m o n o l o g u e

taddy // graphic designer / artist / poet

l e s s o n

2008-03-25 | cafe_monologue



自分自身のせいなのだけれど、死にたくなるほど激しく落ち込んだ。
あたかも胸が刃物で貫かれたようで、何も喉を通らない。


堪え難い孤独感と虚無感が、時折波のように襲ってくる。
これほど落ち込むことは滅多にない。
ふと、枕元に置いている聖書に手を伸ばした。
「今のボクに必要な言葉を教えてください・・・。」
そう祈って、ページを開いた。


そこにはこう書かれてあった。


「あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしの示す地に行きなさい。」


一体、どういう意味なのだろう?
文字通り、この場所から離れろということだろうか?
大切な友人たちとも別れろということなのだろうか?


しかし、すぐにその言葉が示さんとしていることが分かった。
ココロの中にその言葉の意味が与えられた。


この言葉の意味。
それは、「執着しているものから離れて、本来いるべき所にいなさい」ということ。
もっと言えば、「人に執着する」のではなく、「人を愛しなさい」ということ。


誰でも自分の育った土地や、特別の思いと絆のある人々と離れることは簡単ではない。
種々の未練があるだろう。
しかし、それは時として正しい感情ではない。
なぜなら、土地や人への「執着」が生んだ心だから。
なぜなら、新しい可能性への入り口を閉ざしてしまうから。


自分にとって大切な人たち。
大切だからこそ、人生の素晴らしい時間をできるだけ共有したい。
大切だからこそ、最高の絆を作り上げたい。
けれども、その気持ちは、はたして純粋な「愛」に基づくものなのだろうか?
相手を失うことを恐れ、自分の所有物にしたてあげてしまってないだろうか?


「愛」は人を自由にするが、「執着」は自分も相手をも束縛してしまう。
束縛されては前進することもできない。
前進しない関係は、実りをもたらさない。


 愛は忍耐強い。
 愛は情け深い。
 ねたまない。
 愛は自慢せず、高ぶらない。
 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


パウロが残したこの「ものさし」に、自分自身の言動をあてはめてみた。
そして、分かった。
ボクはまだ人を愛するということが十分にできていないと。
そこにこそボクの苦しみの源があるのだと。


「愛」は「感情」ではなく、「意志」。
「好き・嫌い」ではなく、無条件に自分を相手に与え尽くす「意志」。
なにがあっても揺らぐことのない、固い「意志」。


ボクは今、「お前自身のココロが変わらないといけないのだよ」と教えられている。
「人を愛する人間にならないといけないのだよ」と教えられている。


家族、友人、隣人。
ボクの人生に与えられているひとりひとりに改めて感謝した。
現状から逃げず、見返りを求めず、彼らを無私にただただ愛そう。


苦しみが持ってきてくれたこの「レッスン」に、ココロからありがとう。




taddy