ドラえもんを私はあまり好きにはなれなかった。今でも私にとってあの漫画はどちらかというと子供には見せたくない漫画の部類に入ってしまうのだ。子供のころもポケットから出てくる道具は確かに魅力的ではあったがどうしてか「あの道具を代用すれば十分なのに、もったいない」とひねくれたことを考えていた。また話の構造が常に「のび太がいじめられる→ドラえもんに泣きつく→道具の登場→道具で打ち負かす→道具を悪用する→結局のび太が損をする」のパターンにすぐ飽きてもいた。ただしこの構造に人気の秘密が隠れているには違いないのだ。
のび太が虐げられるパターンにはいくつかあるが、特筆すべきは人と虐げられる理由が一対一対応になっている点である。ジャイアンには体力的権力で、スネオには資本的権力で、しずかには社会的権力で、出来杉には知的権力で、ママには親的権力で虐げられるのである。(ここにパパが入ってこないことは特筆すべきである。またしずかに対しては性的権力ともいえる力で全ての権力をコントロールされている場面も多々もある)これはまさに現代社会が抱える5大権力ともいえる。ドラえもんに泣きつくのび太、これは明らかにこれらに対しての強いコンプレックスの現われでもある。この5人さえいなければのび太はとても平和に幸せに生きることができたのだ。
さて、すべての切り札はドラえもんである。彼に頼めばすべてを解決してくれるのだ。最近ののび太はそのための手段を選ばない。昔は真実の悲しみからドラえもんが哀れんで道具を出してくれるパターンだった。元はといえばドラえもんはふがいないのび太のために未来から派遣されたのであった。がそういうことは毎回は許されず、いつのまにやらのび太のわがまま放題泣き放題、挙句の果てにはドラえもんをだましてまで道具をふんだくる回まで出現をみた。のび太にとって全ての解決の糸口はドラえもんであり、ドラえもんを攻略する方法さえ確立すればあとは何だっていい、という価値観にまである意味成長を見せた。この構図、歴史はどこでもみることができる。いつまでも無償で施しを受け続ける事など本当はできはしない。しかし一度そのシステムを手に入れてしまえば人間はそこから最大限の施しを長期に手に入れる方法を考えそれに完全に依存してしまう。
道具を手に入れた後はしばらくのび太の独壇場である。その道具で彼のコンプレックスと欲望を存分に満たすのである。そのときののび太の顔といったらどれだけ悪い顔か。それは虐げられたものの復讐の顔である。さらにいえばその際ののび太は意外とずる賢い。次から次へと悪巧みを思いつく。こういうときだけ頭がよく働くのも何かあるような気がする。つかの間の人生の謳歌である。しかしそれも長くは続かない。破綻のパターンはいくつかあるのだが、大きくは2つしかない。1.相手にドラえもんの道具だとバレる。あの世界ではドラえもんの道具で何かをするのは卑怯、ということになっている。最近では何かことあるごとに「のび太、またドラえもんに何か借りただろ」といわれる始末だ。その挙句道具を分捕られるか仲間はずれにあうかどちらかなのである。2.道具の使い方がわかっておらず制御不能になる。表層的使用法しかわかっていないため、その道具が及ぼす影響がわからず、使用しすぎたり、わからない使い方をしてみたりすることによる。まさに「身の程を知らない」ためである。この2つの結果最後はまたドラえもんに泣きつくのである。彼の道具のために引き起こした不幸であるにもかかわらず、のび太はドラえもんに依存するしかなくなっているのである。ドラえもんが現れてからあのコミュニティーは更に悪化を見せたはずである。のび太はドラえもん登場以前の方が仲間と楽しく過ごせていたと推測できる。回りの人たちからしても今やバックにドラえもんがついているのび太は対等に扱える存在ではない。一見そのほうがのび太は守られているように感じるがコミュニティーの観点から見れば彼は更に孤立を深めているはずである。この孤立はドラえもん依存を更に助長してもいるのである。ドラえもんに頼る限り彼は他の友人には相談できなくなっているのである。のび太周辺の友人関係はかなり微妙ではないか。空き地もある昭和40-50年代を彷彿とさせる設定でありながら信頼関係の築けないあの希薄な関係、まるで今の日本を予言するかのようなありさまである。携帯もない、テレビゲームも普及していない、いびつな繁華街もないあの町でドラえもんの存在のためにああいう関係が起こりうると予想していたことはすごいことではないか。
