▲写真は石上誠展の会場、睡鳩荘の1階大広間(当時はリビングダイニングかな?)です。
あと残り2日となりました石上誠展 at軽井沢タリアセンです。
今日は睡鳩荘を設計したヴォーリズのことを調べましたので、少しだけ投稿します。ご存じの方も多いと思いますが、私はほとんど知らなかったので・・・
「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外観よりもむしろ内容にある。」とするW.M.ヴォーリズ
1905年、明治38年 一人の青年が遠く海を渡り、日本の地に降り立ちました。その時24歳。
彼はアメリカに生まれ、建築家を志す青年でした。
しかし外国伝道を行っていたキリスト教宣教師、Mrs.ハワード・テイラーの講演に感銘を受けた彼は、長年思い詰めていた建築家となる夢を放棄してまで、外国伝道にその身を捧げる決意をします。
運命に導かれ日本へと降り立ったヴォーリズは、どんな困難に見舞われようともこの地に留まり続けました。
太平洋戦争当時、開戦の気配が濃くなり多くの外国人が日本を離れる中でも、自らの意志で日本への帰化を選択。
一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名し、生涯を閉じるまでこの地に留まることを選びます。
最初、誰一人として知り合いのいなかったこの国で、彼は多くの協力者を得て、多岐に渡る活動を行いました。
建材やオルガンの輸入、メンソレータム(現メンターム)の販売などを行った「近江セールズ」の創立。
私立としては日本初の結核療養所であり、疎外されていた結核患者を救い続けた「近江療養院」の開設。
小さな保育施設から始まり、幼稚園から高等学校にまで及ぶ教育活動。
ほかにも図書館の運営、出版など多くの文化事業を行い、建築においては住宅から学校、教会、デパートメントやホテル、オフィスまで幅広く手がけ、その数は戦前だけで1500件を数えました。
これら事業のすべては収益を目的としたものではなく、「 様々な職業を通じて、人間生活の基準となるような、キリスト的生活を徹底的に実践すること 」を目指した、彼の伝道そのものでした。
建築家ヴォーリズは彼の一面に過ぎません。
多岐に渡った彼の活動は死後もその灯を絶やすことなく、来日100年以上を経た現在も、ヴォーリズ記念病院、株式会社近江兄弟社、近江兄弟社学園など、近江兄弟社グループとしてさらに幅を広げ、いまだ発展を続けています。
その作風は、人を驚かせるかのような建築家の自己主張をよしとせず、建築依頼者の求めに相応しい様式を選択し、その応用と近代的な改善を施すことに努め、住み心地の良い、健康を護るに良い、能率的建物を目指しました。 (文献より)