甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

「放浪記」(1930)から

2024年10月03日 16時44分45秒 | 本読んであれこれ

 今日のお昼(10/3)のBSで『放浪記』(1962 東宝)を見ました。監督は成瀬巳喜男さんで、主演は高峰秀子さんでした。詩のお友だち・ライバルとしては草笛光子さんが出ておられたんですけど、当時から62年も経過しているのに、今とあまり変わらない感じで、それがすごいなと思うばかりでした。草笛さんはずっと同じ芸風で長くされてきたわけだ!

 『放浪記』ですから、原作の林芙美子さんの文章が使われていて、その人生をたどるわけで、映画の最後の方には、大きなおうちで作家の先生として過ごしていて、母親役の田中絹代さんも田舎から出てきて、一緒に住んでいる。そこを昔馴染みで高峰さんを慕っていた加東大介さんが訪ねてきて、昔をしのび、現在の夫である小林桂樹さんがあたたかく見守ってあげている。

 ふとふり返ってみると、両親と幼いふみこさんが瀬戸内の海が見える道を歩いている、そういうところで映画は終わる。ふみこさんが成功するまでの物語というものでした。果たしてそうだったのかどうか、原作を読むのは途中で挫折したし、とりあえず、林芙美子さんの人生を見てみようと、家にある本などを取り出してみました(ネットで調べるのはやめにしました)。

 1903・M38年に門司でお生まれになった。その後、下関、若松本町、長崎、佐世保、鹿児島、とお父さんのお仕事の関係で転居を繰り返し、1916年から1922年の上京まで尾道に住んでいた(これがかなり定着した生活だったみたいです)。1926年に結婚。1928年に「放浪記」の最初の部分を雑誌に発表。1930年8月に改造社より『放浪記』が刊行され、ベストセラーになった。

 ということは、27歳くらいでベストセラー作家になったということのようです。苦労はしたけれど、若いデビューではないの? と思うのは今の感覚でしょうか。それからすぐにヨーロッパの旅に出る。作品はそれからもいろいろと出したのでしょう。戦争中は軍に協力的な取材もした。戦後、1949年より『浮雲』の連載が始まる。これも代表作でしようか。

 1951年6月27日、連載記事の取材を終えて帰宅後、気分が悪くなり、翌日死去。死因は心臓麻痺だったそうです。ということは、48歳で亡くなってしまわれた。彼女の言うように「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」になってしまった。

 『放浪記』は1935年に映画化され、何度か作られたようです。1962年の高峰秀子さんのものは、東宝の30周年記念作として作られてもいる。役者さんも、東宝で活躍されていた人たちがたくさん出ていました。

 以前、付箋を付けていたところを抜き書きしてみます。どうしてここに付箋を付けたのか、それは不明ですけど。

  十月✕日
 折れた鉛筆のように、女たちは皆ゴロゴロ眠っている、雑記帳のはじにこんな手紙をかいてみる。――生きのびるまで生きて来たという気持ちです。ずいぶん長いこと会いませんね、神田でお別れしたきりですもの……。もう、しゃにむに淋しくてならない、広い世の中に可愛がってくれる人がなくなったと思うとなきたくなります。

 いつも一人ぼっちのくせに、他人の優しい言葉をほしがっています。そして一寸(ちょっと)でも優しくされるとうれし涙がこぼれます。大きな声で深夜の街を唄でもうたって歩きたい。夏から秋にかけて、異状体になる私は働きたくっても働けなくなって弱っています故(ゆえ)、自然と食べることが困難です。金が欲しい。白いご飯にサクサクと歯切れのいい沢庵でもそえて食べたら言うことはありませんのに、貧乏をすると赤ん坊のようになります。

 明日はとても嬉しいんですよ。少しばかりの稿料がはいります。それで私は行けるところまで行ってみたいと思います。地図ばかり見ているんですが、ほんとに、何の楽しさもないこのカフェーの二階で、私を空想家にするのははしご段の上の汚れた地図ばかりなのです。……生きるか死ぬるか、とにかく旅へ出たいと思っております。

 何が気に入って付箋を貼り付けたんだろう?

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