退院のときのメモ[1977・1・9 晴れ]
昼前、病院を出た。
今日退院だった。同室のミヤケさんとその夫人、母上と弟と自分、5人で病院の外に出た。
外気は心地よかった。せいせいした。とても気分がよかった。
でも、外には人通りがぜんぜんなかった。しーんとしていた。それはそれは静かだった。
Kの生涯初めての入院はお正月の3日からの1週間だった。初の救急車の乗車もこの時に経験した。
1月3日の夜、テレビでは芸能人のかくし芸大会が行われていた。高校生と中学生で食べ盛りのKとその弟は、お腹が空いてラーメン食べようかという話になったのである。
インスタントラーメン(カップではなく、袋めん!)を夜中に食べるのは、夜はまだまだ長いという感じで、ウキウキした気持ちを感じていた。何しろ三が日の最終日なのだ。まだ、勉強をしなくても許されるような気がしていただろう。
それなのに、どうしたわけかラーメンを入れた鍋がひっくり返った。その煮えたぎったラーメンとお湯は、Kの左ふとももの上にドッとかかったのである。Kは何がなんだかわからないけれど、とにかく暑くて痛い感覚が炸裂している。
どこで仕入れた知識なのか「ヤケドにはしょう油がいい」と聞いていて、しょう油をかけてみたのである。当然のことながら、全く効果がなく、どうにもならず「アッツッ、ツッツー、熱い!」とKは叫んだ。
冬には、家族みんながももひきをはいていた。やたら熱いので、ももひきを脱げば熱さも少しはましかと考え、ももひきを脱ぐ。すると、皮膚がペロリとくっついていく。「ああ痛い!」と思ったけれども、それはあとの祭だ。こうなれば水道の蛇口のところに行け!
直接水をかけて、少し痛みはおさまる。けれども痛い。ヒリヒリはつづくし、どうにもこうにも熱く、痛い。
大変なことになったと、家族が救急車を呼ぶ。Kが病院へ入ったときは、錯乱状態はおさまっていたが、痛いのだけはどうしようもなくて、何とかして欲しい気持ちでいっぱいであった。
雷文(らいもん)というらしいです。実家のラーメンどんぶりにはこのマークがありました。どうしてこれを使わなかったんでしょうね。ズボラしたんですね。
当直のお医者さんが、「ああヤケドね」という穏やかな対応と適切な処置をしてくれて、それなりに落ち着くけれども、痛みだけはどうにもならず、はがれた皮膚の空白感を軟膏やら、点滴などで紛らせていたようであった。
ただ、病院に入った安心感からか、どっと疲れがでてきて、寝てしまいたい気持ちが起こる。その前にオシッコしようと思い、動けないのでそばにいた母親にしびんを持ってきてくれるように依頼をした。おかげさまで、Kくんは心穏やかにオシッコをした。するとなんだかベッドがどんどん冷たくなるのだった。
なんと母親が持ってきてくれたブラスチックのしびんには穴が開いていて、自分のオシッコが今夜の寝床に広がってしまっていた。
「ああ、何たる不運!」看護婦さんにも言えず、寒くて痛い夜が過ぎていくのを待つしかなかったのである。
1週間の入院のあと、冬休みが終わって、始業式の日だけ学校を休み、大やけどでも学校は1日だけの欠席で済ませた。ただ、正月早々病院暮らしというのは何か淋しいものがあったようである。もちろん、宿題もできず、成績もおぼつかない感じである。
カムバックは果たしたものの、自分で引き剥がした皮膚はなかなか再生せず、しばらく通院が続く。
昔から一度何かで入院してだれかに見舞いに来てもらいたいとKは思っていた。ところが、いざそういう状況になってみると、だれもKを心配してお見舞いに来る人もおらず、同室のオッチャンたちの人生訓話に感心しただけで、ほんの少しだけ成長したのかもしれない。この不幸な事件も人生の1つのできごととしてとらえようという気持ちになっていたのである。
とにかくヤケドの痛みは強烈で、以後ラーメン鍋には恐くて寄りつくことができないようだった。しかし、まあ、夜にお腹が空いて、人にラーメンを作らせるようなヤツが悪いのである。いわば、自業自得というものだし、煮えくりかえったラーメン鍋がひっくりかえらないわけはないのである。危険はいつも隣り合わせで私たちのまわりにあるものだったのである。
こちらは双喜文(そうきもん)というらしい。いわゆるダブルハピネスですね。昔から中華は日常生活にいっぱいあったのに、ちかごろなぜか拒否してますね。もっともっと日常に中国のものを取り入れていかなきゃダメですね。
★ もう「ハイスクールデイズ」は特別編しか書けないです。ネタがないというか、探してないですもんね。ああ、どこにも行かない土日でした。お金もないし、何をやってんだかの感じです。
