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「一日有大徳問師曰、即心是仏又不得、非心非仏又不得、師意如何。師云、大徳且信即心是仏便了、更説什麼得與不得。只如大徳喫飯了、従東廊上、西廊下不可總問人得與不得也。」
〔一日大徳有りて師に問うて曰く、「即心是仏というも又得ず、非心非仏というも又得ず、師の意は如何に」。師云く、「大徳よ、しばらく即心是仏を信ずれば便了す。更に何の得と不得を説かん。例えば大徳の飯を喫し終わって東廊より上がり、西廊に下るに、総て人に得と不得とを問うべからず」。〕
◆解説
○一日は、ある日の事。
○大徳は、ここでは学者(修行僧)
○即心是仏、同『景徳伝灯録』巻七、南嶽第二世、馬祖嗣、大梅法常の章「問、如何是仏。大寂(馬祖)云、即心是仏。師(大梅常)即大悟。」〔問う、「如何なるか是れ仏」。馬祖云く「即心是仏」。師(大梅常)即ち大悟す。〕その後、馬祖は“即心是仏”の硬直化した理解、或いは、“即心是仏”に対する執着や誤解を避けるため、アンチテーゼとして“非心非仏”を云う。
更に数百年後、日本の道元が『正法眼蔵』「即心是仏」の章を著す。
○便了は、けりがつくの意。
○只如は、たとえばと読む。
以下、私見を交えて。
この問答は、飯を喫する事や、東や西への動作に対して、いちいち良いとか悪いとか問うべからず、つまり、“即心是仏”や“非心非仏”について、どちらが良いとか悪いとか、「得よう」とか「得れない」とか、そういった問題を持ち込むな。という事だと理解してみた。
「得る」「得れない」、「知る」「知れない」の類いではない。と言いたいのだろう。
例えば、同じく南泉の言葉に、「道は、“知”にも属せず、“不知”にも属せず、知はこれ妄覚、不知はこれ無記。」(『無門関』19)というのがある。
また、南泉の師、馬祖も『景徳伝灯録』の中で次のように云う。
「道は修するを用いず、但だ汚染すること莫れ。」
後に、道元禅師もこの辺りから影響を受けたであろう。『普勧坐禅儀』の中で「所謂坐禅は習禅には非ず」と云っている。
更に、私自身、ある坐禅会で、ある参禅者さんに質問された。
参禅者さん「私は毎日坐禅しているのですが、どうもイマイチ坐禅がわからない。禅蔵さんみたいに大学で禅を学んだら、坐禅がわかるようになりますか?」
私「毎日坐禅をなさっているのですか?それでしたら、もうそれで充分ではございませんか?」
“坐禅をしている”という事実で、ご自分の決着がついているはずなのに、まだその事実以外に「何かあるんじゃないか」と頭でお考えなのでしょう。
さて、その他に今回は、「即心是仏を“信ずれば”便了す。」という点に私は注目した。
ここから理解出来る通り、“信じること”は宗教上大切なファクターであり、「禅」は、流行りのエクササイズでも、哲学でもなく、宗教であり、そこでは“信仰”を無視する事は出来ない。
但し、宗教だから良いとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、そういった“考え”は、別問題である。
尚、“即心是仏”の問題点については、当ブログ「景徳伝灯録・2(神会の正体)」後半辺りに少し述べたので、そちらも参照されたい。
合掌
「一日有大徳問師曰、即心是仏又不得、非心非仏又不得、師意如何。師云、大徳且信即心是仏便了、更説什麼得與不得。只如大徳喫飯了、従東廊上、西廊下不可總問人得與不得也。」
〔一日大徳有りて師に問うて曰く、「即心是仏というも又得ず、非心非仏というも又得ず、師の意は如何に」。師云く、「大徳よ、しばらく即心是仏を信ずれば便了す。更に何の得と不得を説かん。例えば大徳の飯を喫し終わって東廊より上がり、西廊に下るに、総て人に得と不得とを問うべからず」。〕
◆解説
○一日は、ある日の事。
○大徳は、ここでは学者(修行僧)
○即心是仏、同『景徳伝灯録』巻七、南嶽第二世、馬祖嗣、大梅法常の章「問、如何是仏。大寂(馬祖)云、即心是仏。師(大梅常)即大悟。」〔問う、「如何なるか是れ仏」。馬祖云く「即心是仏」。師(大梅常)即ち大悟す。〕その後、馬祖は“即心是仏”の硬直化した理解、或いは、“即心是仏”に対する執着や誤解を避けるため、アンチテーゼとして“非心非仏”を云う。
更に数百年後、日本の道元が『正法眼蔵』「即心是仏」の章を著す。
○便了は、けりがつくの意。
○只如は、たとえばと読む。
以下、私見を交えて。
この問答は、飯を喫する事や、東や西への動作に対して、いちいち良いとか悪いとか問うべからず、つまり、“即心是仏”や“非心非仏”について、どちらが良いとか悪いとか、「得よう」とか「得れない」とか、そういった問題を持ち込むな。という事だと理解してみた。
「得る」「得れない」、「知る」「知れない」の類いではない。と言いたいのだろう。
例えば、同じく南泉の言葉に、「道は、“知”にも属せず、“不知”にも属せず、知はこれ妄覚、不知はこれ無記。」(『無門関』19)というのがある。
また、南泉の師、馬祖も『景徳伝灯録』の中で次のように云う。
「道は修するを用いず、但だ汚染すること莫れ。」
後に、道元禅師もこの辺りから影響を受けたであろう。『普勧坐禅儀』の中で「所謂坐禅は習禅には非ず」と云っている。
更に、私自身、ある坐禅会で、ある参禅者さんに質問された。
参禅者さん「私は毎日坐禅しているのですが、どうもイマイチ坐禅がわからない。禅蔵さんみたいに大学で禅を学んだら、坐禅がわかるようになりますか?」
私「毎日坐禅をなさっているのですか?それでしたら、もうそれで充分ではございませんか?」
“坐禅をしている”という事実で、ご自分の決着がついているはずなのに、まだその事実以外に「何かあるんじゃないか」と頭でお考えなのでしょう。
さて、その他に今回は、「即心是仏を“信ずれば”便了す。」という点に私は注目した。
ここから理解出来る通り、“信じること”は宗教上大切なファクターであり、「禅」は、流行りのエクササイズでも、哲学でもなく、宗教であり、そこでは“信仰”を無視する事は出来ない。
但し、宗教だから良いとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、そういった“考え”は、別問題である。
尚、“即心是仏”の問題点については、当ブログ「景徳伝灯録・2(神会の正体)」後半辺りに少し述べたので、そちらも参照されたい。
合掌