「おっぱい星人になってきたか?」
おっぱいマッサージへ行ったら、助産師さんにそう聞かれました。うへ~何で分かるの?これまでも助産師さんにはベストタイミングで声かけされてきたにも関わらず、今回もまたびっくりしてしまったのでした。「1歳すぎまで、もっともっとおっぱい、おっぱい言わはるで。」と助産師さん・・そ、そうですか。今現在ですでにお腹いっぱいな感じなのですが・・・とひき気味のわたし。でも「今までもおっぱい好きやったんやで。でもこれからはそれを態度で表さはるわ。」というのを聞くと、「なるほど、表現力が身に付いてきたということなのね、これも成長の証。」と思えて、えーと、ちょっぴりだけ喜ばしくもあります。
とにかくおっぱいをあげてもあげても「おっぱい!おっぱい!」と言うので、ついにこ初々さんはハハから「ボーダーこ初々ちゃん」と呼ばれることになってしまいました。これはお母さん友達の方が、ご自分の赤ちゃんが新生児だった頃、してあげてもしてあげても泣き止まない赤ちゃんを目の前にして「ボーダー○○ちゃん、と呼んでいた」という話を思い出して真似をしたもの。といっても一般の方には「ボーダーってなんのこっちゃ。」だと思いますが、ボーダーとはボーダーライン(境界型人格障害)の略で、一口にボーダーといってもその症状や病態は様々なのですが、一般に他者との安定した関係を構築することが困難で、他者への要求が高いが与えられたもので満たされず、それがクレームや自傷行為につながっていく、ということがひとつ言えると思います。(もちろん、それが全てではなく、ひとつの特徴です)おっぱいをどんなにあげてもすぐにおっぱい!と言うこ初々さんが、どうもそんなボーダーラインの特徴と重なってしまって、力尽きつつあるときには「ボーダーこ初々ちゃん」と呼んでいます。おっぱいは枯渇しないが、気力はどうも枯渇してしまう時があるようだよ、こ初々さん。本当は溢れる泉のようになりたいのだけどね、そりゃもうおっぱいのように。
ところでボーダーこ初々ちゃんに鍛えられたせいなのか、実際にボーダーラインの患者さんに(法外な)クレームを言われてもあまりへこたれなくなっている自分に気づきました。もちろんこちらに明らかに非があるときは別ですが、そうではなく「ただ文句を言いたいだけなんだな、この人は」と思われるような場面でも、これまで相当、そしてさんざんへこたれて、必要以上に謝ったり、自分を責めた記憶があります。しかし先日同じようなことがあったのですが、全然そのことがこたえず、必要じゅうぶんなだけ、つまり心をこめてただ一言だけ「ごめんなさい」と謝ることができたのです。この変化は自分でも不思議だったのですが、「自分のせいじゃないけれど、うまく(思い通りに)いかない」日々の積み重ねのなせる技だったのではないだろうか。そんなふうに思いました。何だかうまくいかないことの原因を、(必要以上に)自分の中に、あるいは相手の中に見つけない。ただ「そう(いうもの)なんだ」と(半ば諦めて)受け入れる。おっぱいをあげてもあげてもおっぱいが欲しいのは、私のせいでも、こ初々さんのせいでもない。ただただ「そう(いう時期)なんだ」ということですよね。
それから、お互いがニコニコハッピーでいる状態を良好な関係として目指すと、ボーダーラインの患者さんとの関わりは厳しいものがあります。(それが出来ないのが、病気なのですから)それが分かっていても、「自分となら」という期待を悲しいかな、持ってしまうのですね。しかしそんな期待はものの見事に打ち砕かれ、こちらもボロボロに傷ついてしまうという悲惨、いえ正直な実感としては凄惨な状況になってしまう・・・この「自分となら」という奢りもどういうわけか自分の中で薄らいでいるようですが、それよりも「お互いがニコニコハッピーでいる状態」を良好な関係として指向しなくなったことの方が私の中では大きな変化といえます。ボーダーラインの患者さんとの関わりでいえば、「文句を言い、言われる関係もまたそれは一つの関係」とあっさり思えるようになりました。それもきっと、育児の日々が「ニコニコハッピー」だけで構成されていないからではないだろうかと思うのです。もちろん出来る限りお互いニコニコハッピーでありたいですし、その努力はしますが、努力したところで「ニコニコハッピー」だけで日々を埋め尽くすことはできません。「ぎゃー!」と癇癪をおこして泣いて、それをみておとなげなく「きー!」となって、「きー!」となったことをあとから後悔する・・・なんていうことも、日々の中に入っているのです。そういうことをぜーんぶひっくるめて、「よし」としたい。色んなことがあるけれども、どれもこれも「よし」。そう思えるかどうかは別として、そう思いたいと願えるのは、自身の大きな変化だと捉えています。
しんどがって愚痴っぽいですが、こんなあれこれが面白いんですよ、育児の日々。
