私は本を読まない、いや本を読めない。敢えて言うならば文盲に近い。小さい頃本を読む癖をつけてない事もあろうが、絵が大好きだった事もある。
しかし、物語を頭の中で描くのが好きだったし、今でもそれは変わらない。
画家と作家の違いは、頭の中で描いた物語をカンバスに映し出すか、原稿に書き記すかの違いだけだと思う。
バルザックやゾラの小説を見てると、まるで絵画を見てる様な気になる。いや絵画を描いてる様な気分だ。登場人物というクレヨンを持ち、舞台となる地方情景をバックに、いたずらに自らの観念を塗り重ねる。そこに”絶対”は存在しないのだ。
バルザックの人間喜悲劇
バルザックの膨大な作品群の総称は”人間喜劇”と呼ばれる。
バルザックは、卓越した洞察力と観察眼を駆使し、”人物再登場法”という独特の手法を使い、あらゆる階層のあらゆる種類の人間を描き、19世紀フランスの全てを壮大に映し出した。そしてそれら作品群は、大きく風俗研究•哲学的研究•分析的研究の3つに分けられる。
特に風俗研究は、私生活風景•地方生活情景•パリ生活情景•政治生活情景•軍隊生活情景•田園生活情景の6つにわけられる。
今日紹介する「絶対の探求」(La recherche de l’absolu)は哲学的研究に属する作品で、代表的なものとしては、最初のヒット作である「あら皮」や私めのブログでも紹介してる「知られざる傑作」「海辺の悲劇」などが挙げられる。
特に「知られざる傑作」同様に実在する人物を登場させる辺りは、バルザックの哲学に対する没入度が半端ない事が伺える。
それに、バルザックをスターダムにの仕上げた「ゴリオ爺」と同じ頃(1934−35)に書かれただけあって、完成度も凄まじい。
個人的には、”風俗研究”の”私生活風景”に属する、オチ満載である「夫婦財産契約」「二重生活」「偽りの愛人」「捨てられ女」「禁治産」「シャベール大佐」なんかが好きだが。哲学的研究も傑作揃いではある。
それでも、よくこれだけの量を書けたなと感心するが、バルザックは本当に読書家だったのか?という疑問がわく。
事実バルザックの生活スタイルは、まずコーヒーを牛飲し、夜間の長時間を推敲と執筆に注いだ。執筆が終わると、眠らずに社交界に顔を出した。売れないで借金を背負ってた頃は、屋根裏部屋でひっそりと人間観察をしていた。
多分バルザックは読書家ではなかった。彼は書く事と観察する事が全てだったと思う。頭の中であらゆる物語を組み立て、脳が疲弊すると、大食漢の小説王は社交界に顔を出し、食べ物を漁る様に令嬢に齧り付いた。
勿論、ソルボンヌ大学の法科卒だからお勉強は出来た筈だが、オイラーと同類の洞察眼は兼ね備えてた様に思う。多分、二人は数学者になっても成功を収めてたろうか。
フランドルの地が生んだ傑作
「絶対の探求」だが、とにかく読んでて腹が立つ。
家族も自分も周囲もボロボロにしておいて、何が"絶対"だ。でも、ムカつく程に深く深く読み入ってしまう。気が付けば私の方が狂乱してる。
お陰で、狂気と共に"絶対"へと突き進む”キチガイ博士”グラースに入れ込む自分が嫌になる。こんな”狂人、殺してしまえ”って思いながらもである。
ストーリーは至ってシンプルで、人工ダイヤを追求する”学問バカ一代”の物語。
その"絶対の探求"のお陰で、家族は崩壊寸前になるが。その一家も馬鹿正直に、この狂ったバカを支え続ける。
それ以上に舞台となるフランドル地方の描写が実に憎い。”忍耐と良心に代表されるフランドルの地だが、富が呼び覚ます安楽、幸福の感情と独立の精神はいち早くこの地にて、後のヨーロッパを人類の歴史を大きく揺るがす自由の欲求を生む”とのオープニングはそれだけで、読み手の興奮をも呼び覚ます。
洗練されすぎたフランドルの舞台とは対称的に展開そのものは、全く洒落にならない典型の中編ものだ。しかし、読み入る程に濃く深く埋没していく。あらゆる所にオチがあり、トリックがあり、捻りがある。
父と妻、父と娘の対立と確執と駆け引きが実に濃密に絶妙に、かつドラマチックに描かれてる。まさに、バルザックマジックここにあり。
因みにフランドル地方とは、旧フランドル伯領を中心としたオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部の地域で、中世にて毛織を中心に商業的経済的に発展し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄し、絵画では大きな影響を与えたとある。
故にこの「絶対の探求」でも、絵画的要素がふんだんに盛り込まれてる事が解る。特にオランダ調の質素で質朴な水彩画風は、バルザックのお得意とする所ではある。
