波士敦謾録

岩倉使節団ヨリ百三十余年ヲ経テ

英BBC制作Auschwitz: Inside the Nazi Stateを見て

2005-05-13 14:48:14 | 近現代史
当番組の内容を起こしたものは以下の網站で閲覧可能:

http://www.pbs.org/auschwitz/about/transcripts.html

第1-2話
 BBC制作のAuschwitz: Inside the Nazi Stateを米PBSで見た.今夜は,6回中2回まで放映された.最後まで見ないと,はっきりしたことは言えないが,表面を軽く撫でた程度の読書では知ることが出来ない,ホロコーストに至るまでのナチスの意思決定過程が丁寧に追われていた.また,生きるか死ぬかの土壇場的状態に追い込まれた時に,各人の人品が顕かになり,[自分の信条を取ったものには多分死が,]生きる延びることを選択したものには,代償として信条の放棄が不可欠だったようだ.土壇場に追い込まれたのは,収容所に送り込まれた人間だけでなく,新興国スロベニアも同国在住のユダヤ人をめぐってナチス独逸と取引をしてしまう.更に,連合軍のハンブルグ空襲で焼け出された独逸系ユダヤ人がポーランドのゲットーに送り込まれて共存を強いられたのだが,独逸ナショナリズムの浸透の御蔭で,独逸系ユダヤ人はポーランド系ユダヤ人を見下し,両者間には蟠りがあった模様で,或るユダヤ人の指導者(ナチスとの渉外担当)は其の立場を利用して美人ユダヤ女性を次々と手籠にするなど,「弱者だから倫理的に勝っている」というような暗黙の思い込みを打ち砕く例が続出する.この番組を制作した英国ですら,ナチスの迫害から逃れるためユダヤ人が殺到した際も受け入れを拒否した国の一つであり,独逸を一方的に批判できるような立場には無いはずだ.先日みた杉原千畝氏顕彰番組で触れられていたが,日本からの特使が米国のユダヤ人指導者を訪ねて,欧州ユダヤ人の満州受け入れ案を提示したが,全く取り合わなかったようだ.その理由は,欧州の状況が危機的状況になった場合,英米がユダヤ人を受け入れてくれる,と楽観的見通しを持っていた為だった.ところが,そのような期待は結局裏切られ,慌てて日本側に連絡を取った時には,「遅かりし由良之助」状態だった.

第3-4話
 今夜の回も聞いたことがなかった話が幾つかあった.卑近な話では,Auschwitz収容所群の中には,非ユダヤ系収容者に対して非ユダヤ系女性が慰安する棟があった,というものだ.証言している元収容者(男性)が「収容されてから,3年余り女性とは縁が無くて云々」と述べた辺りでは,年老いた彼の眼が妙に輝いていたような印象を受けた.また,死亡したユダヤ人の遺品を分別・整理していたのはユダヤ系女性だったが,彼女達を監視するドイツ兵の中には彼女達に懸想する連中もいて,或る女性は当初の嫌悪感にも拘らず此れを梃子にガス室で殺される寸前だった自分の妹を救出することに成功したとか.また,当時のドイツ兵は,ソ連との東部戦線等で戦死覚悟で苦労するよりも,Auschwitz等の軍紀が弛緩している収容所(金品等の着服・横領天国)で勤務する方が楽で付帯実益もある,というような印象を持っていたようだ.また,ドイツのユダヤ人国外要求に対する欧州諸国の反応についても,フランス沖合いにある英領の諸島では,元オーストリア系ユダヤ人を敵国人と認定して英本国への入国を拒み,その結果,彼女達は島からフランスに送り込まれて,Auschwitzで命を落とすことになる.占領下・非占領下のフランスが全在仏ユダヤ人ではなく「非仏系=仏に亡命中の他国籍」ユダヤ人の国外追放で手打ちをしたのに対して,デンマークでは,当地に派遣されていたユダヤ人問題担当者(ドイツ人)に国外追放をマジでやる気がなく,また市井のデンマーク人がユダヤ人を守ったり,スウェーデンへの逃亡を手助けしたため,在デンマークのユダヤ人の95%が生き延びることが出来たそうだ.それにしても,挿入されている元収容所勤務の存命SS兵達の証言は何故か日本的な個人的陳謝・懺悔の件が全くなく,当時の常識・生きていくための掟に従ったのみ,と断言する態度には,今日日の日本人は驚くに違いない.このような責任の所在の認識が,第二次大戦後6年経った1951年に,後に米大統領に就任することになる当時はNATO軍最高司令官だったアイゼンハワー将軍から,ドイツ軍自体には非がない,という公式謝罪の言質を一本取っただけのことはある,と納得せざるを得ない.