おっぱいマッサージへ行ったら、助産師さんにそう聞かれました。うへ~何で分かるの?これまでも助産師さんにはベストタイミングで声かけされてきたにも関わらず、今回もまたびっくりしてしまったのでした。「1歳すぎまで、もっともっとおっぱい、おっぱい言わはるで。」と助産師さん・・そ、そうですか。今現在ですでにお腹いっぱいな感じなのですが・・・とひき気味のわたし。でも「今までもおっぱい好きやったんやで。でもこれからはそれを態度で表さはるわ。」というのを聞くと、「なるほど、表現力が身に付いてきたということなのね、これも成長の証。」と思えて、えーと、ちょっぴりだけ喜ばしくもあります。
とにかくおっぱいをあげてもあげても「おっぱい!おっぱい!」と言うので、ついにこ初々さんはハハから「ボーダーこ初々ちゃん」と呼ばれることになってしまいました。これはお母さん友達の方が、ご自分の赤ちゃんが新生児だった頃、してあげてもしてあげても泣き止まない赤ちゃんを目の前にして「ボーダー○○ちゃん、と呼んでいた」という話を思い出して真似をしたもの。といっても一般の方には「ボーダーってなんのこっちゃ。」だと思いますが、ボーダーとはボーダーライン(境界型人格障害)の略で、一口にボーダーといってもその症状や病態は様々なのですが、一般に他者との安定した関係を構築することが困難で、他者への要求が高いが与えられたもので満たされず、それがクレームや自傷行為につながっていく、ということがひとつ言えると思います。(もちろん、それが全てではなく、ひとつの特徴です)おっぱいをどんなにあげてもすぐにおっぱい!と言うこ初々さんが、どうもそんなボーダーラインの特徴と重なってしまって、力尽きつつあるときには「ボーダーこ初々ちゃん」と呼んでいます。おっぱいは枯渇しないが、気力はどうも枯渇してしまう時があるようだよ、こ初々さん。本当は溢れる泉のようになりたいのだけどね、そりゃもうおっぱいのように。
ところでボーダーこ初々ちゃんに鍛えられたせいなのか、実際にボーダーラインの患者さんに(法外な)クレームを言われてもあまりへこたれなくなっている自分に気づきました。もちろんこちらに明らかに非があるときは別ですが、そうではなく「ただ文句を言いたいだけなんだな、この人は」と思われるような場面でも、これまで相当、そしてさんざんへこたれて、必要以上に謝ったり、自分を責めた記憶があります。しかし先日同じようなことがあったのですが、全然そのことがこたえず、必要じゅうぶんなだけ、つまり心をこめてただ一言だけ「ごめんなさい」と謝ることができたのです。この変化は自分でも不思議だったのですが、「自分のせいじゃないけれど、うまく(思い通りに)いかない」日々の積み重ねのなせる技だったのではないだろうか。そんなふうに思いました。何だかうまくいかないことの原因を、(必要以上に)自分の中に、あるいは相手の中に見つけない。ただ「そう(いうもの)なんだ」と(半ば諦めて)受け入れる。おっぱいをあげてもあげてもおっぱいが欲しいのは、私のせいでも、こ初々さんのせいでもない。ただただ「そう(いう時期)なんだ」ということですよね。
それから、お互いがニコニコハッピーでいる状態を良好な関係として目指すと、ボーダーラインの患者さんとの関わりは厳しいものがあります。(それが出来ないのが、病気なのですから)それが分かっていても、「自分となら」という期待を悲しいかな、持ってしまうのですね。しかしそんな期待はものの見事に打ち砕かれ、こちらもボロボロに傷ついてしまうという悲惨、いえ正直な実感としては凄惨な状況になってしまう・・・この「自分となら」という奢りもどういうわけか自分の中で薄らいでいるようですが、それよりも「お互いがニコニコハッピーでいる状態」を良好な関係として指向しなくなったことの方が私の中では大きな変化といえます。ボーダーラインの患者さんとの関わりでいえば、「文句を言い、言われる関係もまたそれは一つの関係」とあっさり思えるようになりました。それもきっと、育児の日々が「ニコニコハッピー」だけで構成されていないからではないだろうかと思うのです。もちろん出来る限りお互いニコニコハッピーでありたいですし、その努力はしますが、努力したところで「ニコニコハッピー」だけで日々を埋め尽くすことはできません。「ぎゃー!」と癇癪をおこして泣いて、それをみておとなげなく「きー!」となって、「きー!」となったことをあとから後悔する・・・なんていうことも、日々の中に入っているのです。そういうことをぜーんぶひっくるめて、「よし」としたい。色んなことがあるけれども、どれもこれも「よし」。そう思えるかどうかは別として、そう思いたいと願えるのは、自身の大きな変化だと捉えています。
しんどがって愚痴っぽいですが、こんなあれこれが面白いんですよ、育児の日々。