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8月11日(水)近づくお盆

2010-11-08 20:17:46 | ★③(は)お父さんの閑話365日(転載)
8月11日(水)近づくお盆

久しぶりの曇り空である。毎日入道雲がそそり立ち一雨来そうな気配を見せながら空振りに終わってきた。菜園も鉢物もカラカラでお湿りが欲しいところである。台風4号が朝鮮半島南部付近にあり今後の進路如何によって東北地方にまとまった雨を降らせる可能性がある。被害が出ない程度に降って欲しいものである。

緑陰を作ろうとネットを張って植えたゴーヤ(ニガウリ)に花が咲いて実がいくつかなった。大部分は大きくならなかったが二個だけが10cmほどの大きさになった。果たして食べられるほどまで成長するかどうか分からないけれども毎朝水遣りのたびに眺めるのが楽しみである。

家内が農協系のスーパーから盆棚に敷く茣蓙と蓮の葉に包んだお供え物一式を買ってきた。2個ずつ入っている野菜やホウズキなどを糸で結んで、ヤナギの棒に吊るした子供のころの記憶がある。今は蓮の包みを開いてお供えするだけで誤魔化しているが、まだ小さいゴーヤもこのお供えの一員に加えようか。

その蓮の葉の器に、祖霊に差し上げたご馳走と同じものの一部を供える。これはお盆になっても帰る場所がない無縁仏のためだと母に教わった。この時期各地のお寺で営まれる施餓鬼法要も同様の考えで行われるものだろう。

所在不明の100歳以上の高齢者が増え続けている。おそらくその多くは誰に見取られることもなく亡くなって無縁仏になるのだろう。福祉国家を標榜する日本らしからぬ現実であるが、ささやかではあるが無縁仏のためのご馳走を用意してお待ちすることにしよう。


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8月12日(木)御巣鷹から25年

日航ジャンボ機が尾翼を失って迷走の挙句、御巣鷹の嶺に墜落して520人の犠牲者を出した大惨事から25年の歳月が流れた。ときは過ぎ去っても犠牲者の遺族、関係者の心の傷は癒されることがない。遺族の多くは高齢になった。それでも杖を片手に今年も現場へ供養登山をした人、麓の川で灯篭を流して故人を偲ぶ人たちの姿が放映された。

コントロールを失った大型機を必至に操ったコックピットの人々、乗客がパニックにならないように最善を尽くした客室乗務員、そして絶望と淡い期待の中で家族に残すメモを認めた犠牲者の気持ちを想像すると言葉を失う。何がなんだか分からないうちに一瞬にして命を失うのと違って、どんなに辛い思いをしたかと思う。

航空機の発達は多くの乗客をより早く遠くまで運ぶことを可能にした。けれども安全については万全とは言えなかった。日航ジャンボ機墜落事故のような大事故は稀有とはいえ、国内だけでも多くの事故を記録している。

速さは飛行機に敵わないけれども多くの乗客を運べる点では新幹線の方が上である。東海道新幹線が開通したのは昭和39年10月1日だった。10日に始まる東京オリンピックにようやく間に合った。それいらい新幹線は路線を伸ばし続け東北も青森まで新幹線で行けるようになった。

この高速鉄道が開業以来脱線・転覆と言った人身に関わる大事故を一度も起こしていないことは世界に誇れることだと思う。自動車事故で毎年1万人を越える死者を記録していることを思えば、死者ゼロは如何に偉大な記録かが分かる。

新幹線はこの記録をさらに伸ばして欲しいし、航空機も安売り競争よりは安全を売り物にして競争することを願っている。


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8月13日(金)よっこらしょ

昨日台風4号の影響で怪しい空模様だったが墓参りに行った。両親が眠る郊外の墓地でポツポツ降りだした雨は2番目に訪れた市内のお寺で本降りになり、これは困ったことになったと空を見上げた。ところが3番目のお寺に着くころには小止みとなり、お参りを終えるのと符節を合わせるように雨はピタリと止んだ。最初の墓地から最後までおよそ40分ぐらいだった。

天気予報では台風4号は夜から今日未明にかけて東北地方を通過するということだったので、一度止んでもまた降り出すと覚悟していたのに家に帰り着くころには青空ものぞいてきた。夕方別の会合に出席するために傘を用意して出かけたが、それ以後は結局傘の出番なし。台風は夕方秋田県に上陸し青森県を経て太平洋に抜けたと言う。

