「時雨殿」で再現されていたジオラマに刺激されて、史上最も盛大に行われた「天徳四年内裏歌合」について、まとめておくことにしました。
*「内裏図」以外の画像は、時雨殿の展示物。(撮影可のもののみ)
歌の題は、「霞」1、「鶯」2、柳1、桜3、山吹1、藤花1、暮春1、初夏1、郭公2、卯花1、草草1、恋5で、計12題20番の勝負。
歌人は、左方が、藤原朝忠、源順、壬生忠見、小野好古、大中臣能宜、少弐命婦、坂上望城、本院侍従。右方が、平兼盛、藤原元真、中務、藤原博古。
講師(歌を読み上げる役)は、左:源延光、右:源博雅。
(お人形は、装束の地紋もひとりひとり違っていて、細かいこだわりが見えます。ただ、博雅君は右方なのにこの色でよいのだろうか…講師だからよいのかしら…ちょっと疑問。)
この日はいくつかトラブルがあって、右方の文台は早く出て来たのに、左方の文台がなかなか持ち出されず遅くなります。
また、鶯の題の歌を詠み上げるべきところ、博雅が誤って次の柳の題の歌を詠んでしまいました。
そのあたりの様子は、岡野玲子のコミック「陰陽師」7巻にも記されています。
左方優勢のうちに勝負は続き、いよいよ最後の一番となります。お題は「恋」。
これが有名な、壬生忠見と平兼盛の勝負。
左方(壬生忠見)
こひすてふわがなはまだきたちにけりひとしれずこそおもひそめしか
右方(平兼盛)
しのぶれどいろに出でにけりわがこひはものやおもふとひとのとふまで
どちらも甲乙つけがたい秀歌で、判者は勝敗を決めかねます。これまでいくつも持(引き分け)にしてしまったし、最後は引き分けにしにくいところ。
判者は、左大臣藤原実頼。向かいの高明に相談しますが、高明は「わかりませんっ」とばかりに顔を伏せてしまいます。いつまでも決められないので、講師たちが何度も何度もそれぞれの歌を詠み続けます。
と、御簾内から「忍ぶれど…」と帝が呟いているのが聞こえます。帝は帝でどちらがよいか比べていただけなのかもしれませんが、とにかくそれが聞こえたので、そちらのほうが御意にかなうだろうと判断し、実頼は右歌を勝としました。
結局、左方10、右方5、引き分け5で、総合優勝は左方。
小庭で勝ち数を記録している童。州浜に串を刺していきます。
(数合ってるのかなぁ。子供なので、朦朧としているのかも。夜更けだし(^_^;) )
その後、夜の明けるまで優雅な管弦の遊びが続きました。
「沙石集」には、最終番の判に納得できなかった壬生忠見が、何も喉を通らなくなり伏してやがて死んだと伝えていますが、本当かどうかはあやしいようです。
ただ、この日、忠見はいくつか歌を詠んでいますが、郭公の歌でも明らかに勝った出来だったのに判者のミスで引き分けにされるなど不運続きではありました。
一般に歌人は身分の低いことが多く、歌合の場には招かれません。この日も忠見は事後にこれらの判を聞かされたものと思われます。
「小倉百人一首」には、どちらの歌も採られていますが、左方右方の順ではなく、勝敗を考慮してか兼盛の歌の方が前に置かれています。
以上。
なお、「歌合」というものについては、先月17日の陽明文庫講座も、ご参考まで。
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*「内裏図」以外の画像は、時雨殿の展示物。(撮影可のもののみ)
■■■ 天徳四年内裏歌合 ■■■
■とき■
天徳四年(960年)3月30日
(↑おや! 1053年前の今日ですね。旧暦でしょうが。)
■ところ■
内裏、清涼殿
清涼殿というのは、このあたりです。
お人形さんの向きと同じになるよう、内裏図は横向きにしてあります。
「内裏図」クリックで拡大します。
ここに、このように並びました。
「配置図」
■主催者■
村上天皇(926ー967)←34歳のときですね
この方です。
このジオラマは、歌合風景の一部分です。よくみると、建物の梁が途切れています。上のカラーの配置図の中の四角で囲った部分のみが再現されているので、実際にはこの外へも建物は続き、大勢がずらりと並んでいました。
前の年に男性たちによる内裏詩合(漢詩)が盛大に行われました。それがきっと楽しそうだったのでしょう、女房たちからも、わたしたちだって歌合をしたいわ♪ と望む声があがり、和歌くらべが開かれることになりました。天皇におねだりしたってとこでしょうか。
なので、方人には女性陣も並んでいます。
方人として、女性は各方14名、男性は各17名!
