月扇堂手帖

観能備忘録
あの頃は、番組の読み方さえ知らなかったのに…。
今じゃいっぱしのお能中毒。怖。

能のことばを読んでみる会「東北」

2015年05月10日 | 講義
講師:柏木ゆげひ(京都・京都北文化会館)



前回「清経」を、あの八尾定さんで催すと聞いてとても参加したかった(てっきり八尾定でごはんも食べるのだと思っていたから)けれども、よんどころない事情で断念。資料だけでも入手したいなと思っていたところ、今回は、家の近所の文化会館が会場と知り、喜び勇んで参加してまいりました。

輪読形式で読んでいって現代語訳していただいて、ひっかかったところがあれば気楽に発言して、それによって新しい発見があったりもして、身の丈に合ったありがたい勉強会でした。

何と言っても先生渾身の作である資料が素晴らしい! いつでも振り返って自習できるようコンパクトにすっきり、しかし美しく盛りだくさんな内容で、コピー代だけでいただいてしまってよいのだろうかと申し訳なくなります。

しかもきょうらんさんのかわいイラスト付き(^_^)

軒端の梅は紅梅だったのではないかという指摘は、ちょっとユウレカだった。
寝所に関する用語がやたら多いのも暗示的だとおっしゃっていた方もいた。

若い方々が多かったけれど、みなさん物知りで勉強になります。会場は毎回変わるようなので、行けるときにはまた参加したいです。

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平安のみやびな競技「歌合」とその資料

2013年02月17日 | 講義
陽明文庫講座「今にいきづく宮廷文化 第3回」 講師:名和修

今様謌舞楽会の歌合せで歌人をさせていただく機会が増えたので、歌合せというものについて、もう少し勉強せねばと思っていたところ、ナイスな企画だった。

もちろん、これは、和歌の歌合せがテーマだ。

「類聚歌合」の総目録や、「天徳四年内裏歌合」のときの配置図など貴重な資料も配られた。

「天徳四年内裏歌合」というのは、歌合史上最大の規模を誇り後世にも大きく影響したもので、その詳細が伝わっている。

最後の一番が〈忍ぶ恋〉の題で、

左方(壬生忠見)「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」
右方(平兼盛) 「忍ぶれど色に出にけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで」

双方秀歌で判者も迷い、天皇が「忍ぶれど…」と口ずさんだのを御意と解釈して右の勝ちとしたため、負けた忠見が病んだ末死んでしまったという話は有名だ。

以下、メモ。

・記録に残る最古の歌合せは、在原行平邸で催された「民部卿家歌合」(仁和元年885-三年888)。
・「相撲(すまい)」や「賭弓(のりゆみ)」「競馬(くらべうま)」などの競技を参考に考えられた文系競技だったのでは?
・純粋に競技として催されることもあれば、勅撰集編纂の準備として集歌を目的に催されることもあった。
・〈方人(かたうど)〉左右に分けられた参加者。代表者は〈方人の頭(とう)〉。
・〈念人(ねんにん)〉方人に対する応援者。
・〈判者(はんじゃ)〉左右の優劣を判定する。判定理由を記したものが〈判詞〉。
・〈講師(こうじ)〉和歌を詠み上げ披講する。
・〈歌人(かじん)〉和歌の作者。身分が低いことが多くたいてい歌合せの場には招かれない。
・〈文台・州浜〉州浜の形状にした島台の作り物。優雅に装飾を競い、和歌をこれに載せた。
・〈員刺・算刺(かずさし)〉勝数を数えるため、一勝ごとに串を刺すこと。その用具。
・「天徳四年内裏歌合」では、左右の方人が装束を赤系青系に色調を揃えた。
・「天徳四年内裏歌合」の様子が、嵐山時雨殿に人形の模型で展示されている。

最初の歌合せを催したとされる行平は、「松風」の行平だ。
先日、業平のアウトローぶりと対照的な行平の出世ぶりのお話を聞いたところだったが、それが実感された。

州浜のことがよくわかったのもありがたかった。飾り物の文台のほうはなんとなく知っていたけれども、庭先にある州浜型のものがよくわからなかった。ここに串を刺していくとの説明に「あれか!」と膝を打つ。先日、梨木神社で小笠原流三三九手挟式の奉納を見たとき、命中すると盛り上げた土に串を刺していた。