仙台は今回の台風に関しては最も影響が少ないラッキーなところに位地していたことになる。仙台は大きな都市にしては自然災害の少ないところだとかねがね思っている。九州や四国のような台風常襲地帯ではないから大雨や強風の被害はほとんどない。今年の夏は特別暑いけれども、概して気候が温和で冬もさほど寒くはないし雪もほとんど降らない。

という訳で、仙台は地震の心配さえなければ安心して住める都市の一つだと思う。地震ばかりは予知が難しくどうしようもない。身を守るためには家屋の耐震化といざと言うときの身の処し方だけが頼りであるが、すたこら逃げ出そうにも年々素早い動作が出来なくなってきた。

立ち上がろうとするとき、ともすると「よっこらしょ」とか「どっこいしょ」などと掛け声をかけたくなる。声に出すのはいかにもじじむさいから言わないようにしているけれども、無意識に口をついて出るかもしれない。106歳で亡くなった母が晩年「何でからだが言うこと聞かなくなったんだか」と言っていたが、小生は80歳にして既にその心境である。お盆になると早く亡くなった父よりも、なぜか母のことを思い出す。


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8月14日(土)「おくずかけ」

お盆の2日目。今朝は「おくずかけ」をつくって仏前にお供えした。「おくずかけ」は仙台地方でお盆の定番料理である。「お葛かけ」と書くのだろうか、夏野菜各種とうーめん(温麺)を薄い醤油味で煮て水溶き片栗粉でとろみをつけたものである。

作り方は家庭によっていろいろあるのだろう。しかし具に夏野菜と温麺は不可欠である。仏様にお供えするに当たって失礼がないように、使った材料を確かめながらお椀に盛った。野菜はインゲン・ミョウガ・オクラ・ニンジン・ゴボウ・ナス・サトイモ・ジャガイモ・サツマイモである。麺は製造過程で油を使わない白石温麺。以上のメイン素材のほかに糸こんにゃく、高野豆腐、豆麩、油揚げ、シイタケが加わる。以上で15種類だ。

この煮物が何時ころから仙台地方で行われるようになったのか分からない。とにかく手に入るものは何でも使ってご先祖様にご馳走しようと始めたものではなかろうか。精進料理だから煮干など生臭物の出汁は使わない。干しシイタケと昆布だけの出汁だからあっさりしている。

この煮物は深鍋にどっさり作る。ある程度の量がないとおいしくないのだ。一度には食べきれないので当然残る。残って冷めたものがまたうまいのである。冷める段階で素材に味が満遍なくしみこむからだろう。

盆棚はリンゴ、ナシ、カキ、メロン、バナナ、グレープフルーツなど内外の果物で賑やかだ。今日はその他に仙台長ナス漬け、ベルギー産チョコレートまで加わった。ご先祖さまも供え物の国際化に驚いていることだろう。


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8月15日(日)敗戦の日

日本が連合軍に白旗を掲げ太平洋戦争が終わった日である。65年も前のことだ。今では記憶が薄れその日のことは断片的にしか覚えていない。

真夏の太陽が照りつける暑い日だった。正午に重大放送があるというのでラジオの前で待った。流れてきたのは昭和天皇の「玉音」だった。独特の抑揚で伝えられた内容は、15歳の少年には理解できないところもあったが、戦争が終わったと言うことだけは分かった。

勝つと思っていた戦争に負けた悔しさよりも、これからは空襲に怯える心配がない、灯火管制もなくなると思うと無性に嬉しかったのを覚えている。恥ずかしながら何と単純な少年だったのだろう。その先に待っている食糧難、インフレなどの混乱など考えもしなかった。

軍需工場で働く必要がなくなり再び学校に通いだしたのは何時からだったのか。たぶん9月になってからだったと思う。軍事教練をするために学校に派遣されていた軍人の姿がなくなり、連合軍の命令で剣道と柔道が禁止されて、職を失った武道の先生方が校庭の草むしりなどをしていた風景を思い出す。

焼け残った校舎は窓ガラスが壊れたまま、教室が足りず講堂を三つに仕切って急場を凌いでいた。しかし陸軍士官学校、陸軍幼年学校、海軍兵学校、海軍予科練習生など軍関係の学校からの復学者で生徒数が膨れ上がり、一部は少し離れた別校舎へ分散せざるを得なかった。

