芸術劇場 ―永遠に咲く花の如く~梅若六郎とプリセツカヤ 世界遺産に舞う―
(NHK教育TV 07/5/2放映)
この公演は、桜のちょうど綺麗な頃に、自宅から散歩圏内で行われるというので、行こうか行くまいかさんざん迷って、結局やめておいたもの。もしも普通のお能だったら絶対でかけたはずなのだが、パンフレットをいくら読んでも内容が判然とせず、よくわからないけどとりあえず行っといてみるかと思うほどには暇ではなかったし、チケットもお安くなかったし、出演者の熱いファンでもなかった。
それでも、中味には興味があったので、TV放映があったのはありがたかった。
番組には、当日の舞台だけでなく、その準備段階の模様や出演者のインタビューなども含まれており、それを見て、パンフレットでは詳細がわからなかったのも当然だと納得。
本人たちにもわからなかったのだ。
即興のコラボレーションであり、そのときになるまでどういうことになるのか誰も約束できなかった。まあ、一流の舞手が三人揃って何かするのだから、どうにかなるざんしょという、そのような企画だったと思われる。
番組では本公演のテーマを〈老い木の花〉としていたようだけれども、それはあまりピンとこない(だって、みんな歳を感じさせない動きをするから)。むしろ〈バレエと能と日舞のコラボレーション〉というテーマのほうが強くアピールする。
多分、ひとつの作品として見ようとすれば、この舞台は完成していない。場所が世界遺産の細殿だったことを思えば舞台装置の貧弱なことはいたしかたないとしても、プリセツカヤと勘十郎はそれぞれタイツや着物の上に能装束の長絹を引っかけただけだし、六郎は素顔で鳥の羽を肩にかけただけ、ほとんど袴能といった格好で、一見すると手抜きっぽい。
でも、ならばどのような装束がふさわしかったのかと問われると、あれ以外なかったような気もする。お能のきっちりした着付けをしてしまえば、コラボの中で〈能〉だけが強くなってしまうし、バレエや日舞の動きは制限されるだろう。といって、バレリーナがチュチュを着て、舞踊家が着流しで出て来たら、いかにコラボとはいえまとまりがなさすぎるだろう。
能役者があえて面も装束もつけず、バレリーナと舞踊家が少しだけ能っぽい衣装をまとう。そのあたりでバランスをとったということか。
面白かったのはプリセツカヤが、長絹をいたく気にいって、参考に六郎がロシアまで持参した古い衣装をいきなり纏って踊り出したことで、踊りやめたときには明らかに肩の裂地の弱ったところがぱっくり裂けてしまっていた。
当日の舞台でプリセツカヤが羽織ったのは、おそらく新しい長絹だったと思う(激しい動きに負けないよう、きっと縫いもしっかりしてたかも)。ただ、肩に掛けてひらひら袖を翻しながら舞うものだから、しまいには腕が袖から抜けて腋の空いたところからにょきっと出てしまい、踊りながら直そうとするけれどもどんどん肩位置がずれて修正不能になり(後見はいないし)、最後はめんどくさくなったのか一枚のマントのように首に巻いてしまったのは笑えた。
同じ条件下でも、勘十郎の襟元は最後まで乱れなかったのとは対照的だ。
そして、そのような中途半端な、まかり間違えばおかしなひとたちが舞台をばたばた跳ね回っていると評されかねない即興だったにもかかわらず、この舞台は魅力的だった。特に、長絹と風呂敷の違いもわからなそうなプリセツカヤから目が離せない。
勘十郎もよかった。日舞の技量において、その役割をまっとうに果たしているという意味においてよかった。
プリセツカヤのよさは、バレエの技量ではなく、情熱でもなく、なんだろう、強いて言えば〈存在感〉だろうか。わたしはこのひとのことはまったく知らないのに、そこには彼女の歩いてきた人生が〈形〉としてよりも〈密度〉として表現されているような、そんな気がして目を凝らしてしまう。
音楽もとてもよかった。〈ボレロ〉に和楽器を合わせているのがなかなかセンスよくて、舞なしで音だけ聴いていても楽しめそう。囃子方もなかなかやるなぁと感心してしまったのだけれど、調べたところ、この方たちは能楽専門の囃子方ではなくて、もっと広い意味での和楽器奏者らしい。こんなことは、まさにお手のもののようだ。
テレビで見た限り、この舞台が一般客向けの優れたエンターテインメントだったとは思えないけれども、意味のある前衛的な試み、試作品だったとは思う。そして、粗削りな試作品にしか出せないパワーみなぎる1シーンだったと思う。
*
番組の最後に、82歳のプリセツカヤがインタビューに答えていた。
「何度も背中を故障して、ふくらはぎは切れて、ここには手術の痕もある。くるぶしは二年間ずっとずれていて、全身傷だらけ。それでも踊り続けるのは何のため? 答は皆さんが出してください」
60歳の梅若六郎が言っていた。
「本当の自由とは、どこにあるのだろう」
舞台を見終わった後に聞くと、その重さがずしりと感じられる。
*****
能・バレエ・舞「ボレロ・幻想桜」(ラヴェル作曲「ボレロ」より)
07/3/30京都・上賀茂神社細殿にて収録
梅若六郎、マイヤ・プリセツカヤ、藤間勘十郎
小鼓:仙波清彦 笛・尺八:竹井誠 大鼓:望月秀幸
(NHK教育TV 07/5/2放映)
この公演は、桜のちょうど綺麗な頃に、自宅から散歩圏内で行われるというので、行こうか行くまいかさんざん迷って、結局やめておいたもの。もしも普通のお能だったら絶対でかけたはずなのだが、パンフレットをいくら読んでも内容が判然とせず、よくわからないけどとりあえず行っといてみるかと思うほどには暇ではなかったし、チケットもお安くなかったし、出演者の熱いファンでもなかった。
