波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

片岡鉄哉氏の著作について

2005-05-16 13:06:42 | 外交
 片岡鉄哉氏の著作との遭遇についての経緯についてはすっかり失念してしまった.何かの検索語でGoogleした際に,片岡氏の論文を引用した記事に当たったのが始まりだったと思う.同氏の経歴を調べてみると,日米間を短期間で行き来する文系学者の典型で,一つの大学に留まり弟子を輩出するという伝統的な学者ではないことが分かった.このような類型の学者は,メディア芸者的な露出度が高い人や資産家で無い限り,老後の設計が大変な筈だが,同氏が有料の『アメリカ通信』(http://www.tkataoka.com/)を刊行しているのも,其の辺りに理由があるのかも知れない.

 米国における大学系日本研究の拠点は幾つかあるが,安全保障の観点からは,東海岸北東部辺りと西海岸(特に加州北部)辺りでは,何か毛色の違いを感じてならない.自民党の領袖で,中曽根氏がスタンフォードで講演云々は聞いたことがあるが,ハーヴァード辺りで記憶に残る演説をしたという事を聞いたことが無い.片岡氏によると,ハーヴァードのジョゼフ・ナイ教授と宮沢喜一氏とは直結している節があると読んでいるが(http://www.megaegg.ne.jp/~nitiroku/kako18.html),宮沢氏のスタンフォードでの講演というのも聞いた例がない.片岡氏はシカゴ大の伝統的な政治学課程で博士号を取得しているので(留学世代的には,計量的分析手法が米社会科学界を席捲する直前か),どちらかと言えば,西海岸の方が親和性が高いと予想されるが,事実,スタンフォードのフーバー研究所の研究員になっている.

 片岡氏によると,日本が「普通の国家」になる選択肢を自ら放棄した・逃した機会が幾つかあり,最初が,占領直後の日本の非武装化政策が画餅になり米政府側(GHQではない)が日本の再軍備を求めてきた際に吉田茂が抵抗して中途半端な再軍備をした時,次に,鳩山・岸政権が吉田系政治家プラス社会党連合に屈して小選挙区制・改憲が当面の政治目標で無くなった時を挙げている.換言すれば,戦後米側が差し出した「日本は極東での米国の揺ぎ無い同盟国になれるか」という踏絵に対して,日本は敗戦国としての自覚不足や方向違いの戦略的打算により自尊心を抑え込むことが出来ず,二の足を踏み,信頼度試験に不合格と見做されてきたことになる.片岡氏の『日本永久占領』は岸内閣崩壊の時点で分析を終えているが,一昨年雑誌『Voice』に投稿された「日本よ,同盟を拒絶するのか」と題された論文(http://www.tkataoka.com/ronbun/voice.html)での分析では,沖縄返還・日中国交回復をめぐる佐藤・田中政権における類似の「踏絵」をめぐる失敗が批判されている.結局,吉田茂系列の政治家には,開祖吉田茂の残した派訓=海外派兵に対する封印を開封する理念も勇気も持ち合わせていなかったと言える.この「踏絵」の観点からすると,小泉氏が言った「自民党をぶっ潰す」とは戦後日本政治をほぼ取り仕切ってきた吉田系政治家に引導を渡す事であり,自衛隊のイラク派兵は吉田茂の残した封印を開封するための一過程と理解できるが,片岡氏はこれらの点について昨年の論文で述べている(http://www11.plala.or.jp/jins/newsletter2004-10.files/benkyokai2004-10.htm).

 なぜ戦後日本の政治家は,このように米国より差し出された「踏絵」を踏むことを逡巡(しゅんじゅん)してしまったのか.戦前の栄光の後光が余りにも強すぎて,徳川家康のように臥薪嘗胆して時宜の到来をじっと待つことが出来なかったのか,それとも米国に賭けた後に裏切られることに余りにも恐れたのか.今となっては後知恵でしかないが,冷戦後の米国の朝令暮改的な路線切り替えを甘受し,再軍備等の要求に直ちに応じていれば,その忠実な要求履行の経過を土台に後日の主権回復交渉で実質的な独立を勝ち取ることが出来ていたかも知れないのだ.親の忠告・意見素直に聞く耳を持たず,わが道を行き受験その他に見事に失敗して人生の道を誤る10代の若者に見られるような,「辛抱の無さ」を共通点として感じるが,戦後政治の世界は,向う見ずの若者と違い,もっと複雑で,多分それは世論と政治家の関係に原因を見出せるのではないだろうか.即ち,占領中の政治家の多くは.国民に対して現実を直視した正直な安全保障論議を呼びかける勇気や指導力が欠如していて,GHQの初期政策で洗脳的に刷り込まれた平和主義的思考から国民を覚醒させて新たな安全保障論議に呼び込むことが出来なかった.そのような国民に苦い薬を飲ませるような主張では,左翼系対立候補に攻撃材料を与えるようなものであって,選挙で負ける,と保守系の国会議員を躊躇させたに違いない.況してや,首相の吉田茂自身が再軍備に抵抗していたわけであり,戦前活躍した各界の指導者の多くが公職追放中で,各種メディアが占領軍に検閲されている環境では,正直な安全保障論議=軍国主義の復活の目論見,というような厳しい批判を受け,日本側からの働きかけは実質的に実現不可能だったと想像される.よって,GHQの勅令で強引に国民を覚醒させる以外手段が無かったことになる.しかし,マッカーサーの大統領選への皮算用,そしてGHQ内のGSとG2の抗争を考慮すると,米政府側の意向に日本政府が従順に従っていたとしても何処まで再軍備等を進められたか,これまた疑問となる.
 
 結局,問題の原点は日米開戦の過程まで遡ることになるのだろうか.必要以上に日本を悪魔化し,ナチス・ドイツと対等視した米側の反日プロパガンダが,日本敗戦後の極東情勢の読み違えと浅薄な日本史・文化理解と相俟って,誤った対日占領政策を布くことになり,冷戦出来後,慌てて方向転換を図るも,既に根付いてしまった初期対日政策の誤りを完全に是正することは出来なかった,という具合である.勿論,日米開戦で日米以外の第三者が漁夫の利を得ることはないか,というような大局的視点に欠け,米政府の開戦挑発に自らを落とし込んで行った日本の大国としての未熟さには全く弁護の余地はないが.


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