僕にとっては久々に重い役割を持つことになりました。高校の母校の同窓会中部支部設立総会がきのう(5月11日)名古屋であり、僕が役員(支部長)になったのです。
僕が卒業した高校は、高知市内にある私立高知学芸高等高校。1957年に創立しました。半世紀を経て、高知県内では進学志望の中学生あこがれの高校になっています。
僕はこの高校に創立と同時に入学、1960年に卒業しました。つまり、一期生なのです。年齢的にも能力的にも勘弁してほしいと思いつつ役員を引き受けたのは「一期生が逃げたらいかん」との意思からでした。
関東、関西などにはありながら、170人ほどの同窓生が暮らす中部になかった同窓会づくりに僕が賛同した一番の理由は、母校の教育に対する思いです。
僕は高知学芸高校のそれを「にいはりの教育」と呼んでいます。
校歌である「学芸讃歌」の一節にもある「にいはり(にいばり)=新墾・新治」とは「土地や田畑、道などを開墾したり切り開くこと、またそのようにしてできたところ」を意味します。
「新しく開いた学び舎で、理想の教育を追い求め、生徒それぞれが自分らしさを磨き、人生の基本をつくり育てていく」という思いが込められているといっていいでしょう。
同じ高知県内なのに当時は、自宅から汽車に乗っても3時間はかかった15歳の僕を迎え入れてくれた学校は、プレハブ造りのような校舎と小さな食堂ぐらい。でも、周辺の農家では納屋を改造するなどして僕たちを温かく迎えてくれました。
楽しさいっぱいの学び舎でした。
校庭にいくつもの輪を描くフォークダンス。
「あそこは芸能人の養成学校か」と揶揄されたこともあったようですが、先生たちが試行錯誤を重ねながらも一丸となって「新しい教育、理想とする教育」に取り組む姿が僕の脳裏によみがえります。
「自由」とともに、生徒たちが自律・自立するために必要な「規律」もありました。自由と規律をベースに、生徒たちが「広い心を持ち、何が正しいかを追求し、新しい感覚を磨き、創造力、実践力を養う」。そんな方針が僕にもビンビン伝わってきました。
勉強嫌いで成績もよくなかった僕も、部活を含めて高校生活を謳歌できたのです。
先にこのブログで三重県・安乗崎の灯台を描いた作品を載せた際にも「この灯台がロケ地になった映画『喜びも悲しみも幾年月』を高校時代に観た」と書きましたが、そうした3年間でした。
半世紀の歳月が流れ、卒業生は1万9000人。近くの10万平方メートルもの広大な敷地に移転、中学校もでき、寮なども併設されました。勉学だけでなくスポーツ、芸術活動でも活躍ぶりをこちらの新聞やテレビでも目にするようになりました。
高知から8人の同窓会本部・先生を迎えて催した設立総会。
僕は「建学の精神がこれからも引き継がれ、歴史や伝統にあぐらをかくことなく、理想の教育を追い求める学び舎であってほしい」と挨拶を結びました。
懇親会の締めくくりに、参加者全員が輪になって4番まで歌った「学芸讃歌」。
♯あさかぜの すがしきくに
にいはりの みちはひらけぬ
名をし立て 高知学芸
あまつ日に のぞみたかく
年齢差が最大半世紀ある同窓生たちの表情は、みんな晴れやかで誇らしげでした。