それでも、中味には興味があったので、TV放映があったのはありがたかった。
番組には、当日の舞台だけでなく、その準備段階の模様や出演者のインタビューなども含まれており、それを見て、パンフレットでは詳細がわからなかったのも当然だと納得。
本人たちにもわからなかったのだ。
即興のコラボレーションであり、そのときになるまでどういうことになるのか誰も約束できなかった。まあ、一流の舞手が三人揃って何かするのだから、どうにかなるざんしょという、そのような企画だったと思われる。
番組では本公演のテーマを〈老い木の花〉としていたようだけれども、それはあまりピンとこない(だって、みんな歳を感じさせない動きをするから)。むしろ〈バレエと能と日舞のコラボレーション〉というテーマのほうが強くアピールする。
多分、ひとつの作品として見ようとすれば、この舞台は完成していない。場所が世界遺産の細殿だったことを思えば舞台装置の貧弱なことはいたしかたないとしても、プリセツカヤと勘十郎はそれぞれタイツや着物の上に能装束の長絹を引っかけただけだし、六郎は素顔で鳥の羽を肩にかけただけ、ほとんど袴能といった格好で、一見すると手抜きっぽい。
でも、ならばどのような装束がふさわしかったのかと問われると、あれ以外なかったような気もする。お能のきっちりした着付けをしてしまえば、コラボの中で〈能〉だけが強くなってしまうし、バレエや日舞の動きは制限されるだろう。といって、バレリーナがチュチュを着て、舞踊家が着流しで出て来たら、いかにコラボとはいえまとまりがなさすぎるだろう。
能役者があえて面も装束もつけず、バレリーナと舞踊家が少しだけ能っぽい衣装をまとう。そのあたりでバランスをとったということか。
面白かったのはプリセツカヤが、長絹をいたく気にいって、参考に六郎がロシアまで持参した古い衣装をいきなり纏って踊り出したことで、踊りやめたときには明らかに肩の裂地の弱ったところがぱっくり裂けてしまっていた。
当日の舞台でプリセツカヤが羽織ったのは、おそらく新しい長絹だったと思う(激しい動きに負けないよう、きっと縫いもしっかりしてたかも)。ただ、肩に掛けてひらひら袖を翻しながら舞うものだから、しまいには腕が袖から抜けて腋の空いたところからにょきっと出てしまい、踊りながら直そうとするけれどもどんどん肩位置がずれて修正不能になり(後見はいないし)、最後はめんどくさくなったのか一枚のマントのように首に巻いてしまったのは笑えた。
同じ条件下でも、勘十郎の襟元は最後まで乱れなかったのとは対照的だ。
そして、そのような中途半端な、まかり間違えばおかしなひとたちが舞台をばたばた跳ね回っていると評されかねない即興だったにもかかわらず、この舞台は魅力的だった。特に、長絹と風呂敷の違いもわからなそうなプリセツカヤから目が離せない。
勘十郎もよかった。日舞の技量において、その役割をまっとうに果たしているという意味においてよかった。
プリセツカヤのよさは、バレエの技量ではなく、情熱でもなく、なんだろう、強いて言えば〈存在感〉だろうか。わたしはこのひとのことはまったく知らないのに、そこには彼女の歩いてきた人生が〈形〉としてよりも〈密度〉として表現されているような、そんな気がして目を凝らしてしまう。
音楽もとてもよかった。〈ボレロ〉に和楽器を合わせているのがなかなかセンスよくて、舞なしで音だけ聴いていても楽しめそう。囃子方もなかなかやるなぁと感心してしまったのだけれど、調べたところ、この方たちは能楽専門の囃子方ではなくて、もっと広い意味での和楽器奏者らしい。こんなことは、まさにお手のもののようだ。
テレビで見た限り、この舞台が一般客向けの優れたエンターテインメントだったとは思えないけれども、意味のある前衛的な試み、試作品だったとは思う。そして、粗削りな試作品にしか出せないパワーみなぎる1シーンだったと思う。
*
番組の最後に、82歳のプリセツカヤがインタビューに答えていた。
「何度も背中を故障して、ふくらはぎは切れて、ここには手術の痕もある。くるぶしは二年間ずっとずれていて、全身傷だらけ。それでも踊り続けるのは何のため? 答は皆さんが出してください」
60歳の梅若六郎が言っていた。
「本当の自由とは、どこにあるのだろう」
舞台を見終わった後に聞くと、その重さがずしりと感じられる。
*****
能・バレエ・舞「ボレロ・幻想桜」(ラヴェル作曲「ボレロ」より)
07/3/30京都・上賀茂神社細殿にて収録
梅若六郎、マイヤ・プリセツカヤ、藤間勘十郎
小鼓:仙波清彦 笛・尺八:竹井誠 大鼓:望月秀幸
モヤモヤ感が強かったのですが、この記事に触発されて私なりに感想を
文章化できました。ありがとうございました。
久々にちゃんとした記事を書いた気がしています。
それにしても、何故アップにするのか、この手の番組のカメラワークには
いつも憤りを感じます。
もし、82歳のプリセツカヤと言うことを強調したい
のだとしたら、残酷だなあ
私は、彼女の年齢はしつこく言われない限り全く
気にも止まりませんでした。
面をつけない六郎さんのアップは、たしかに辛かった。。。(^_^;)
いい曲を選ばれたな、と思いました。
それぞれの方々の、本来の舞台を生で見たい!と思わされました。