しかし依存されているドラえもんもそれほど馬鹿ではない。さすがに同じ手助けは2度はしない。そういう場合のび太がとるべき行動は1つである。現在の未解決になってしまった問題はおいておき、新たに問題を提示することである。ドラえもんは毎週その問題に対しては1度は手助けをしてくれるのである。問題といってもそれほどたくさんあるわけではないから、その問題は細分化してゆく。ジャイアンにいじめられた、のではなくジャイアンにこういう理由で、手段でいじめられたと。(ゆえに秘密道具は細分化したものになってゆく)細分化してゆくことでまだまだ道具は引き出せるのである。のび太は不満を次々と細分化させてゆくであろう。しかし本当に解決したい問題は上記5つの欲望くらいなのであり、細分化によって本来解決すべき問題が益々見えなく、かけ離れてゆく。完全な悪循環である。ドラえもんもどうすることもできない、というよりドラえもんも本質がもはや見えなくなっているのである。
ドラえもんとのび太の関係は権力への依存のからくりを見事に表現している。ドラえもんのとるべき行動は限られている。のび太から手を引くか、本質的問題に立ち返るか、のどちらかである。が本質的問題への立ち返りはきわめて難しいであろう。一度くらいは「どうしてそんなにジャイアンより力強くなりたいのかい?」と切り込んで見てもよいのではないだろうか。今度の映画で「ドラえもん、のび太の禅問答」と称してやっていただきたいものである。もしくは新たな価値観を提示したりはできないのだろうか。でもそれはロボットだから無理というものか。そういえばあの映画シリーズはその解決策をチラリと見せてはくれる。映画に限ってあの非日常環境で仲間は仲良く力を取り合い、のび太にも自立が見られるのである。ということは悪いのは日常なのか、あの町の構造なのか。。
のび太が虐げられるパターンにはいくつかあるが、特筆すべきは人と虐げられる理由が一対一対応になっている点である。ジャイアンには体力的権力で、スネオには資本的権力で、しずかには社会的権力で、出来杉には知的権力で、ママには親的権力で虐げられるのである。(ここにパパが入ってこないことは特筆すべきである。またしずかに対しては性的権力ともいえる力で全ての権力をコントロールされている場面も多々もある)これはまさに現代社会が抱える5大権力ともいえる。ドラえもんに泣きつくのび太、これは明らかにこれらに対しての強いコンプレックスの現われでもある。この5人さえいなければのび太はとても平和に幸せに生きることができたのだ。
さて、すべての切り札はドラえもんである。彼に頼めばすべてを解決してくれるのだ。最近ののび太はそのための手段を選ばない。昔は真実の悲しみからドラえもんが哀れんで道具を出してくれるパターンだった。元はといえばドラえもんはふがいないのび太のために未来から派遣されたのであった。がそういうことは毎回は許されず、いつのまにやらのび太のわがまま放題泣き放題、挙句の果てにはドラえもんをだましてまで道具をふんだくる回まで出現をみた。のび太にとって全ての解決の糸口はドラえもんであり、ドラえもんを攻略する方法さえ確立すればあとは何だっていい、という価値観にまである意味成長を見せた。この構図、歴史はどこでもみることができる。いつまでも無償で施しを受け続ける事など本当はできはしない。しかし一度そのシステムを手に入れてしまえば人間はそこから最大限の施しを長期に手に入れる方法を考えそれに完全に依存してしまう。
