医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

死に際の環境という自己、そして文化

2006-01-05 23:26:45 | 医学ネタ
前回書いた老人観などは医療現場で沢山の老人とその生き様を見ていると否が応でもしみついてしまう。愚直な私はこういう現場に身をおいて初めてそういったことにようやく思いがいたったわけで、そういう意味ではありがたい職場といえるのかもしれない。本日で救急・ICUローテーション最後の日となったが、この3ヶ月様々な死の形にであってしまった。現代社会は恐ろしい事に人生の最期のほとんどを病院で終える事になる。つまり病院では最期の縮図をみることになる。前にも書いたが私はこの国家システムが非常にきらいである。

人が亡くなる時、周りにはいろんな環境が取り巻いている。必死で看病してくれる人たちがいる時、電話で「亡くなったら連絡下さい」という人しかいない時、看病に疲れ果て結局見殺しのような状態になってしまう時、近所の人がイヤそうに時々現れるだけの時、身よりのまったくない時。人それぞれポテンシャルの環境は様々でしょうが、やっぱり死に至る時に周りの環境がどうであるか、大きな問題となる。それを見据えて生きていかないとなかなか幸せな死は迎えられない。元気なうちにそのための努力というものもやはり必要でしょう。生きると言う事は死に場所を見つける事だと。最期の環境とはその人の生き様であり、そういう意味で自分の置かれている周りの環境はすなわち自分と同値である。あそこの家は家族がみんな冷たくて患者さんがかわいそう、ということもよくあることだがやはり本人が長時間かけてその関係を築いてしまったのだ。

カウントダウン方式の生き方は悪くない。死から逆算して生きてゆくことは恐怖ではなく幸福への掛け橋につながる。だが現代人の多くはそれが出来ない環境におかれている。資本主義はいつだって身勝手さを助長する。「私の好きなように生きたっていいでしょ」「迷惑かけなきゃ何やっていいでしょ」もちろんかまわないが、あなたは亡くなるとき必ず面倒をかけるのである、何らかの形で。その想像力には思い至れないように出来ている。何せ死というものに何の責任も必要のないシステムが構築されてしまっているから。病院、葬儀屋、火葬屋。死へのお世話から始末まで全部他人がやってくれる。死に対して生で接するチャンスは皆無に近い。カウントダウンは大晦日とロケット打ち上げだけの行事となってしまった。

今日も寝たきりとなった老人が「動かなくなった」という理由で運ばれてきた。見ると相当ほったらかされていたようでもうどうしようもない状態。救命は余りに困難でこれを何とかしろというのだろうか、とも思うのだが、本質的にはゴミ捨て場と同じ感覚なのだろうと思う。よく解釈しても彼らには「やばそう→救急車で病院へ」という方程式だけが出来ていて先のことなど考えてもいないのだろう。(この方程式を刷り込んだのは他でもない医療と国家なのだが)もう一つは自分達で死をみとる方法論が完全に廃れてしまったのだろう。(これも医療と国家が奪い去ってしまったのだが)医療の仕事の一つに死を彼らに返してあげるという大事業を加えるべきではないかと思う。ただし向こうはかなり嫌がるだろうが。
「文化とは死の風景である」我が師の教えである。もはや医療は文化事業とも融合してゆくのであろう。