甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

1907年の9月14日未明・倶知安と啄木

2023年10月31日 16時35分16秒 | 一詩一日 できれば毎日?

 その年の6月、函館の弥生小学校の代用教員の石川啄木(月給12円 1902年に小諸義塾の教員をしていた30歳の島崎藤村の月給が25円、漱石先生はその3倍ほどだったか? 代用教員とはいえ、啄木の月収はものすごく少ないのです。たぶん、今の12万円かそれ以下だと思われます)、青柳町に新居を構え、妻子や母を迎えたそうです。21歳で一家の大黒柱になりました。父親は失踪していたということでした。

 ああ、それなのに、8月15日、函館大火により学校も、新たに勤めた新聞社も焼けてしまいました。命さえあれば何とかなるのだから、函館で地道にコツコツと教員なり、新聞記者なりに励めばいいのに、啄木は札幌に向かいます。

 9月13日に出発して、汽車は深夜の倶知安駅にたどり着いたそうです。その時の駅での一こまを歌にしました。

 真夜中の
 倶知安駅に下(お)りゆきし
 女の鬢(びん)の古き痍(きず)あと



 倶知安という地名、駅を降りるまばらな客、それぞれの後ろ姿、時間はこれだけでは不明ですけど、女の髪の後ろにどんな傷があったのか。啄木はその女の人と車内で言葉を交わしたのか。すべては不明ですけど、女の痍(きず)あとに引きずられている。

 それだけのことなのに、それがどんな意味を持つのか、何もコメントしないで、啄木は私たちに投げ出している。私たちは、この歌をどう受け止めたらいいんだろう。

 日記では、この夜の汽車は混んでいたと書かれていました(私は古本でこの日記を持っていました! 200円です!)。

 車中は満員にて窮屈この上なし。函館の灯火ようやく見えずなる時、言いしらぬ涙を催しぬ

[翌14日]午前4時小樽着、下車して姉が家に入り、11時半再び車中の人となりて北進せり、銭函にいたる間の海岸いと興多し、銭函を過ぎてより汽車ようやく石狩の原野に入り一望郊野立木を交えて風色新たなり。


 こんな風にして啄木は、小樽と札幌の間を行ったり来たりして、最後には道東の釧路に行き、そこで一冬過ごして、春には船で東京へ向かいますが、そんなこととはわからない私たちは、彼のことばをずっと100年以上受け止めています。

 駅前の歌碑に書かれていた言葉を写してみます(歌碑の最後の方は、現代の倶知安に生きる人々への歌碑製作者からのメッセージにもなっている気がします!)。

 石川啄木が函館から小樽に向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治40年(1907)9月14日の午前1時過ぎである。
 啄木は、この時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治43年12月)に収めた。

 鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女とは、実景であったのか、それとも真夜中の倶知安のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったかは、定かではない。


 当時の倶知安村は開墾が始って15年たったばかりであった。駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。この夜、駅を降りた人たちの見上げた空に、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきた〈すばる〉が輝くまでにはまだすこしの間があった。



 ということでした。スバルとは、王者の星だったんですね。そんな希望の星を啄木は見あげただろうか。彼なら、そんなことよりも、自分の仕事と、いかに自分の才能を発揮するのか、小説のネタはどこかにないか、そんなことばかり考えていたでしょうか。

 彼はまだ21歳でした。それなのに、ずっと苦労し続け、ふるさとをなくし、家族は放浪の旅に出ていました。安住の地はなかなか見つけられなかったのです。

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