医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

愛がなくなったのではない。死が消えてしまったのだ。

2006-01-23 14:25:26 | 日記
なんとなくまた「たそがれ清兵衛」が見たくなった。相変わらず個々の役者の動きのよさが目立つ。最初に子どもと遊ぶ宮沢りえと真田広之が目を合わせるシーン、子ども達のまなざし、下人の歩き方、お上に下手人成敗を命ぜられた時の真田の肩の動きの変化、前後の身体の使い方の変化には脱帽であった。余呉を討ち取りに行く時の宮沢りえが着替えさせる際の動き、田中泯と真田広之の殺陣シーンの腰の使い方、随所にみどころがあった。
あの映画の趣旨は実は清貧、謙虚、安寧のすばらしさではないのではないかと今回思った。清兵衛の武士として再度目覚めたシーンのあまりに大きな変化、そして朋江の清兵衛の家でのあまりのまぶしさ、これは両方ともに美しく圧倒される描写であり肯定されていた。この描写を際立たせるために清貧設定があったのではないかと思うほどに。
あの映画のキモ、それは死、喪失をもってそのものが得られるという虚無、そして死と愛がいつだって隣り合わせにしか存在し得ないという事実。これにつきるのではないか。清兵衛が朋江に抱いていた恋心。これは朋江の兄からの縁談を断って初めて表在化した。そして下手人討ち取りの命令、彼のここで死を覚悟したがゆえに生まれた朋江への告白。そのものを失う(失いかける)ことではじめてそのものが得られてしまうという事実。男性お得意の「恋人と別れて初めて気がつくあなたへの想い」と一緒である。愛とは失いかけているからこそ初めて意識化されて成立するものなのだ。あの映画では全ての登場人物が何かを失っており、その後の変化が明瞭に色分けされていた。本当に失ってしまった人、そうでなかった人。その対比もみごとであった。娘が最後に両親の墓参りをして終わってゆくシーンと途中の娘のナレーター。蛇足との意見も多かったがこう考えれば納得が行く。戊辰戦争で父を亡くしたとき彼女はそれほど大きくなかったはずである。おぼろげながらの父への記憶と母から聞かされた父の話。その思いはそれほど意識化されてはいなかったはずである。母亡き後初めて父についてその想いとともに語ることができた、父への愛。それがあの話なのである。
「たそがれ」とは日が沈みそうでまだ完全には暗くなっていないのである。相手の顔はまだ何とか見える、そのきわが最も美しく切ないのだ。そして一時でもそれをつかんだのが「たそがれ清兵衛」だった。

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