
本書「数と正義のパラドクス」は前回も言った様に、「数が支配する、頭の痛い民主主義の数学」”Numbers Rule、The Vexing Mathematics of Democracy”の翻訳書です。
つまり、数が支配する”NumbersRule”が故に、民主主義のパラドクス(矛盾)が存在する。私が口酸っぱく、”数の論理だけで事を進めるとバカを見る”というのは、本書の本題の”NumbersRule”にも現れています。
しかし、こういう単純な事が日本人には理解できないのだろう。
つまり、数のパラドクスはそのまま多数決の投票のパラドクス、そして民主主義のパラドクスに繋がります。そういう視点で以下を読んで頂ければ、多少は理解しやすいと思います。
さてと、”多数決に正義はあるのか”の続き(後半)です。前回は、数が支配する民主的な多数決の矛盾とアテネ民主制、それに現代の議席割当ての矛盾について述べました。
寄せられたコメントにある様に、多数決には”二者択一”だけが絶対とされますが、あくまで数学的に言えばです。
もし候補者が2人とも無能であったなら、極論を言えば、ヘビとワニから議員を選べと言われたら選びようがない(笑)。でも国民のリーダーは必要です。
そこで、前回でも述べた民主主義の理想型である”アテネ民主政”みたいに、リーダーになってほしい人を国民投票による”直接選挙”で選ぶ訳です。しかし、プラトンが言う様に、”教育されてない人”を選んだら、大変な事になる。
実際、長嶋サンやイチローやAKB48らを国家元首として選んだら、話題こそ賑わいますが、それこそトランプ帝国みたいに国家は滅亡します。
そう考えると、教育で人を差別できる筈もありませんが、今のトランプ政権や日本の内閣府の無能ぶりを見てると、2千年以上も前にプラトンが言った事は正しかったんです。
現代数学がギリシャ数学やインド数学に起源を持つ様に、現代の民主主義も古代アテネ民主制に起源を持つ訳です。
つまり我々は今、アテネ民主制に学ぶ時期に来てるという事ですね。
そこで前回(前半)に引き続き、今回(後半)では、民主的と民主主義の識別の重要性と独裁制化した現代の民主主義と、それに投票のパラドクスについて述べたいと思います。
少しシビアな言い方にもなりますが、悪しからずです。前回と同様に、「数と正義のパラドクス」の訳者(寺嶋英志氏)の解説から一部抜粋です。
民主的と民主主義
我々は今や、民主的と民主主義を明確に識別する必要がある。それはそれぞれの本質を誤認する恐れがあるからだ。
我らが”民主的”という言葉を使うのは、選挙の時と議決の時だけである。
一方で三権分立というのは、政治権力を立法と司法と行政の3つに分け、相互に独立させる事だ。しかし我々国民が、選挙によって関われるのは、実は立法だけであり、それも間接的にである。
つまり、代表民主制という名の元に、我ら大衆は政治から間接的に隔離されてるだけでなく、司法官も行政官も誰一人、間接的にですら選挙で選ぶ事が出来ない。
その上、1票の重みは選挙区によって5倍以上もの格差がある。
そんな事(矛盾)が合憲であるか違憲であるかは、小学生でも分かる事なのに、それを国会議員が決める事もできず、司法に訴え、そこでさえ意見が分かれる。
哀しいかな、これが日本の現在の民主主義の成熟度、つまり”民度”なのだ。
麻生のアホ大臣が言う、”我々日本人は民度が違う”の民度ではない事は明らかだろう。
民主主義という言葉が古代アテネに始まる事は、誰でも知っている。
少なくともこの記事を読んでくれてる人は、当然知ってると思いたいし、もし知らない人がいたら、厳しい言い方だが、フォローもイイねも外してもらいたい。
古代アテネの役人は行政官だけでなく、裁判官や警察官や将軍も全て”直接選挙”で選ばれていた。という事実は、意外と知られてはいない(オレは知ってたけど、ケッケッ)。
この点だけを見ても、現代の民主主義は古代の民主制(民主政)よりも遥かに劣ったものである事が理解できる。
”民主的”という言葉は人に使うべきではない。民主的とは手法に対してのみ使われるべきで、人に対して使うべきではない。
例えば、”民主的な人”という言葉を使うのならば、それは”民主的手続きをする人”という意味で使うべきだ。事実、民主主義的な手続きで間接的に選ばれた議員は、選ばれた瞬間から民主主義が大嫌いな人種である事が暴露するのが多い。
「民主主義」(フィンレー著)に、”アテネの政治指導者である事の条件を最もよく表す言葉を1つだけ選ぶとしたら、それは<緊張>という言葉である”との1文がある。