鬼気迫る狂気と天才の境を描いた傑作
著書自身、学術系にはやたらと詳しく、こういった狂乱学者には思い入れも相当に深い。ソルボンヌ大学(法科)の出であるが故、バルザックお決まりの理屈っぽさも半端なく、ウンザリするも読者の心を鷲掴みにして離さない。往年の化学者が実名で出てくるから、信憑性も半端ない。
同じ名家の出ながら、片や"学問の巨人"の夫と、片や"無学の醜女"の妻の取合せは実に絶妙で、お互いに同情と反発を繰り返し、物語は進行する。「醜女の愛」というタイトルで温めてただけに、美醜と愛情の組合せはお見事ですな。
醜女はバルザック自身が好む典型の女性像でもあったとされるが。夫も妻も娘もそれぞれの目指す"絶対"ヘと、バカ正直にまっしぐらに突き進む様は、実に憐れでコミカルに滑稽にも映る。
人工ダイヤモンドの研究が現代の錬金術とダブらせ、万物を支配する”絶対の探求”だと息巻く、化学被れした学者どもの稚弱さには心底辟易する。
一方、夫へ献身と家族への愛情こそが全てだ、と願う妻の”無垢な探求”こそが、読者の心を惹きつけて離さない。学問とは一つ間違えると全てを無にしてしまうのだ。
訳者の水野亮氏の解説にある様に、主人公のバルタサル•グラースを狂人として扱うも、狂人として片付けてる訳でもない。彼の思想と生き様に、バルザックの人と人なりと思想が、きめ細かく奥深く、そしてふんだんに埋め込まれてる。
バルザックは”狂気のグラースを描く事で、自らの精神の危機を脱し、乗り越えた”のだろうと解説し、”鬼気迫る狂気と天才の境”を描いたこの傑作を超える小説は滅多にないと、水野氏はベタ褒めだ。
それに加え、バルザックの作品に共通する理屈っぽさを理解するには、以下の解説が必要だろう。
"全ての物質が単一の原質に還元されるという、バルザックの持論である"単一論"がこれでもかと展開される点で、「人間喜劇」の中でも特異とされる作品だ。一つの観念と夢想が主人公の中で膨れ上り、現実と日常の世界から乖離する過程を描いてる点で、著者自身もその様な危惧を常に感じてたから、クラースはバルザックの分身でもあるのだ"
"観念は人を殺す"、そして”学問は無に帰す”
前述した様に、小説の舞台となるフランドル地方のドゥエーという小さな町の描写も、実に詳しくユニークに紹介してる。
前述した様に、このフランドルの多種多彩で自由奔放な文化が、フランスの市民革命を生んだとされる程に、ヨーロッパの先進的地域として繁栄し、この地で描かれた絵画は大きな影響をもたらした。
ここ傑作のもう一つの大きな特徴として、時間軸が極端に伸びたり縮んだりする。全く読者を惑わし、全く付いていくのに大変だが、焦点は”グラースの悲劇”に常に絞られてるから、誤解を招く程でもない。
とにかく時間にしばし振り回されるから、グラース家のカレンダーを作成する事を強くお薦めする(笑)。
一方、登場人物が少ない分救われるが、フランドルの特質である”忍耐と良心”に支えられたグラース家の崇高な気質には圧倒される。父上の極端な学術論と妻娘の純朴過ぎる献身ぶりには、流石にウンザリする。最後に、"ユーレカ(我、発見せり)"と叫び、絶命する様は、多少呆気なく映った。
結局、"絶対"というものは存在せず、憤怒と無念さの中でグラースは絶命する。彼の頭と心の中に潜む"観念"こそが彼を殺したという事か。グラースが最後に発見したのは、バルザックの口癖である"観念は人を殺す"という事なのだ。実に残酷な言葉ではある。
濃密過ぎて長編にしても面白かったか。中編にしては、勿体無い程の完成度の高さだ。バルザックの底力を堪能できた傑作でもある。これこそもう一つの”知られざる傑作”というのだろうか。
フランドルの芸術がパリコミューンという人類最初の市民革命を生んだんですよね。ちょうどルネサンスで芸術が解放され、人類の知が解放され、市民革命と産業革命が資本主義と自由主義を産み出したように。
でもグラースは最後は何も発見することなく死に絶えるんですが。人類の行く末を予見してるようなエンディングです。
バルザックの先見の明は半端じゃない。
しかしそれと同時に観念も強くなり、それが過ぎると人は死に至る。
何でも行き過ぎは無に帰すんですね。程々が丁度良いようで。
無学のジョセフィーヌが独学で化学を学ぶ所など少し無理があるけど、彼女の物語でもあるの。醜女の愛というタイトルでも良かったかもしれない。
私的には、人工ダイヤの研究ってアホらしく
思えたかな。
ホント今なら一発で離婚だな。慰謝料で研究どころではないんだろうけど、それだけ昔は男にとって良い時代だったのかな。
でもダイヤの研究というのが少し短絡過ぎますな。HOO嬢の気持ち察します。女性から見れば、許さんぞって感じですね。