「コールガール〜私は・・」でも書かれてる様に、米ハーバード大学院の入学式では開口一番に”今あなた方がやるべき事はまず、横にいる人を蹴落とす事だ”と、学長からの祝辞を贈られるそうだ。
ま、この時点で、この大学の悲しい運命と侘しい将来は決まってる様なものだが、事実、本書に登場する著者はハーバード大学院卒の現役の大学講師でもあり、コールガールでもあった。
確かに、ハーバード大学生の平均IQが100にも満たない(らしい)事を考えると、冒頭の学長の言葉は頷けるし、おめでたい祝辞でもある。
さてと、我が日本の誇れる東京帝国大だが、どんな祝辞や式辞が寄せられるのだろう。
例えば、2022年度の学部入学式では、映画作家の河瀨直美氏が来賓として登壇し、その祝辞の内容が一部メディアに取り上げられ、ネット上で波紋が広がったというから、東大の未来もハーバード大学のそれとはあまり変わらない様に思える。
事実、彼女は式辞の中で、”ロシアを悪者にする事は簡単である”と述べ、”けれど、その国の正義がウクライナの正義とぶつかり合ってるとしたら・・・一方的な側からの意見に左右され、ものの本質を見誤ってはいないだろうか?・・悪を存在させる事で・・”との愚言をついた。
このバ◯女は、自身が監督した記録映画「東京2020オリンピック」(2022)でも同じ様な愚行をしでかし、”出来損ないの記録フィルム”と散々に酷評を浴びた。そして東大の入学式では、プーチンの一方的な侵攻を正義とみなす愚を犯したのだ。
全く、”バ◯は何度叩かれても直らない”とはこの事だろう。
事実、この時の入学式では、藤井輝夫総長がベンチャー企業に言及し、”起業や実業は単なる自己利益の追求に留まるでなく・・他者へのケアを実践し、公共性や社会への連帯を担うものとなる必要がある”との無難な祝辞で始まったが、彼女の失言のお陰で、東大の威厳も尊重もどっかへ吹っ飛んでしまった。
汚名挽回の入学式祝辞”その1”
その3年後の東京大学入学式の祝辞では、汚名挽回の為にどう修正されたのだろうか?
最初に藤井総長の祝辞だが、今回は”寛容のメカニズム”を新型コロナ渦で追い詰められた現代医学の視点で捉え、”自己とは何か”について述べられていた。
簡単に纏めると、”自己は独裁者として存在するではなく、対話と相互作用により他者との適切な関係を築く。免疫現象で言えば、自己とは現象=働きかけ=プロセスであり、他者との対話を重ねる事で自己が発展し、変容しながら理想の自己の創発が形成される”と説く。
例えば、人の免疫系は”自律分散”と”創発”の2つのシステムを備え、多種多様な細胞が協調的又は競合的に相互作用する事で、新たな自己が形成され、病原体を識別し排除する秩序が現れる。
一方、新たな自己の創発では、システムを構成する要素に多様性があり、他者との対話の双方向性の2つが重要となる。
微生物の側から”自己”を考えると、薬剤に対し耐性をもつ病原菌の蔓延が現代医学では大きな課題となるが、病原菌からみれば新たな”自己の創発”となる。つまり、抗菌薬に対する微生物の薬剤耐性の関係と言える。
この進化を可能にしたのが、微生物の中に元々存在してる多様性であり、抗菌薬の選択圧に耐性をもつ菌だけが生き残り、次世代を生みだて蔓延した。これはシステム(集団)の中の多様性こそが環境変化に適応する必須条件である事を示す。
人間も同様で、個々に多様性が存在し、様々な視点や経験を幅広く持つ事が生存戦略といえる。
他方、薬剤耐性菌が繁栄した大きな要因に、無差別に作用する抗生物質を一律に用い続けた結果、耐性菌への進化が促進された。つまり、一方向的作用=対話を通じて学ぶ姿勢の欠如により耐性菌という敵対的な他者を生み出した。
例えば、エイズ渦やコロナパンデミックでも、専門家らは現実を直視せず、自分たち納得させる説明に閉じこもり、率直に話しあう機会を避け、その実態と原因がいま多面的に論じられてる。これは、アメリカ社会の”免疫不全”の状況とよく似ている。
最後に”以上の様に、自己とは他者との交流や対話から創発される現象(プロセス)であり、出会いは一期一会であるからこそ、知覚に働きかけ、その精度を高める事が独創性の追求において大切です”と藤井氏は纏めている。
流石に、3年前の河瀨氏の愚言により袖にされ、かつ汚された、東大入学式の屈辱を晴らす様な力の籠もった演説にも思えた。
そこで、彼女にトドメを刺す訳でもないが、その後に述べられた数理科学研究科長の平地健吾氏の祝辞を抜粋して紹介する。
汚名挽回の入学式祝辞”その2”
”本日は1人の数学者としての経験をお話しします”との、出だしから並々ならぬ異様な何かを感じた。
”数学者は一握りの天才であり、早熟でなければならないという<早熟の天才>との思いこみは多様性を阻む固定観念であり、劣等感を肥大させるバイアスになり得ます。
現役の天才数学者として最も有名なのは、プリンストン大学のチャールズ・フェファーマン教授ですが、14歳でメリーランド大学に入学し、20歳でプリンストン大の博士号を取得し、22歳でシカゴ大の正教授となり、全米最年少の正教授記録を打ち立てました。その後、28歳でフィールズ賞を受賞しました。