道具を手に入れた後はしばらくのび太の独壇場である。その道具で彼のコンプレックスと欲望を存分に満たすのである。そのときののび太の顔といったらどれだけ悪い顔か。それは虐げられたものの復讐の顔である。さらにいえばその際ののび太は意外とずる賢い。次から次へと悪巧みを思いつく。こういうときだけ頭がよく働くのも何かあるような気がする。つかの間の人生の謳歌である。しかしそれも長くは続かない。破綻のパターンはいくつかあるのだが、大きくは2つしかない。1.相手にドラえもんの道具だとバレる。あの世界ではドラえもんの道具で何かをするのは卑怯、ということになっている。最近では何かことあるごとに「のび太、またドラえもんに何か借りただろ」といわれる始末だ。その挙句道具を分捕られるか仲間はずれにあうかどちらかなのである。2.道具の使い方がわかっておらず制御不能になる。表層的使用法しかわかっていないため、その道具が及ぼす影響がわからず、使用しすぎたり、わからない使い方をしてみたりすることによる。まさに「身の程を知らない」ためである。この2つの結果最後はまたドラえもんに泣きつくのである。彼の道具のために引き起こした不幸であるにもかかわらず、のび太はドラえもんに依存するしかなくなっているのである。ドラえもんが現れてからあのコミュニティーは更に悪化を見せたはずである。のび太はドラえもん登場以前の方が仲間と楽しく過ごせていたと推測できる。回りの人たちからしても今やバックにドラえもんがついているのび太は対等に扱える存在ではない。一見そのほうがのび太は守られているように感じるがコミュニティーの観点から見れば彼は更に孤立を深めているはずである。この孤立はドラえもん依存を更に助長してもいるのである。ドラえもんに頼る限り彼は他の友人には相談できなくなっているのである。のび太周辺の友人関係はかなり微妙ではないか。空き地もある昭和40-50年代を彷彿とさせる設定でありながら信頼関係の築けないあの希薄な関係、まるで今の日本を予言するかのようなありさまである。携帯もない、テレビゲームも普及していない、いびつな繁華街もないあの町でドラえもんの存在のためにああいう関係が起こりうると予想していたことはすごいことではないか。
しかし依存されているドラえもんもそれほど馬鹿ではない。さすがに同じ手助けは2度はしない。そういう場合のび太がとるべき行動は1つである。現在の未解決になってしまった問題はおいておき、新たに問題を提示することである。ドラえもんは毎週その問題に対しては1度は手助けをしてくれるのである。問題といってもそれほどたくさんあるわけではないから、その問題は細分化してゆく。ジャイアンにいじめられた、のではなくジャイアンにこういう理由で、手段でいじめられたと。(ゆえに秘密道具は細分化したものになってゆく)細分化してゆくことでまだまだ道具は引き出せるのである。のび太は不満を次々と細分化させてゆくであろう。しかし本当に解決したい問題は上記5つの欲望くらいなのであり、細分化によって本来解決すべき問題が益々見えなく、かけ離れてゆく。完全な悪循環である。ドラえもんもどうすることもできない、というよりドラえもんも本質がもはや見えなくなっているのである。
ドラえもんとのび太の関係は権力への依存のからくりを見事に表現している。ドラえもんのとるべき行動は限られている。のび太から手を引くか、本質的問題に立ち返るか、のどちらかである。が本質的問題への立ち返りはきわめて難しいであろう。一度くらいは「どうしてそんなにジャイアンより力強くなりたいのかい?」と切り込んで見てもよいのではないだろうか。今度の映画で「ドラえもん、のび太の禅問答」と称してやっていただきたいものである。もしくは新たな価値観を提示したりはできないのだろうか。でもそれはロボットだから無理というものか。そういえばあの映画シリーズはその解決策をチラリと見せてはくれる。映画に限ってあの非日常環境で仲間は仲良く力を取り合い、のび太にも自立が見られるのである。ということは悪いのは日常なのか、あの町の構造なのか。。