敵性語として禁じられていた英語の授業が再開されたのもそのころである。民主主義と言う聞きなれない言葉が大手を振って登場してきた。今思えば昭和20年はまさに天地がひっくり返るような激動の年だった。


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8月16日(月)働き蜂

13日からわが家に滞在なさったご先祖さまは、今日送り火に乗ってお帰りになる。たいしたおもてなしも出来なかったが、今年は歩き始めた初孫をお見せすることが出来た。秋の彼岸までしばしのお別れである。

今日・盆の16日と正月16日は、むかしから「地獄の釜の蓋が開く」と言われてきた。現在のように労働基準法で労働者に最低限の休日を与えることが義務付けられていなかった時代、奉公人には休む権利などはなかった。でも正月16日と盆の16日だけは仕事をしてはならない日とされ、年中無休で罪人を釜茹でにしている閻魔庁の役人もこの両日だけは休業で、釜の蓋を開けて使わない日とされていた。

娑婆でもこの日は「薮入り」と称して使用人に休暇を与え、お小遣いをやる風習があった。たった1日の休みでは何もできなかったと思うが、うまい物を食べたり芝居小屋を覗いたり、天下晴れてつかの間の自由と休息を楽しんだのだろう。

週に一度の休みが商店やサービス業まで普及したのは戦後のことで、戦前はろくに休みも与えられない奉公人が圧倒的に多かった。働き蜂といわれる日本人の気質はそうした長年の労働慣行で培われたのかもしれない。

有給休暇という当然の権利を使い残す人が多く、育児休暇の取得率も極端に低いのは、休みを取りにくい職場の雰囲気がそうさせている面もあるが、働き蜂遺伝子、働いていないと落ち着かないと言う悲しい習性のせいでもあるような気がする。

つかの間のお盆休みは今日で終わり、また明日から働き蜂がせわしなく動き回る日常が戻ってくる。


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8月17日(火)ラッキョウ

久しぶりにラッキョウを食べた。小粒の花ラッキョウの甘酢漬けではなく、普通サイズのものをヨーグルトに漬け込んだものである。甘酢に漬けたものより匂わないと聞いた家内が試しに作ってみたのだそうだ。小生は元々ラッキョウが好きで匂いを含めてうまいと思っているから、匂いを気にしたことはない。噛めばカリカリと音がする独特の食感がいい。

ラッキョウは中国原産でインドシナ半島やヒマラヤにも野生種が分布しているそうだ。日本へは9世紀に渡来した古い野菜である。食用にするのは地下に出来る鱗茎の部分で、繁殖も鱗茎で行われる。ヨーロッパへは日本を介して紹介されたらしく、英名はrakkyouである。

しかしヨーロッパやアメリカでは全く利用されていない野菜である。エシャロットという良く似た植物があるからだろうか。因みに日本でエシャロットとして売られているものの大部分はラッキョウを若取りしたもので本物ではない。

カレーライスには甘酢ラッキョウが付き物である。その他に福神漬けや刻みショウガなどをつけるところもある。カレー発症の地・インドではカレー料理にラッキョウを添える習慣はないようだから、おそらく日本人の発明であろう。

ラッキョウは激辛カレーで焼けるように熱くなった口中を冷やしてくれる。そして次の一口がまたおいしくなるのだ。インド料理に添える香辛料・チャツネ(正式にはチャトニー)の代用品だと思うが相性をよく考えた添えものである。


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8月18日(水)ミョウガの保存法

ミョウガの子がたくさん出てきた。薬味に重宝しているが使う量はたかが知れている。残ったミョウガを保存して年中使えるようにするにはどうすれば良いか。甘酢漬けにしたこともあるが長く置くと変色してどす黒くなり味も悪くなる。

もっと良い保存法はないものかと探したら塩漬けと冷凍保存に行き着いた。塩漬けは洗ったミョウガの子を底に塩を敷いた容器に隙間なく並べて塩を振り、またミョウガを並べて塩を振ることを繰り返して漬け込むのだそうだ。いわばハクサイなど野菜を漬物にして保存するのと同じである。使うときは塩抜きして使うのだそうだが、生のときの美しいピンク色と香りも変らず保存できるのかどうか分からない。おそらくこれは商売人が大量に保存する方法であろう。