いろいろなところで見聞きした事柄が、思いがけずつながったときって、ちょっと嬉しいですね♪

名和先生の講座の後、前回の講座で発表された「俊寛の書状発見」について再度詳細な報告があった。

俊寛のサインの決め手になったのは、虫食い修理の外側にほんの少し滲んでいる墨(500倍ルーペで確認した)だったとか(^_^;) 
かなりややこしい説明だったので全部理解したとは言えないけれど、発見した研究者たちの興奮だけはしっかり伝わってきたのでした。

(付記)
家に「近衛家陽明文庫」展の図録があって、歌合せについてさまざな解説を発見。
講演会とこの図録でかなりのことがわかった。
 

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能を楽しむ夕べ

2012年08月11日 | 講義
(京都・関西セミナーハウス)


お友達に誘われて、関西セミナーハウスへ。
ここに能舞台があるとは今まで知らなかった。

「東北」を一曲見られるのかと思ったらそういうわけではなく、装束や着付けについての解説と、装束を着けたおシテによる「東北」の一部実演という内容。

まだ若干明るかったけれども、薪能の風情もあり、下界の暑さに比較してとても涼しく、ヒグラシの声が秋を感じさせて雰囲気は満点(ただし、後半、館内でバーベキューが始まったらしくお子様方の声がやかましかったのは残念)。

装束や着付けの解説は、先だって面白能楽館でしたように舞台上で着付けてみるというもの。
知らないこともたくさんあり、間近で詳しく説明していただけたのは嬉しい。

特に、蔓物の黒髪は、単に後ろで結わえているだけではないと初めて知った。
内側にぐりぐりと捻りながらまとめるそうだ。

これからも毎月催しがあるそうで、お能をまだ見たことがないというような方にはお勧め。

希望者は、お茶室清心庵で林宗一郎師とご一緒にお茶もいただける。

詳細は、こちら。
http://kansai-seminarhouse.com/plans/2012/07/in-1.shtml

ちなみにこちらのお茶室では、毎月お釜も掛かっていますね。名水もいただけます♪

小鼓集中体験稽古

2011年08月27日 | 講義
せぬひま(京都・吉阪一郎師稽古場)

お能は観るだけで、何のお稽古もしたことがないので、特にお囃子の仕組みは謎だらけ。
たまにその手の本を開いて譜面などを目にしても、まったく読み方がわからなかった。

今回の企画は、そんな初心者にいきなり3時間お稽古を体験させ、謡いに合わせて演奏できるところまでもっていこうという画期的で(無謀で)嬉しいプログラム。

鼓の持ち方から始まって、「高砂」の四海波を先生の謡いに合わせて打てるところまで。

大蔵流の四つの音の打ち方を教わったけれども、とてもとても音など鳴るものではない。本当は左手で緒の握りも調整するそうだが、そちらに気が行くと右手がワヤになるので、とにかくぺしぺしと打ちながら、譜面に追いついていく。

それでも、最初に譜を見たときには、こんなものを数時間で打てるようになるわけがないと思えたものが、必死でやっているうちにどうにか追いつけるようになっていて、終了時には小さな達成感があった。

音痴だし、人前で声を出すことが苦手なので、鼓を打つのはともかく声で囃すことは絶対できないだろうと思っていたから、「ホーッ」とか「ヨー」とか一生懸命声を上げている自分に何より驚いた(とにかく声を出さないと、リズムがとれない)。

いつも舞台上に仰ぎ見ている吉阪先生が涼しげな袴姿で出迎えて下さり、お弟子さんにはとても厳しいそうだけれど、今日のところは優しく教えていただき、ほんとうに得難い経験をさせていただいた。感謝だ。

でも、拍子板を打つ張扇(?)の音は、もし叱られながらだったらとっても怖いだろうなと思った(^_^;)

「能楽と今様、白拍子について」

2011年02月06日 | 講義
日本今様謌舞楽会護持会(京都・ハイアットリージェンシー京都)

