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常なる忠誠

LEATHERNECK FAN別館または史跡巡りな話

総曲輪遺跡(富山城)

2011-05-28 01:39:18 | 史跡
 総曲輪(そうがわ)遺跡は、縄文時代の集落の跡地で、富山市中心部にあり、現在は富山城跡となっている。北側は、神通川だったが、埋め立てられ、松川となり、富山県庁、富山市役所、そしてNHKなどがある。
 富山藩の本拠地として選ばれたせいもあり、神通川に面しているにもかかわらず、同川氾濫時の被災マップでも、ここだけは水没しない場所になっている。
 そして、何より、富山城の天守閣は、「日本最古の天守閣」である。
 福井に正真正銘の日本最古の天守閣(犬山城と最古を争ってはいるが)が現存する丸岡城があることから、北陸は、「日本最古の天守閣」が二つもあることになる。
 但し、富山城は鉄筋コンクリート製として。
 要するに。
 日本各地にでっち上げで作られた天守閣の元祖。
 歴史とかは富山市埋蔵文化センターが詳しいので、そちらを「富山城研究コーナー
 なお、富山市は、「前田家? 佐々成正だろうよ」というスタンスだったりするが、隣の高岡市は、前田家の墓所があったりする関係で、市のキャラクターに前田利長をモチーフにするなど、「佐々だ? 前田家だろうよ」というスタンスである。
 滝廉太郎の荒城の月は、この富山城が元だそう。
 まあ、大体、本藩の金沢城に天守閣がないのに、支藩が天守閣作るわけにはいかないよな、と。




 天守閣は、郷土博物館になっている。階段は天守閣の作りそのままなので、客に対しては、かなり、厳しい作りだったり、これを作ってしまったがために本格的な調査が遅れてしまった理由になってはいる。建設の際には、福井の丸岡城(こちらは正真正銘日本最古の天守閣が残る)などを参考にしたそうである。




 石垣も当時の物ではなく、再現である。



 神通川が今の流れになる前は富山城の北側から蛇行し、今の環水公園に抜けていた。現在は松川として桜の名所となっている。




 現在、城内は公園としての整備を行っている最中だが、西側はほぼ完了し、現在は東側を整備している。



 富山城で、唯一の当時物が、この「千歳御門」である。とはいえ、移築されたものを再移築したので、当時のままという訳ではなかったりする。



 同公園内にある佐藤記念美術館。こちらも城風な作りになっている。



 富山藩二代藩主「前田正甫」の銅像。富山薬売りは、この人が発端で始まった。でも、富山市は、「佐々萌」である。



 展示されている「国鉄9600形蒸気機関車」。保存といっても、手入れは全然されていなかったりする。



 正真正銘日本最古の天守閣が残る丸岡城。富山城を作る際に、参考にされた。



 本家前田藩の金沢城。写真中央の石垣が本丸のあった場所。さすがに規模は相当なもの。



 おまけで福井城。さすがに規模は大きい。現在は天守閣の代わりに県庁と県警本部がそびえ立っている。

 更におまけで、北の庄城跡である柴田神社。鬼三姉妹(一応、次女除く)を絶賛盛り上げ中。是非、「旦那の浮気でできた赤子に灸すえて殺す」とか、「旦那の浮気でできた子供(保科正之)を、殺すからよこせ」というエピソードを……やらないだろうなあ。なお、後者は預け先の武田信玄の娘が、「ふざけんな」と一蹴。



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 一応、城の地下に駐車場がある。

小竹貝塚

2010-09-27 00:50:19 | 史跡
 小竹貝塚は呉羽山丘陵の北端部に位置する日本海側最大級の貝塚(東西120メートル。南北190メートル)。縄文時代前期の貝塚で、東へ800メートル行った場所に同じ放生津潟にあった蜆ヶ森貝塚、更に東へ進むと北代縄文遺跡があり、更に東へ進むと富山県内において第2位の規模を持つ百塚古墳群がある。
 貝層はヤマトシジミが主体で海洋性の貝類は僅か。
 現在、発掘調査が行われ、昨年は竪穴住居10棟が発見。今年は6月に2.5メートルの層から13体。更にその下の層から60体の人骨が発見された。状態は良く、一度、埋葬した後に新たに埋葬し直した形跡もあったという。

 特に貝塚としての痕跡が残っているわけではなく、説明板があるのみ。一帯は田園地で、背後は住宅地。場所はわかりにくいが、車で行くことは可能である。



 発掘は、12月24日まで。色々と発見されているので延期された。



 発掘調査をされているC地区。写真奥で土器などの廃棄物。手前で石斧を持った屈葬人骨が発見されている。



 多数の人骨が発見されたB地区。奥から半ばまでが墓域。



 人骨の発見された墓域。


 早い話が、北陸新幹線のルートにあるから発掘調査をしているわけで。
 一年後(2011年9月10日)に撮影した小竹貝塚。




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10月14日追記
 14日に縄文時代前期の埋葬された人骨71体(身体を屈めたもの44、伸ばしているもの1、埋葬不明26)が発見されたと発表あり。
 同時期としては日本国内最多。