彼は<数学とは悪魔とチェスの対戦をする様なもんだ>と言われた。つまり、数学の証明は悪魔によるいかなる反論も許さない完全な論証で、最初は完敗の連続なのだが、何度も対戦を繰り返すうち、勝利の瞬間が訪れるという。実際に、フェファーマンの「放物型不変式論」には<悪魔と対戦するゲーム>が登場します。
私はそんな彼に<数学とは問題を正しく理解する方法を見つける探検>だと答えた様に思います。適切な視点が見つかれば、問題は自然と解決へと向かい、探検を続けるうち視界が開け、理論はより簡潔で分かり易いものになるプロセスの楽しさに光を当てたかったのですが、<悪魔との戦い>に比べると・・・”と、平地氏はフェファーマンと共同研究を行った当時の記憶と興奮を振り返える。
ここからが本題に入るのだが、”ところで私の最初の業績と言えるのは、先ほどの「放物型不変式論」の未完成部分に新たな視点を加え、完成へと導いた事でした。これはフェファーマンをはじめ先行研究をじっくりと学んで考えた末に見つけだした解決策で、悪魔と直接戦う英雄的な数学者も必要だが、数学の発展には問題の周辺を丹念に探検する数学者も重要な役割を果たす。
<巨人の肩の上に乗る>との比喩を数学史ではよく聞く。これは12世紀のルネサンスの人文主義者が最初に使い、ニュートンの手紙で有名になった言葉で、小さな自分がより遠くを見わたせるのは巨人たちの肩の上に乗ってるからで、学知を創り上げた先人たちに学ぶ事の大切さを説く。
しかし、肩の上に登る事自体もけっして簡単な事ではない。巨人を十分に理解し、その形を正確に把握し、登る道すじを整備する丹念な作業が必要となるが、そうしたプロセスもまた新たな発見をもたらす”と、先人の重要性を示しながら、先人の肩の上に乗る伝承者の重要性を説く。
次に、数学は早熟でなければならないのか?についてだが、”数学は音楽と同じ様に幅広い知識や深い人生経験を必ずしも必要としない。故に、ガウスやモーツァルトやフェファーマンの様に、若くして才能を開花させる人もいる。確かに、ハーディ(英)は自著「ある数学者の弁明」の中で、数学は<若者の為のゲームである>と表現した。しかし、全てが若くして完成してる天才ではない。
例えば、プリンストン大のホ・ジュニ(許埈珥)教授だが、彼は小学生の頃、算数の成績が悪く<自分には数学の才能がない>と思い込み、詩人を志し高校を中退。その後ソウル国立大学に進学し、サイエンスライターを目指し天文学と物理学を専攻した。大学院在学中にフィールズ賞受賞者の広中平祐の講義を取材し、数学の魅力に引き込まれていくが、その2年後に数学の修士号を取得するも、アメリカの多くの大学院に応募したものの合格したのは1校だけ。しかし、その13年後の2022年、彼は韓国系の数学者としては初めてのフィールズ賞を受賞。これは、焦らずに自分のペースを大切に探究心を持ち続け、研究に取り組んだ結果の快挙でした”
最後に平地氏は、自身の経験を元に以下の様に締め括る。
”数学に限らず、ほぼ全ての分野の研究者に共通する事ですが、<行きづまり>が大きな試煉であると同時に面白さや楽しみの源である事になる。仮に、行き詰まりが全くないとすれば、それは単に難しい問題に挑戦してないからで、先ほどお話しした「放物型不変式論」は確かに難しい問題で、大学院に入り、解決の糸口が見えるまで4年も掛かりました。また、現在取り組んでる幾何学の論文の最初のアイデアが見つかったのは、考え始めてから10年後です。絶望的な行きづまりに耐え、考え続けるからこそ、発見の喜びはひとしおとなる。
皆さんも心から興味が持てる、十分に難しい問題に取り組み、絶望的な行き詰まりを経験して下さい。そして諦めずに考え続ける事が研究の喜びに繋がる長く曲がりくねった道なのです”
以上、東京大学HPを参考に纏めました。
最後に
2つ目の祝辞は(汚名挽回としてみても)かなりキツイものがあるが、これから不透明で厳しい日本の将来を支える東大生にしてみれば、厳しい言葉にも映ったであろう。
しかし、AIに舐められない為にも最適解とも言える祝辞でもある。
流石に、数学者は良い事を言う。
ただ、3年前にバ◯女に祝辞を述べさせるという東大の愚行がなかったら、今回の平地氏の厳しい祝辞もなかっただろう。
そういう意味では、河瀬氏の愚言に今更だが感謝である。
但し、今回は2つの祝辞を紹介したが、藤井氏と平地氏のそれとでは大きく食い違う。
前者は世界中に拡散する”多様性”とそれがもたらす”対話”を重んじ、後者は絶え間ない”探究心”とそれがもたらす”行き詰まり”の重要性を説く。
私的に言えば、過ぎた多様性は混乱を招くし、過ぎた探究心は自滅を誘う。言い換えれば、自分を他者に開放し、自己創発を促すか?或いは、自己に執着し、新たな未来を切り開くか?
行き着く所は同じだろうが、その過程は大きく異なる。医学と数学の違いと言えばそれまでだが、今にも数学が医学を超えて大きく飛躍しそうな勢いを感じる祝辞に映ったのは、言うまでもない。
アニメ「チ。」のテーマでもありますね。
地動説の探求者たちは報われるどころか迫害されるのに探求し続けました。
理由はそこに感動と喜びがあるから。
「タウマゼイン」=知的探求の原始にある脅威(喜び)
思考停止せずに考え続けたいと思うこの頃です。
一番陥りやすいのが、入学後の燃え尽き症候群による思考停止です。
祝辞では何とでも言えますが、東大生の思考停止はAIの助長を促すのでしょうね。
総学長には、AIの驚異にも触れてほしかった気がします。