ここには数体のお人形しかないのでわかりにくいですが、この時、左方は赤系(赤や藤色)、右方は青系(青や緑)の色で装束を揃えており、それは壮観な眺めだったようです。歌を載せる文台も贅をつくしたもので、後の範となりました。
天徳四年(960年)3月30日
(↑おや! 1053年前の今日ですね。旧暦でしょうが。)
■ところ■
内裏、清涼殿
清涼殿というのは、このあたりです。
お人形さんの向きと同じになるよう、内裏図は横向きにしてあります。
「内裏図」クリックで拡大します。
ここに、このように並びました。
「配置図」
■主催者■
村上天皇(926ー967)←34歳のときですね
この方です。
このジオラマは、歌合風景の一部分です。よくみると、建物の梁が途切れています。上のカラーの配置図の中の四角で囲った部分のみが再現されているので、実際にはこの外へも建物は続き、大勢がずらりと並んでいました。
前の年に男性たちによる内裏詩合(漢詩)が盛大に行われました。それがきっと楽しそうだったのでしょう、女房たちからも、わたしたちだって歌合をしたいわ♪ と望む声があがり、和歌くらべが開かれることになりました。天皇におねだりしたってとこでしょうか。
なので、方人には女性陣も並んでいます。
方人として、女性は各方14名、男性は各17名!
ここには数体のお人形しかないのでわかりにくいですが、この時、左方は赤系(赤や藤色)、右方は青系(青や緑)の色で装束を揃えており、それは壮観な眺めだったようです。歌を載せる文台も贅をつくしたもので、後の範となりました。
歌の題は、「霞」1、「鶯」2、柳1、桜3、山吹1、藤花1、暮春1、初夏1、郭公2、卯花1、草草1、恋5で、計12題20番の勝負。
歌人は、左方が、藤原朝忠、源順、壬生忠見、小野好古、大中臣能宜、少弐命婦、坂上望城、本院侍従。右方が、平兼盛、藤原元真、中務、藤原博古。
講師(歌を読み上げる役)は、左:源延光、右:源博雅。
(お人形は、装束の地紋もひとりひとり違っていて、細かいこだわりが見えます。ただ、博雅君は右方なのにこの色でよいのだろうか…講師だからよいのかしら…ちょっと疑問。)
この日はいくつかトラブルがあって、右方の文台は早く出て来たのに、左方の文台がなかなか持ち出されず遅くなります。
また、鶯の題の歌を詠み上げるべきところ、博雅が誤って次の柳の題の歌を詠んでしまいました。
そのあたりの様子は、岡野玲子のコミック「陰陽師」7巻にも記されています。
左方優勢のうちに勝負は続き、いよいよ最後の一番となります。お題は「恋」。
これが有名な、壬生忠見と平兼盛の勝負。
左方(壬生忠見)
こひすてふわがなはまだきたちにけりひとしれずこそおもひそめしか
右方(平兼盛)
しのぶれどいろに出でにけりわがこひはものやおもふとひとのとふまで
どちらも甲乙つけがたい秀歌で、判者は勝敗を決めかねます。これまでいくつも持(引き分け)にしてしまったし、最後は引き分けにしにくいところ。
判者は、左大臣藤原実頼。向かいの高明に相談しますが、高明は「わかりませんっ」とばかりに顔を伏せてしまいます。いつまでも決められないので、講師たちが何度も何度もそれぞれの歌を詠み続けます。
と、御簾内から「忍ぶれど…」と帝が呟いているのが聞こえます。帝は帝でどちらがよいか比べていただけなのかもしれませんが、とにかくそれが聞こえたので、そちらのほうが御意にかなうだろうと判断し、実頼は右歌を勝としました。
結局、左方10、右方5、引き分け5で、総合優勝は左方。
小庭で勝ち数を記録している童。州浜に串を刺していきます。
(数合ってるのかなぁ。子供なので、朦朧としているのかも。夜更けだし(^_^;) )
その後、夜の明けるまで優雅な管弦の遊びが続きました。
「沙石集」には、最終番の判に納得できなかった壬生忠見が、何も喉を通らなくなり伏してやがて死んだと伝えていますが、本当かどうかはあやしいようです。
ただ、この日、忠見はいくつか歌を詠んでいますが、郭公の歌でも明らかに勝った出来だったのに判者のミスで引き分けにされるなど不運続きではありました。
一般に歌人は身分の低いことが多く、歌合の場には招かれません。この日も忠見は事後にこれらの判を聞かされたものと思われます。
「小倉百人一首」には、どちらの歌も採られていますが、左方右方の順ではなく、勝敗を考慮してか兼盛の歌の方が前に置かれています。
以上。
なお、「歌合」というものについては、先月17日の陽明文庫講座も、ご参考まで。
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実は今ヨーロッパ滞在中。
つい比較してしまうんですよ。
どうぞ、お気をつけて。よい旅を!
(お仕事かしら…?)
噂には聞いてはいましたが、とっても充実しておりますね。楽しそ~~
百人一首は、最近杉田圭さんの漫画とアニメ「超訳百人一首・うた恋い。」で、どひゃ~の展開になっておりますが
(まあこれはこれでおもしろいですけどね)
こういう施設でより深く楽しめるのもよろしいですね。
今度絶対行こ~~!
見てみたいです(^_^)
時雨殿、機会がございましたらぜひ♪