小鼓方大倉源次郎師による講演。

テーマとしては、往時の白拍子がどのような旋律に乗せて今様を歌い舞っていたのか、そのヒントを能楽の中に探すというもの。

今様がリアルに「今様」だったのは後白河法皇の時代12世紀。能楽の発祥は観阿弥の頃とすると14世紀。

お話を全部理解したとは言い難いけれども、かいつまんでみると、歌には拍子に合う歌と合わない歌があって、拍子に合う歌というのは基本的に田植え歌などの労働歌である。

単調で辛い仕事も、皆で並んで歌いながらだと捗る。水田が広がって人口が増えるほどにこうした歌の必要性は増し、しかも退屈ではない面白い歌を次々に作らねばならぬという意味で〈芸能〉の発展があった。リズミカルな「三番叟」は拍子に合うほうの歌だ。

一方、「翁」には拍子に合う部分は一箇所もない。こうした拍子に合わない歌は、基本的に祈祷であり神仏に向けたものだ。こちらは〈延年芸能〉としてさまざまに発展していく。

能楽は雑多な芸の組合せであるけれど、そこに白拍子が出てくるとき女曲舞(「船弁慶」の静の舞や「二人静」)は拍子合わずである。一つ頭という鼓の手のくり返しであるから、そのあたりに往時の今様の歌われ方のヒントがありそうだ。というのがこの日のひとつの結論だった。

他に石垣島の鼓の話もあった。

『七十一番職人歌合』という中世の絵巻があって、その中に〈白拍子〉も職業のひとつとして登場する。


ここに転がってる鼓は、今日よくみる鼓とはちがい、縁が黒く塗られている。
これと同じデザインの鼓が石垣島に残っているそうだ。

石垣島では大鼓を「大皮(ウードウ)」小鼓を「小川(クードウ」よび、これは江戸期以前の囃子方が「大筒(おおどう)」「小筒(こどう)」と呼ばれていたことと対応しているとか、小鼓を左肩に構えて演奏するとか、現代能楽師とは異なる点が多い。鼓の古い形を研究する上で注目すべき土地であるのだとか。

いろいろなことを実際に鼓を打ちながら解説してくださるのでインパクトがあり、またわかりやすかった。


序の舞について お話と実演

2010年11月06日 | 講義
上村松園展関連イベント特別文化講座 講師:金剛永謹(京都・金剛能楽堂)



松園の代表作「序の舞」に関連して、じゃあ、序の舞って何? というところを解説してくれる講座。

今日は観世会館に行くので当初参加できないと思っていたけれども、よくよく見たらわずかに時間差があったので来てみた。

お話50分、休憩20分、序の舞実演20分。とのことだったけれど、この50分のお話が盛りだくさん。ざっとメモしてきたものを清書してまとめようと思ったら大仕事になりそうなくらい。

「序の舞」について簡単な説明があって、「まあ、あんまり詳しくお話ししてもなんですから…」と話題が移ってしまい「いや、その詳しいところを聞きにきたのですが」とちょっと残念な気もした。

けれども、その後話題は上村松園と金剛宗家との関係、ひいては、個々の作品の制作秘話といった方面に向き、これはこれでとても興味深い内容だった。

上村家の代々は金剛流のお弟子さんでもあったそうだ。

松園は昔の金剛能楽堂の正面最前列でいつも写生していたとか、「序の舞」の顔のモデルは息子のお嫁さん、立ち姿のモデルは進行役廣田幸稔師の叔(伯?)母さまであるとか、「焔」の表情に悩んでいたとき泥眼の面をヒントに絵の裏側から眼の部分に金泥をさしたとか、などなど。

そして、
・「花がたみ」の表情のもとになった増阿弥作「十寸髪」
・「焔」のヒントに見せられたと思われる河内作「泥眼」
・「砧」のために写生したと思われる河内作「曲見」(大和作もあるが東京で展示中)
・「草紙洗」のために写生したと思われる河内作「孫次郎」と雪の小面
・般若
などをひとつひとつ見せながら、それぞれの面の特徴を説明してくださる。

どれも貴重なお話だった。

特に増阿弥の「十寸髪」」は神がかって美しい。つんとした表情で眉根の下に窪みがある。

「よい面」とは視線の効いている面だとおっしゃっていた。どこを見ているのかわからないようなぼんやりした表情の物では演技ができないと。

実演は、「野宮」の序の舞だった。お囃子は、杉市和、曽和尚靖、谷口有辞。

ショップで本と「源氏物語トランプ」を購入。

松園展のチケット付きだったので、「焔」の展示される後期に行ってみようと思う。

参考)上村松園展

みかた先生に聞く能の見方(隅田川)