現在、我らが選んだ政治家に欠けてるのは、この<緊張>という言葉である。
彼らは一旦選ばれてしまえば天国である。彼らは自らの強欲を満たす重要な手段として、”民主的手続き”を利用してるだけだ。
事実、民主的手続きで選ばれた人と民主的人間であるとは別モノなのである。
しかしこの本には、選挙を民主的なものにするには?どうやって不公平をなくすのか?には触れられてはいない。
つまり、著者のスピロ氏の視点で言えば、”選挙とは単に好き嫌いの基準で選ぶ事”であり、”民主的選挙とは好き嫌いの判断がそのまま公正に反映される手続きに過ぎない”となる。
そこには日本人が持つ、妙な理想主義や情緒的な甘えは微塵もない。
故に、民主的でない人(つまり、選ばれてしまえば民主的手続きには関心がない人)を好ましいと思うなら、”民主的手続き”を通じて”民主的でない人”を選べばいい。
ヒトラーも最初は国民の選挙で選ばれた。国家の民主主義のレベルは、立候補する人達と彼らを選挙で選ぶ人達の、民主主義の成熟度(民度)そのものである。
故に、北朝鮮の様な世界的水準から見ても最低レベルの民度の独裁国家であっても、自国を”民主主義人民共和国”と称する事には、何ら不思議もない。
以上、少しキツい言い方になりましたが、寺嶋氏の解説を読んだだけで、すごく勉強になりますね。
投票のパラドクス
民衆の意志を実行に移す為に、私達の民主主義的な制度とその手段が決して確実なものではない事は、以上で長々と述べました。
この”投票の矛盾”の1つの例に「コンドルセのパラドクス」がある。
フランスの数学者ジャン・マリー・コンドルセ侯爵(1743-94)の名に因んでつけられたこの逆説は、遠い昔から我らが大切にしてきた多数決というものが逆説的な性質を示す事を、エドワード・ジョン・ナンソン(1850-1936)が数学的に定式化したものだ。
大まかに言えば、多数決により3つ以上の選択肢から1つを選ぶ場合、例えば候補者A、B、Cの中から3人の投票者により多数決で選出する場合、投票者の選考順序(好み)がそれぞれ、A>B>C、B>C>A、C>A>Bの様に異なると、好みに循環が生じ、同票になり決着がつかない。
そこで作為的に候補者を2人に絞り、投票を行い、その勝者と残る1人を競わせる事で決着はつくが、投票の手続きによって勝者が異なってしまう。
故に、投票を故意に操作する事が可能になる。つまり、先日の大統領選挙の様な不正選挙疑惑は、18世紀に既に数学的にはではあるが、定式化されてたのだろう。
2世紀に渡り、この矛盾の謎を解こうと数学者や統計学者が躍起になったが、結局は無駄であった。
しかし20世紀中盤に、ケネス・アローはパラドクスを避ける事は出来ないという事と、1つを除き(二者択一の時)、あらゆる投票の仕組みには矛盾があるという事を数学的に証明した。その数年後、アラン・ギルバートとマーク・サタースウエイトは1つを除き、あらゆる投票の仕組みが操作される事が可能である事を示した。
つまり、このパラドクス、矛盾、そして操作を避ける唯一の政治的手段は、独裁制なのだろうか。
更に、上述した様に、米議会の議員割当てはさらなる謎を提供する。当然、割当ては整数であるべきだ。
もしある州が33.6議席もらえるのならば、下院議員は何人必要か?33人か34人か?単純な四捨五入では、議員総数が定員の435人にならないのは明白だろう。
実はそれに変わる方法が、ヨーロッパの他の国と同様にアメリカでも行われたが、大きな困難にぶつかった。ある方法は小さい州に有利で、ある方法は大きい州に有利になる。もっと悪い事に、ある条件の元で議会の定数を増やせば、幾つかの州で議席を失うかもしれないのだ。
この奇妙な矛盾は”アラバマ・パラドクス”として有名だが、他の不合理としては人口パラドクスや新州パラドクスなどがよく知られている。
政治家や裁判官や科学者たちは、この奇妙な矛盾と何世紀もの間格闘してきた。しかし、アローの不可能性定理と同様に、最終的にこの問題の解答は存在しないという事が判明した。ペイトン・ヤングとマイケル・パリンスキは数学的にこれを証明した。
本書は、我らが最も大切にしてきた民主主義の方法に固有の問題と危険についての解明と歴史的説明である。
物語は、2500年前の古代ギリシャとローマの思想家プラトンと小プリニウスに始まり、中世の聖職者ラモン・ルルとニコラス・クサヌスへと続き、フランス革命の英雄と犠牲者のジャン・シャルル・ド・ポルダとコンドルセ侯爵に行き、アメリカの建国の父たちに向きを変え、上述のアローとギルバートにサタースウエイト、そしてヤングとパリンスキで終わる。
