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田代先生には学生時代フランス語を教わっていたことがある。能楽の研究をされていることをちらりと聞いたことはあったけれども、当時のわたしはお能になどまったく興味がなかった。
それが、こんなに素晴らしい研究だったとは…。
なんと言っても、論文としてエレガントなのだ。論の運びがしなやかで、流麗な文章がすんなり頭に入ってくる。強引な部分がなく、繊細で緻密だ。
何もわからぬままお能を観て愉しんでいて、詞章についてもうちょっとわかりたいなぁと思ったとき、わたしが望んだのはその文学的側面だと思う。
お能のストーリーには曖昧な部分が多くて、それを理詰めで追究しようとすると野暮だと思われたり、お能はそういうものではないとやんわり諭されたりしがちがけれども、少なくとも書いた本人は、曖昧なものを書こうと思って書くわけはないし、まして矛盾に気づけば絶対にそんなものは許さないはずだ。作家意識とはそういうものだ。それを「お能は理屈やありまへん」と曖昧さや矛盾を放置して平気な演者がいるとしたら、それはやはり怠慢や奢りではないかと思う。
本書は「文学としての謡曲」「『熊野』を読む」「『景清』を読む」「『蝉丸』を読む」の4章からなっており、だいぶ昔に「文学としての~」を読んで感動したままおいてあったのを、今度「熊野」を観るにあたって続きを読んだ。
「熊野」の人間関係は1対1ではなく、むしろ三角関係(引き合う恋人同士の引力に、遠方から母の力が作用している)なのだと明確に捉えるあたりハッとさせられた。なにげに読み飛ばしてしまいそうな母の手紙に込められた心理操作のテクニック、考えてみれば熊野の母は遣手婆でもあるのだろう、そうとうしたたかな一面を持っている。(念のために言えば、田代先生はこのような卑俗な言葉は決して使わない。あくまでエレガントに表現するのである。)
そうすると、ここで憂い嘆いているのは熊野のみではない。熊野の純情を利用して自分から恋人を取り上げようと(一時的かもしれないが)する母親のエゴも手管も見えていて、それでも恋人を泣かせるよりは、ここはひとつ負けておいてやろうかどうしようかとためらう男心のほうがむしろ繊細かもしれないと、そんなふうにも思えてくる。
もちろんそれが唯一正しい解釈だと言うわけではなく、ひとつ丁寧に読み込んだだけで、そこに演技の可能性が無限に広がるということ。「熊野」は、ただ都の錦が美しくイメージできればそれでいいという曲ではないし、宗盛は権力を振りかざすだけのバカ殿ではないかもしれないということ。そのような発見が嬉しいのだった。
難しい曲に遭遇したときにこんな手引きがあればこれ以上のことはないので、同氏の『夢幻能』も注文したところ。
熊野のくだりは特に興味深くこの3曲以外にも
ここまで注釈してくれるテキストがあればなあと
当時思ったりしたものでした
興味につられて買った「夢幻能」は
いまだあけてないまま本棚でほこりをかぶっています(^^;)
意見が合って嬉しいです\(^0^)/
今読んだらまた違う発見もあるかも(わくわく)
今日たまたま新聞の片隅で紹介されていた本ですが
横道萬里雄の「能にも演出がある」というのは
能の演出や小書きについて詳述しているみたいでそそられました
月扇堂さんもご興味があるかもと思い紹介しておきますね
綺麗な本ですね。
まだ積ん読状態ですがーー(_ _;)
また読後感想アップ楽しみにしてますね(^^)
僕もみかけたら買ってみようかな