2010年10月18日 | 講義
講師:味方玄 京都リビング新聞社特選講座(京都・リビングホール

・「百萬」「桜川」など、狂女ものはたいてい物狂う様を見せ場とするけれども、「隅田川」にはあまり舞う部分がない。(笹之段)

・作者は、十郎元雅。生きている人をテーマとする現在能が多い。
 「弱法師」「盛久」「歌占」

・〈物狂〉=何かのきっかけでテンションが上がり舞ってみせるひと

・小さな塚が舞台に出た時点で〈子供の死〉を暗示している。

・ワキの名ノリを宝生閑はわざと重めに謡う。船頭なのに小さ刀を差しているのは、念仏のときにはその中のひとり(代表)となるから。

・旅人のほうは、からっと演技する。

・出囃子は晩春の陽気な感じではじまり、幕が開いてシテが登場するとトーンが下がる。シテの重苦しい疲労感を表す。

・「もとよりも、契り仮りなる一つ世の~隅田川にも着きにけり」の道行で、どれだけ風景を思い描けるか

・「名にし負はば、いざ言問はん都鳥」で、都鳥を見る(笠を上げすぎてはいけない。<三度笠になってしまう)

・役者はふたりだが、じつは舟にはたくさん客が乗っている。旅人の狂女の位置関係に注目。みっしり乗っている感じ。

・船頭が大念仏のいわれを語るくだりで、川幅を体感する(6分くらいある)。

23日のテアトル・ノウで使う面(肌色の深井)や、装束を見せてもらう。

摺箔のほうが縫箔よりもしっとり身体に馴染むので役者は嬉しい。たしかに手触りがやわらかでしなやかだった。

今回のテアトルでは、わかりやすい演出でやってみるとのこと。

能本をよむ会236「遊行柳」

2010年08月18日 | 講義
講師:味方健(京都・キャンパスプラザ)

名古屋からお友達(というより師匠か)がわざわざ聴講に来るというので、わたくしも久しぶりに。

相変わらず高度な内容です。お友達曰く、「大学院級の講義だよね」。そうか、全部わからなくても恥じゃないんだ。ホッ。

健先生は、9月の嶂の会で演じられる遊行柳の装束を、デート前の女性のようにあれこれ思い悩んでいるご様子。やっぱりそうなんだと納得。いつも素敵だものなぁ。

今回もきっと美しい柳に変身なさることだろう~。

ちなみに次回は、

9/22(水) 14:30~16:30
     「女郎花」
      キャンパスプラザ京都第三講義室
      会費 500円

「鉄砲焼けの書簡」セミナー

2010年07月29日 | 講義
京都・甘楽花子にて

茂山家に伝わる文書に、九世千五郎正虎の〈鉄砲焼けの書簡〉と呼ばれるものがあり、これを若手能楽師の方々が自主的に勉強会を持って読み解いてみたのだそうだ。

それを味方健先生にチェックしてもらい、ついでにお弟子の方々にもレクチャーしてもらおう、と設定された席に紛れ込んだ次第。
どうやら〈花子〉のご主人もお弟子のひとりらしい。

〈鉄砲焼け〉とは〈蛤御門の変〉のことなのだそうだ。

蛤御門の変のとき、正虎が御用で彦根藩邸の警備にあたっている間に、新築したばかりの自宅が戦火で全焼。十世を身ごもっていた妻は焼け出されて転々とし、暫くしてようやく家族は再会できた。

このときのできごとを正虎は手紙に書いて地方の知人に送っている。能の曲名や能楽用語をもじって綴られた手紙で、これが〈鉄砲焼けの書簡〉。

途中を少し引用してみると、

……卒塔婆小町志賀付 誠にの事にて皆々淡路騒 

……卒塔婆や町へ火がつき まことに不時のことにて皆々慌て騒ぎ

水を烏頭にも井筒檜垣氷室にて 生贄殊の外敦盛 

水を打とうにも井筒は干上り干ムロにて 池煮え ことのほか熱(もり)

龍田一人金剛力を出し……

たった一人金剛力を出し……

といった具合に延々続く。さすが狂言師というかんじで面白かった。

この手紙の文面は、茂山千作『狂言八十年』(都出版社 S26年刊行)に活字化されている。(もちろん原文のみ)。