月扇堂手帖

観能備忘録
あの頃は、番組の読み方さえ知らなかったのに…。
今じゃいっぱしのお能中毒。怖。

能狂言鬼滅の刃

2022年12月11日 | 観能記録2
    

(大阪・大槻能楽堂)

結論から言うと面白かった。

鬼を斬りながら鬼の悲しみに寄り添う「鬼滅の刃」の世界観は極めて能楽との親和性が高い。以前、能楽師の方からそう聞いたとき、なるほどその通りだと思った。

けれど長大な物語を語るのにお能は適さない。どちらかといえばひとつの出来事を深く深く掘り下げていくのが得意なジャンルだろう。例えば禰󠄀豆子の話、真菰たちの話、あるいは累たちの話、どれもすぐにお能になりそうだけれど、コミックにして23巻あるストーリー全てを取り込むのは難しい。

これを克服するため〈五番立ての構成を一曲の中に盛り込む〉と言うアイディアには脱帽した。なるほどそれならばさまざまなトピックのみならず、「鬼滅」の中にあるシリアスな面もコミカルな面も耽美的な面もグロテスクな面も、優しい面も荒々しい面も……全てを取り込むことができる。この思惑は成功していたと思う。

もちろん、本来は一日がかりで演じる五番立て(能5曲狂言4曲)をわずか100分の中に落とし込むのだから、結果的に各場面の羅列に終わった感はある。先述のように禰󠄀豆子の話、真菰たちの話……とトピックを限定すればもっと馴染みのあるお能の形に近づける事はできたとも思う。が、それは多分「鬼滅」でなくてもできたことだ。「鬼滅」の世界観をお能で表現する、ということがテーマだったとすれば、これ以上の出来はない。

専用面をかなりたくさん作っており、装束もコミックに準じている。つまり抽象度が減っている分、2.5次元の舞台に寄っていってしまう。そこを踏みとどまって能楽として構成する匙加減が難しかったという。そうした配慮もさりながら、役者ひとりひとりの能楽師としての技量が一番モノを言っていた。とりわけ炭治郎を演じた大槻裕一君の安定感が〈能〉から逸脱してしまうことを防いだ。伊之助や善逸に狂言方を配したのもよかった。脇方は義勇という良い役どころをもらっていた。「そのとき義勇少しも慌てず……」
一部誰の役だったか歌舞伎調の喋りがあったのは若干違和感を感じた。

というわけで、予想以上に楽しめた舞台だったわけだけれど、再来年にはスーパー歌舞伎「鬼滅の刃」も公開されるということで、セットも凝っている、宙乗りもあり得るというような歌舞伎と比べられた場合、能狂言「鬼滅の刃」のアイデンティティはどこにあるかといえば、やはりエンタテインメントではなく宝生流お家元説くところのアンビエントな方向へ持っていくことではないだろうか。本当に一日がかりで演じる五番立て能狂言に育てるというのも(ここまで装束や道具ができていれば)可能な気がする。

それにしても、ノベライズされアニメになり映画にもお芝居にもなる「鬼滅の刃」、「孫悟空」並みの偉大な物語なのかも。

以下メモ
・地謡と囃子方の位置が通常とは逆
・構成
 翁=新作儀礼『日の神』
 脇能=新作能『狭霧童子』
 修羅能=新作能『藤襲山』
 狂言=新作狂言『刀鍛冶』
 鬘能=新作能『白雪』
 狂言=新作狂言『鎹鴉』
 雑能=新作能『君がため』
 切能=新作能『累』
  パンフレットにはこのように書かれていたが、実際には『白雪』の後に鬼舞辻無惨の独白劇が挟まっていたり、記載と異なる部分多し(パンフレットの詞章は未完成の第一稿で、独白部分は切能のアイ狂言扱いだった)。
  ここに書かれているように一場一場を独立した能、狂言と考えるなら、この先それぞれを膨らませて古典に寄せた作品にしていくこともできそう。
・作り物は、鍛錬中の大岩(二つに割れる)、禰󠄀豆子の入る葛籠、藤紋ついた大宮。
・チラシやパンフレットに大きく描かれる侍烏帽子の炭治郎絵は、ポーズをとった裕一君をモデルにしている。
・見所には常の能公演のような緩みもなく、満席の客が全て舞台を見つめて全集中しており、特別な空気感だった。
・一応禰󠄀豆子柄の着物で参りました♪