家庭で使うだけ、しかも新鮮なまま保存するのに簡単で最もいいやり方は、薬味として使うように刻んでから保存袋に小分けして冷凍することだそうだ。これなら色も香りも損なうことなく長期間保存できると言う。冷凍すると組織が壊れて味も香りも違ったものになる野菜もある。でもミョウガにはそのようなことは起こらないようだ。夏場傷み易い万能ネギなどを刻んで冷凍保存するのと同じようにすればいいらしい。

ミョウガの子は来月まで出てくるので、それまでは新鮮な取立てを使える。余ったものは順次冷凍保存に回せば年中ミョウガに不自由しなくなるだろう。こんな簡単なことにもっと早く気づけばよかったと悔やまれる。シソの葉も使いきれないほど茂っている。実は塩漬けにして保存するが、葉も新鮮なまま保存できれば嬉しい。何かいい方法がないものだろうか。


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8月19日(木)暑さ一服

今日は曇り、日中の気温は27℃ぐらいまでしか上がらないそうだ。連日30℃を越す暑さが続いていたので一息つけそうだ。しかし安心するのはまだ早く、土曜日ころからまた暑さがぶり返すと言う。

この暑さ続きでいろいろな異変が起きている。大衆魚のサンマが不漁なのもそのせいだ。海水温が高いのでサンマの群れが日本沿岸に寄ってこないのだそうだ。今朝見た生協の新聞折り込みチラシには北海道沖で獲れたサンマ1匹148円とある。今日1日限りのサービス品という謳い文句だからいつもはもっと高いのだろう。

鮮度が良い生のサンマは魅力的だが気軽に食べられる値段ではない。安売りの卵なら10個買える値段である。解凍サンマを開いて一夜干しに加工したものの方がはるかに安い。手間隙かけた方が安いという値段のからくりはどうしてなのか分からないけれども、懐と相談したら一夜干しの方に軍配が上がるだろう。

野菜も高温続きで被害を受け値段が上がっている。レタスやキャベツが葉焼けして売り物にならなくなり、地上部が暑さにやられたサトイモの生育に障害が出ていると言う。今年の秋のイモ煮会にも影響が及びそうだ。魚や野菜ばかりではない。乳牛も夏バテ気味で乳の出が悪くなり、長引けば乳製品に影響するかもしれない。

それやこれやで庶民は生活防衛に追われるが、容赦なく出費を強いられるものもある。わが家の場合はエアコンの使用が例年になく多く電気代の請求が気がかりである。熱射病にやられるよりは電気代がかさんでも冷房のお世話になることにしているが、早く秋風が吹いてくれないかなあ。暑さは人間を愚痴っぽくさせる。勤めがないだけ本当は楽なのだが。


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8月20日(金)キュウリの干物

昨日の仙台は日中の気温が27℃台で凌ぎやすかった。東北地方の北に高気圧があって、そこから冷たい空気を伴った風が吹き込んだためだと言う。この暑さの中休みは今日で終わり明日はまた30℃を越す暑さが戻ってくる。

この暑さをものともせず菜園に植えた「夏元気」と言う勇ましい名前のキュウリが文字通り元気に育っている。3本しか植えていないのに、夫婦二人では食べるのが追いつかず、取り残したものは巨大キュウリになってしまう。

長さ40cm、直径5cmぐらいの大きさで皮が黄色みを帯びたものは、皮を剥いてワタを除いてから煮て食べるとトウガンの煮つけのようでうまい。熱々のものよりも自然にさまして煮汁をしみこませて冷やしたものの方がおいしい。トウガンは漢字で冬瓜と書く。夏野菜なのに変だと思っていたら、熟したものは半年も貯蔵できるそうだから冬にも食べられる瓜、つまり冬瓜になったのではないか。

そこで考えた。わが家のキュウリも皮が茶色になるまで蔓にならせておいて完熟させたら長期間貯蔵できないだろうか。ダメで元々だ。1個だけ残しておいて試してみよう。若いキュウリより肉質に噛み応えが出ておいしくなるかもしれない。

それとも干瓢のように果肉をひも状にそいで天日干しにしたらいいかも知れぬ。キュウリの干物なんて聞いたことがないけれども、今年のような天候ならうまく干せるような気がする。


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