【福島県浪江町紀行】
1月31日2月1日、浪江町で仕事をするという息子達のオマケで付いていきました。
海岸に降り立ち太平洋を臨むと、右側に福島第一原発が肉眼で見える程の近さに建っていました。
海岸沿いの建築物が壊滅する中、流されず奇跡的に残った諸戸小学校が、当時を伝える資料館として存在していました。広島の原爆ドームのような衝撃を受けました。
今後、世界中に伝えて行く役割を担っていくのかなと思いました。
浪江町は東北なのに温暖な気候で、海の幸も山の幸も豊かで、本来はとても暮らしやすい素晴らしい地域だったと思いました。
ずっと立ち入り禁止区域に指定され、時間をかけ除染が終了した地域から少しずつ解除され、相馬焼き松永窯のある山側の地域は昨年2023年3月にやっと解除され、立入りが自由になったそうです。
町をナビゲートしてくださった松永さんは、松永窯の4代目。地元で生れ育ち大学から東京に在住されましたが、故郷の復興の為に奔走されています。
今年2月中旬に、松永窯の跡地そのままを生かした展示イベントを開催されるにあたり、息子達が少しお手伝いをさせていただく為、この地を訪れました。
また今後、具体的な情報をお伝えしたいと思います。
2011.3.11東北大震災がおきた当時、大学入学を直前にひかえた18才の次男がお昼寝するリビングで、私はプリンターを使い手作りの個展案内状を製作中でした。
画家の夫がヴェネチア取材旅行から帰国した日で、揺れに気づかないほど爆睡していました。
長男は東京でアルバイトしながら通う大学生でした。
2人の息子を大学に通わせるのに必死で働いていて、何も出来ず、祈るだけで呆然とするばかりの無力な家族でした。
震災と津波の爪跡と、豊かな自然と食や立派な道の駅のギャップに揺さぶられ、まだ興奮が冷めやらず、長文になってしまいました🙇
私は微力ですが、息子達のおかげで、小さな一歩を踏み出せて、長年の胸のつかえが降りた気がいたします。