この本で強調されるのが、過去2千年の間、民主主義のパラドクスを理解し、それらを正す為に奮闘した知識人たちの物語である。
ジョージGスピロという数学者が書いた本だが、最も基礎的な数学の域を出ない。
しかし、一見単純に見える数の論理や好き嫌いの論理こそが、このパラドクスの本質的な問題なのである。
そして、この問題は驚くほど深く、議論は驚くほど複雑なのだ。
以上、スピロ氏のまえがきから、一部引用でした。
最後に〜民主主義は誰が為にある
長々と2回に分けて、多数決のいや投票のパラドクスを説明しましたが、これでも貴方は現代の民主主義に絶対の信頼をおくのか?と問いたい。
しかし現実には、この大きな矛盾と波乱を抱えた民主主義以外に、より良い主義はない様にも思える。勿論、数学的に証明された訳でもないが。
ただ、2千年以上も前のアテネ民主制では理想的な民主主義が行われてたにも関わらず、現代の民主主義は形骸化し、多数決や投票の矛盾に蓋をしただけの独裁制でもある。
事実、安倍の長期政権やトランプの独裁ぶりを見てると、2世紀もの格闘の末に解き明かされた、民主主義のパラドクスの数学的証明は今や現実のものとなり、民主主義の致命的な矛盾が皮肉にも暴力という形で証明された。
この本では数学的にではありますが、2010年の段階で民主主義の矛盾と崩壊を解き明かしてました。そしてその10年後、現代の民主主義は”破滅の方程式”を辿るかの様に、死滅しかけてます。
一方で、長期安倍政権の度重なる不正や汚職は、そのまま日本国民の民度の低さを顕にしました。そして、菅新政権になってもそれは全く変わりません。
現代民主主義の覇者であった筈のアメリカは、民主的な選挙の結果がそのまま死者5人を排出する無残で目を覆うような、極右系白人テロの暴徒化へと繋がりました。
現代民主主義の終着駅が、不正や汚職や白人テロの病巣であったとは皮肉な結果ですが。堪り積もったウミを出すという点では、当然の結果かもしれません。
多数決のパラドクスは、今や絶対多数の暴徒化に繋がり、民主主義の終わりを告げる様な勢いです。
パラドクスがパンデミックに変わる時、民主的であった筈の多数決は暴力となり、その暴力は数の論理を持って民主主義を死滅させるのだろう。
そう思うのは私だけだろうか?
スピロ氏も多数決や民主主義に変わる代替案を提示してはいません。でも数学的に否定された事が現実となったのを考えると、いち早く多数決に変わる代替案がほしいです。
強いてあげれば、プラトンが主張した”高度な教育を受けた”全てにおいて優れた知識人を2人選び、直接選挙でリーダーを選ぶというやり方ですが。知識人の寡占状態を招く可能性もあるので難しい所ですね。
プラトン等哲学者たちがリーダーは哲学者から選ぶべきという考えに同感しておりましたよ
象が転んださんからは学べますね
これからもお教え下さいね。
私の様な電気屋的立場で言いますと、設計とは、有る物の中にある複数の性質のどれかを際立させる事です。例えば、1台の車にスピードと積載量の多さを同時に持つ事は、出来ないと言う事です。
誰かが得をすると他で泣く人がいると言う事になります。得をする人が少ない程、その集団は、破滅に向かいます。
現に、日本は、産業・国民の生活等あらゆる面で衰退の一途を辿っています。これは、ここ何代かの政権によりもたらされた事で例を挙げるまでもありません。
国が良くなる為には、出来るだけ多くの人が良くなる事を考える事が、国民一人一人の幸せに繋がると考えています。国同士の間でも同じ事です。
アテネ民主制は200年ほどで消滅しますが、プラトンが理想としたのは民主制ではなく独創的な国家(共和国)でした。師のソクラテスが市民投票で死刑になったのを機に、民主主義は腐った形態に映ったんです。
話が長くなるのでここまでにしますが、流石のプラトンも挫折するんですよね、
コメントどうも有り難うです。
今の民主主義?はごく一部の者がより多くの得をする独裁制です。暴徒が起きるのも当然ですね。
こうした人間の強欲を見抜いてたプラトンは偉いんですが、民主主義の崩壊も予見してたんでしょうか。
コメントどうも有り難うです。
現代の民主主義が独裁制だということは薄々感じてたけど、アメリカはトランプ帝国だったし、日本は安倍独裁政権だった
でも暴力という形でアメリカの民主主義が崩壊するのは、見てて悲しいよ
かつて夢の大国は今ではもはや暗黒の大陸
トランプはハゲとともに去り、アメリカは暴力と共に消滅する
アメリカは昔のアメリカに戻る事はまずないです。
でも傲慢なアメリカを駆逐したのがコロナウイルスというのも出来過ぎです。
これから世界はどんな方向に向かうんでしょうか。