それが出来ているかどうかはともかくとして・・・
今日も元気に幼稚園へ行っています。今朝はオットの膝の上で「幼稚園、ひとりでいくの?おかあちゃんと行きたいな~。」とうにゃうにゃ言っていたそうですが、それでも奮発して幼稚園に向かっていきました。自転車の中では、「今日は泣かないよ。元気でいるよ。」と健気に宣言していましたが、先生が抱っこをすると口を真一文字にぐっとしめて「今にも泣きそう」、でも泣かないようにすごーーく頑張っている・・・「泣いても大丈夫だよ。先生が抱っこしてよしよししてくれるから」、そうずっと言っていたのですが、それでも「泣かないでいられた」ことが自分の誇りと自信になる日がくることを祈り、またそれが近いことを感じながら、ひとり自転車を走らせていたのでした。