宮崎城跡(北陸宮墳墓)

2010-09-12 02:04:38 | 史跡
 隆慶一郎著「一夢庵風流記」。前田慶次郎利益という無名の武将(色々逸話は残っているし、海音寺潮五郎作の作品もあれば、池波正太郎の真田太平記に名前だけとはいえ、触れられてはいる)の名を一躍有名にし、「花の慶次」として漫画化もされた最後の完成された長編で、上杉景勝の佐渡征伐に参戦しようとする前田慶次の親友である奥村助右衛門が、四井主馬の元を訪れ、たった四語で、主馬を切腹内定状態に持って行った名シーン(漫画ではカット)で、主馬が前田慶次を待ち伏せさせた天然の要害「親不知」。

は、今回、関係ありません(近いのと、一度、行きたかったので、まず、親不知を北陸道で目指して国道8号線を引き返してきた)。
 1182年、京都を脱出した北陸宮は、木曾義仲に属する宮崎太郎長康の庇護下に入り、八幡山こと城山に儀式を行うための御所を建設。ここに富山県内最古の山城「宮崎城」が始まる。
 北陸宮入洛後、承久の変で戦場となり、以来、境関所が江戸時代に設置されるまで、上杉、佐々、前田配下の武将が配置されていた。
 江戸時代に廃城となってから、数百年。今度は、日本軍が電波技術研究所を設置し、能登から佐渡に渡る電波を管理し、連合軍の本土空襲に備えた場所となる。
 現在は、城山公園として一帯は整備されており、訪れた際、家族連れなどが訪れてもいた。オニヤンマと熊は出るけど。
 もっとも、公園駐車場(結構、広い)まで行くには、車一台が通れる道(舗装されてはいる)を登っていくことになる。




 宮崎城本丸跡及び北陸宮御所跡。標高は285m(G-SHOCKによる計測。朝日町のサイトによれば、248m)。冬は、完全に雪に閉ざされる場所であり、日常の御所は別な場所にあったとされている。



 本丸下にある宮。右に見える石碑によれば、北陸宮が元服し、木曾義仲が武運長久を、ここで祈願したという。



 新潟側。親不知を抜けた軍は、宮崎城の眼下を通過することになる。



 富山側。富山から、新潟に向かう軍は、宮崎城の眼下を通過することになる。逆に言えば、宮崎城を抜けると、後はこの平地を前進することが可能となる。



 宮崎城空堀跡。元々、堀だった場所を、陸軍が電波技術研究所を設置する際に埋め立てて道を作った。



 なお、城山公園の少し手前には、NTTの無線中継所があり、今なお、この場所は、電波を管理している。



 二の丸跡。特に見るべきものはない。



 三の丸跡。ここに北陸宮墳墓、宮崎太郎長康供養塔、そして、宮崎城の石塁が残っている。



 三の丸に残る石塁。



 北陸宮墳墓。右にあるのが、宮崎太郎長康供養塔。



 北陸宮墳墓。平家が木曾義仲によって、京都から脱出した後、後鳥羽天皇との継承権争いに敗れ、更に、その木曾義仲が、源義経によって敗死したために支持基盤を失ったことにより、権力闘争から脱落し、54歳で亡くなられた。昭和45年に分骨されて、このゆかりの地に埋葬されたことにより、地方では数少ない中世の皇族の墳墓が設けられた。



 宮崎太郎長康供養塔。北陸宮を保護した後、木曾義仲の下で、倶利伽羅峠合戦の作戦立案を行ったとされる。


 国道8号線から入っていき、細い山道を登っていくことになる。道は整備されているが、対向車が来ると場所によってはすれ違うことが難しい。駐車場自体は広い。駐車場から、城山公園までは徒歩。北陸宮墳墓は、本丸の先にある道を下っていく。

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大境洞窟住居跡

2010-09-09 22:41:28 | 史跡
 富山県氷見市。日本で初めて、洞窟遺跡の調査が行われた場所。

 元々は、海による浸食でできた洞窟で、いつしか(縄文時代あたり)から人が住むようになった。しかし、地震などで洞窟が崩落。が、その後、また、人が住むように、そして、また崩落。を繰り返しているため、洞窟内は、6層に渡って、まさに歴史が積み重なっている。
 中世に入ってからは、神が祭られるようになったため、縄文時代から、中世にかけての人骨、土器、陶磁器、動物の骨などが発見された。
 場所は、漁港のすぐ側。駐車場もあるので、気軽に立ち寄ることができる。岸壁側の道は崖崩れによって封鎖されているが、特に問題はない。



 全景。手前にあるのは白山社。今現在、18mm-70mmのレンズを使っているが、もう少し広角が欲しいと思う。



 内部に展示された説明板の一つで、洞窟の内部を示している。左下が、積み重なった層を説明している。



 洞窟の最奥部。まだ先はあるようだ。洞窟内部自体は崩壊を防ぐために補強がされており、新たな歴史が積み重ならないようにはなっている。


 なお、GoogleMapで大境洞窟住居跡と記されている場所に、大境洞窟住居跡は無い。実際には、地図にある白山社の奥に位置している。GoogleMapめ。

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