昼前、病院を出た。
今日退院だった。同室のミヤケさんとその夫人、母上と弟と自分、5人で病院の外に出た。
外気は心地よかった。せいせいした。とても気分がよかった。
でも、外には人通りがぜんぜんなかった。しーんとしていた。それはそれは静かだった。
Kの生涯初めての入院はお正月の3日からの1週間だった。初の救急車の乗車もこの時に経験した。
1月3日の夜、テレビでは芸能人のかくし芸大会が行われていた。高校生と中学生で食べ盛りのKとその弟は、お腹が空いてラーメン食べようかという話になったのである。
インスタントラーメン(カップではなく、袋めん!)を夜中に食べるのは、夜はまだまだ長いという感じで、ウキウキした気持ちを感じていた。何しろ三が日の最終日なのだ。まだ、勉強をしなくても許されるような気がしていただろう。
それなのに、どうしたわけかラーメンを入れた鍋がひっくり返った。その煮えたぎったラーメンとお湯は、Kの左ふとももの上にドッとかかったのである。Kは何がなんだかわからないけれど、とにかく暑くて痛い感覚が炸裂している。
どこで仕入れた知識なのか「ヤケドにはしょう油がいい」と聞いていて、しょう油をかけてみたのである。当然のことながら、全く効果がなく、どうにもならず「アッツッ、ツッツー、熱い!」とKは叫んだ。
冬には、家族みんながももひきをはいていた。やたら熱いので、ももひきを脱げば熱さも少しはましかと考え、ももひきを脱ぐ。すると、皮膚がペロリとくっついていく。「ああ痛い!」と思ったけれども、それはあとの祭だ。こうなれば水道の蛇口のところに行け!
直接水をかけて、少し痛みはおさまる。けれども痛い。ヒリヒリはつづくし、どうにもこうにも熱く、痛い。
大変なことになったと、家族が救急車を呼ぶ。Kが病院へ入ったときは、錯乱状態はおさまっていたが、痛いのだけはどうしようもなくて、何とかして欲しい気持ちでいっぱいであった。
雷文(らいもん)というらしいです。実家のラーメンどんぶりにはこのマークがありました。どうしてこれを使わなかったんでしょうね。ズボラしたんですね。
当直のお医者さんが、「ああヤケドね」という穏やかな対応と適切な処置をしてくれて、それなりに落ち着くけれども、痛みだけはどうにもならず、はがれた皮膚の空白感を軟膏やら、点滴などで紛らせていたようであった。
ただ、病院に入った安心感からか、どっと疲れがでてきて、寝てしまいたい気持ちが起こる。その前にオシッコしようと思い、動けないのでそばにいた母親にしびんを持ってきてくれるように依頼をした。おかげさまで、Kくんは心穏やかにオシッコをした。するとなんだかベッドがどんどん冷たくなるのだった。
なんと母親が持ってきてくれたブラスチックのしびんには穴が開いていて、自分のオシッコが今夜の寝床に広がってしまっていた。
「ああ、何たる不運!」看護婦さんにも言えず、寒くて痛い夜が過ぎていくのを待つしかなかったのである。
1週間の入院のあと、冬休みが終わって、始業式の日だけ学校を休み、大やけどでも学校は1日だけの欠席で済ませた。ただ、正月早々病院暮らしというのは何か淋しいものがあったようである。もちろん、宿題もできず、成績もおぼつかない感じである。
カムバックは果たしたものの、自分で引き剥がした皮膚はなかなか再生せず、しばらく通院が続く。
昔から一度何かで入院してだれかに見舞いに来てもらいたいとKは思っていた。ところが、いざそういう状況になってみると、だれもKを心配してお見舞いに来る人もおらず、同室のオッチャンたちの人生訓話に感心しただけで、ほんの少しだけ成長したのかもしれない。この不幸な事件も人生の1つのできごととしてとらえようという気持ちになっていたのである。
とにかくヤケドの痛みは強烈で、以後ラーメン鍋には恐くて寄りつくことができないようだった。しかし、まあ、夜にお腹が空いて、人にラーメンを作らせるようなヤツが悪いのである。いわば、自業自得というものだし、煮えくりかえったラーメン鍋がひっくりかえらないわけはないのである。危険はいつも隣り合わせで私たちのまわりにあるものだったのである。
こちらは双喜文(そうきもん)というらしい。いわゆるダブルハピネスですね。昔から中華は日常生活にいっぱいあったのに、ちかごろなぜか拒否してますね。もっともっと日常に中国のものを取り入れていかなきゃダメですね。
★ もう「ハイスクールデイズ」は特別編しか書けないです。ネタがないというか、探してないですもんね。ああ、どこにも行かない土日でした。お金もないし、何をやってんだかの感じです。