1908年の4月までは啄木くんは釧路にいたようです。釧路新聞の編集長格とされていたようです。とはいえ、勤務したのは1月から4月までだから、3か月ほどだったんですね。腰を落ち着ける気持ちはなかったようです。
それよりも彼には、自らの才能に恃むところがあって、やがては自らの作品をたくさんの人々に読ませてあげようという、妙な自信があったんです。まだ22歳なのに、どこでそんな自信があったのか、果たして彼にはどのような文芸世界を作り上げるつもりだったのか。
形もないのに、やたら自信があるだけなんて、怖いくらいなんですけど、「そのうち絶対に文学で人々をあっと言わせてやる」という気概だけがありました。
家族のいる懐かしき函館に寄り、すぐに東京に出て、友人である金田一京助さんちに転がり込み、彼のサポートで東京生活を始め、1ヶ月ほどで5つの作品をかきあげたそうです。でも、まるで売れなかったということでした。その中で「二筋の血」というのは読んだことがあるような気がするんですが、印象は特にありません。残念ながら。
仕方なしに、詩を書いて、『明星』の8月号に載せてもらったようで、「老人」という詩がありました。さびしい感じのセキするお爺さんを描いていて、その3連目から引用してみます。
時ありて、何かつぶつぶ
呟きつ、寒き笑ひを
頬(ほ)にうかべ、かりり、かりりと
一片(ひとひら)の骨を噛むなり。
啄木さん、私たちにどうしろって言うんです。骨をかじるお爺さんだなんて、ワンコじゃないんですから、そりゃ、少し変じゃないですか。私たちをしらけさせるためにこんなこと書いているの?
あさましく、かりり、かりりと、
あはれ、そはすでに幾年
わが胸にて死にて横(よこた)ふ
初恋の人の白骨(されぼね)。
何年も前に抱きしめていた初恋の人、その人の遺骨。それをかじるお年寄り。それは啄木さんの理想ですか。それとも、お年寄りはみんなそんなふうなものだと思ってたのかなあ。確かに、年寄りは思い出のカラに閉じこもりがちだけど、いくらなんでも、そんな人を作り上げるなんて、いや、北海道でそんな人に出会ったの? どっちにしても、フィクションにしても、リアルにしても、あまりいいもんじゃないですね。
それとも、骨に対して、百年前の日本人はもっとなじみがあって、生活の中にゴロゴロ転がっていたんだろうか。
時ありて、わななく指を
折りふせて何か数えぬ。
ある時は我にそむける
友人を。またある時は、
温かき手とり別れし
なつかしき人の思出(おもいで)。
はた、一人のがれ出でにし
故郷(ふるさと)の遠き路程(みちのり)。
お年寄りが指を折って何かを数えているような描写ですが、これは今までの啄木さんがしてきたことでしたよ。
たくさんの女の人を泣かせ、いくら泣こうがわめこうが、あっさりと別れてしまうし、友人には何度も裏切られて、その友人たちに仕返しをしてやるんだと決意するみたいなのに、そうした友人なしではやっていけない、友人嫌いで友人頼みの啄木さんらしいところだし、故郷にはいろんな思いがあったし、懐かしさは持っているのに、それを踏みにじらなくてはいられない啄木さんらしいムチャクチャさ、そうか、この「老人」というのは、自分のことなのかもしれませんね。
22歳だけど、気分はもう老人だったんだ。そして、その象徴として初恋の人のお骨を持たさなくてはいけなかったのかもしれない。そういうのをいつも胸に秘めて生きてるんだというのを示す意味があるのかも……。
最後の連を見てみましょう。
時ありて、我に言ふらく、
『何かある、大空を見よ。』
われ答ふ、『何ものもなし。』
『げにさなり、虚(むな)し。』と笑ふ。
お年寄りとの問答で詩は終わります。おじいさんが、「何ものもないよ。むなしいものだよな」と笑って終わる。
だから、この世は虚しいのだというよりも、世の中にいろいろと働きかけるけれど、世の中というのは簡単には動いてくれないものだよな。でも、その空っぽさを追いかけて、また私たちはやっていくし、もちろん啄木くんもやっていく。
前半の骨のあたりは、何だかなという感じですけど、この空漠感は貴重な気がしてきました。
何にもないけど、何にもないから、それでも私たちは働きかけなくちゃいけない。そうなんですね。それは私も同じ。ネットで遊んでばかりじゃいけないんですね。