新作能 望恨歌(マンハンガ)

2019年04月20日 | 観能記録2


多田富雄没後九年追悼能公演(東京・国立能楽堂)

昨日はお能を観にちょっと東京まで。(お金も時間もないので、最近こういうことはしないようにしているのですが……)。

多田富雄氏の新作能「望恨歌(マンハンガ)」です。多田氏について語ると長くなるので、それは端折って、これは、戦時中日本に強制連行されて働かされた朝鮮人の悲劇を扱った作品です。

重いテーマですし、昨今の日韓関係を考えると、「とっても観たい!」という気にはなかなかならないお能かもしれません。

ロビーで抗議活動されていたりしたら怖いな、とか…。

が、行ってよかったです。ほんとうによかった。

まず、〈恨〉の文化についてわたしの中に誤解があったようです。他者を恨みアイゴーアイゴーと喚いて決して許さない文化というような理解でいましたが、ソン・ヘギョン氏によれば、そうではなく、「外部からの衝撃によって生じた未解決の心理、わだかまりを、外へ発散せず内部に沈殿させること」であると。

ついでに言うと、日本は〈怨〉の文化で仕返しをするけれども、〈恨〉はしないのだと。

逆ではないかという気もしないではありませんが、そのあたりでムキになると大切なものが壊れるので、掘り下げないことにして…。

物語は、九州の炭坑で亡くなった人々の遺品から新妻に宛てた書きかけの手紙が見つかり、これを妻の元へ届けようとある僧侶が海を渡るところから始まります。

夫と引き裂かれたときには若かった妻も、今ではすっかり老いて、気むずかしいお婆さんになっています。日本人など見たくもないのですが、待ち焦がれて待ち焦がれてついに再開できなかった夫からの手紙を見せられ、やっと会えましたねと泣き崩れます。そうして舞う〈恨〉の舞。

しわしわの顔、真っ白な髪にもかかわらず、結婚式に新婦がするような装いで冠(ティアラのような役割でしょうか)をつけた彼女の姿は憐れみを誘います。昔のことだとか、悪いのは誰だとか、そういうこと以前に、悲惨な境涯には誰であれ同情せずにはいられません。

事件は、その舞の終わったときにおきました。

シテの老女が舞い終えて安座した瞬間、冠と面がはずれて床に落ちました。するとそこにシテの素顔がありました。

昨日のシテは女性だったのです。役柄と年齢も違わない女性です。彼女は動じず、そのまま直面で語り続けました。いえ、動じなかったというのは違うと思います。動じたはずです。そこから一気に場の緊張感が増して、異次元の域に入ったように感じました。鳥肌が立ちました。

言うまでもなく、お能は長く男性社会で、女性能楽師に活躍の場は少なかったことでしょう。このおシテは、そのような中にあって草分け的な存在なのだと思います。女性能楽師の道を切りひらくべく尽力されてきたようにも聞きました。

その方が、舞台で面を落とす…。

それが失態には見えなかったのです。「直面で舞え」と、「女性であることを隠す必要はない」と、お能の神さまが言ったのではないかと、そんなふうに感じました。たとえば、これが「鷺」という曲なら、男性能楽師は直面で舞います。老婆の役なのですから、年輩の女性なら面はいらない理屈です。

東京まで行って、ほんとうによかったです。


追)しかし、一晩たって思い返してみると、男だ女だはこの際関係ないのかもしれない、初演の橋岡久馬師のとき同じことが起こっても、事態は同じように推移したかもしれないと思えてきました。性別を超越した直面でした。
確実なのは、あのとき面が落ちなかったら、わたしは「望恨歌」という作品の意義深さには気付いても、能楽師鵜澤久の凄さには気づかぬままだったろうということです。(4/21)
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あまりに感動したので、また書いてしまいました。