第5-6話
 第5話は主に1944年ハンガリーから国外追放処分になり,Auschwitzで命を落としたユダヤ系ハンガリー人を中心に話が進んで行き,最終回は1944年末,赤軍の侵攻によりAuschwitzが閉鎖される頃から戦後のナチス残党狩りあたりまでが収録されていた.ドイツがハンガリーにユダヤ人を国外追放することを求めた際に,独軍の戦局悪化を受けて,国外追放猶予と搬送用トラックの交換話を同地のユダヤ人指導者に持ちかけたことから,彼はトルコ・パレスチナでユダヤ人各種団体に働きかけるが,結局連合軍側は当該交換策には乗らなかった.よって,ハンガリーから国外追放が始まるのだが,限られた数の金持ちユダヤ人をノアの箱舟的にスイスへの出国を認め,結局交渉に当たったユダヤ人指導者がしぶしぶ其の名簿作成をすることになったが,ユダヤ人社会から満遍なく選択したのではなく,自分の故郷の一族を中心に選んだことが明らかだった.連合軍のノルマンディー上陸等の戦局悪化でハンガリー側が国外追放政策に協力しなくなった段階で,ドイツは自分達の息のかかった政党にクーデターを決行させて,国外追放策を進めることになった.Auschwitz閉鎖後の話では,同収容所で何とか生き延びた元赤軍捕虜は赤軍から洗脳を受けたスパイ扱いを受け,ロシアの強制収容所に盥回しにされて,或る元捕虜の場合,実際に開放されたのがスターリン死後の1953年だったとか.ユダヤ系収容所生存者(女性)の証言によると,Auschwitzを開放(?)し東欧を占領した西部赤軍は,満州に侵攻した東部赤軍と全く同じ行動類型で,侵攻地・占領地で集団的に強姦を繰り返していた.第二次大戦後,シベリヤに日本兵捕虜が抑留されて強制労働を強要されたが,欧州においても,ドイツ兵捕虜が英国で強制労働させらていた(赤軍側の捕虜になった独兵がソ連内で強制労働させらた事は知っていたが,英国も同等のことをやっていたのは初めて知った).ドイツによる強制収容所への空爆をユダヤ人団体が連合軍に対して求めた際,英国は米国に下駄を預けた趣の回答をし,米国は実現困難と当該要求を拒絶した.ところが,連合軍はAuschwitz収容所群の一角をなしていた化学工場を確り空爆し,同地の精密な航空写真まで撮影していたのだ.連合軍機が収容所を避けて化学工場のみ空爆したことが当時同収容所にいたユダヤ人達を如何に失望させたかが,同収容所での生存者が証言していた.

 1940年代の状況を念頭において考えてみると,同番組の中での証言にあったように,国際ユダヤ陰謀説を信じるナチス・ドイツは,「西側連合国内のユダヤ系国民は同国の政権の意思決定を左右できる」,と思い込んでいたが,実際のところ当時の英米内においてユダヤ人はそのような影響力を持っておらず,ユダヤ人救済が対独戦勝利の第一目的では無かった,ということか.収容所の空爆で救済される収容者数と収容所を無傷のまま接収し,戦後処理を有利に進めるための証拠保全とを天秤にかけて,後者の方を選択したという大義名分的解釈を与えることも可能だろう.別の視角からすれば,ナチス・ドイツを反ユダヤ主義の罪過に徹底的に染めさせた方が,終戦後のドイツ処分において,未来永劫的罪過の焼印をドイツに押しやすい,と考えたのかも知れない.

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