自分自身のせいなのだけれど、死にたくなるほど激しく落ち込んだ。
あたかも胸が刃物で貫かれたようで、何も喉を通らない。
堪え難い孤独感と虚無感が、時折波のように襲ってくる。
これほど落ち込むことは滅多にない。
ふと、枕元に置いている聖書に手を伸ばした。
「今のボクに必要な言葉を教えてください・・・。」
そう祈って、ページを開いた。
そこにはこう書かれてあった。
「あなたの土地、あなたの親族を離れて、わたしの示す地に行きなさい。」
一体、どういう意味なのだろう?
文字通り、この場所から離れろということだろうか?
大切な友人たちとも別れろということなのだろうか?
しかし、すぐにその言葉が示さんとしていることが分かった。
ココロの中にその言葉の意味が与えられた。
この言葉の意味。
それは、「執着しているものから離れて、本来いるべき所にいなさい」ということ。
もっと言えば、「人に執着する」のではなく、「人を愛しなさい」ということ。
誰でも自分の育った土地や、特別の思いと絆のある人々と離れることは簡単ではない。
種々の未練があるだろう。
しかし、それは時として正しい感情ではない。
なぜなら、土地や人への「執着」が生んだ心だから。
なぜなら、新しい可能性への入り口を閉ざしてしまうから。
自分にとって大切な人たち。
大切だからこそ、人生の素晴らしい時間をできるだけ共有したい。
大切だからこそ、最高の絆を作り上げたい。
けれども、その気持ちは、はたして純粋な「愛」に基づくものなのだろうか?
相手を失うことを恐れ、自分の所有物にしたてあげてしまってないだろうか?
「愛」は人を自由にするが、「執着」は自分も相手をも束縛してしまう。
束縛されては前進することもできない。
前進しない関係は、実りをもたらさない。
愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
パウロが残したこの「ものさし」に、自分自身の言動をあてはめてみた。
そして、分かった。
ボクはまだ人を愛するということが十分にできていないと。
そこにこそボクの苦しみの源があるのだと。
「愛」は「感情」ではなく、「意志」。
「好き・嫌い」ではなく、無条件に自分を相手に与え尽くす「意志」。
なにがあっても揺らぐことのない、固い「意志」。
ボクは今、「お前自身のココロが変わらないといけないのだよ」と教えられている。
「人を愛する人間にならないといけないのだよ」と教えられている。
家族、友人、隣人。
ボクの人生に与えられているひとりひとりに改めて感謝した。
現状から逃げず、見返りを求めず、彼らを無私にただただ愛そう。
苦しみが持ってきてくれたこの「レッスン」に、ココロからありがとう。
taddy