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日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・駒木野宿から小原宿まで歩いてみた(1)-駒木野宿を往く(後編)-

2016-12-02 | 旧甲州街道を往く

11月26日。
東京で11月としては観測史上初の積雪を記録した日から2日後。
いざ、往かん!駒木野宿から難所小仏峠を越えて小原宿へ!!

そんなわけで、峠道のコンディションは大丈夫だろうか?と不安を抱えながら、今年最後の甲州街道歩く旅の開催となりました。

9時に高尾駅に集合。旅の仲間はいつもの4人です。
昼食・飲み物を調達して(途中、コンビニなんてありません)、タクシーで前回の終着地点、駒木野宿へと向かいます。タクシーでも1000円程度だったので、旅の仲間4人で割れば、バスに乗ったのと、そう運賃に違いはありませんでした。

【荒井バス停】


スタート地点は前回の続き、駒木野宿内、荒井のバス停。10時ちょうどでした。
荒井は江戸時代には新井と表記され、家屋26軒の集落だったと記録されています。

【荒井の石仏石塔】


荒井のバス停前。
左から庚申の塔、お地蔵様、戦没者供養塔。庚申の塔は宝永3(1706)年の建立とのこと。真ん中のお地蔵様も古い時代に建てられた感じでした。

【駒木野の一里塚辺り】


荒井バス停付近に江戸から13番目の一里塚があったらしいです。
この辺りから西側が上宿になるようですが、なんの案内も痕跡も見当たらないので、ガイドブックなどから推測するばかり…。

【蛇滝旅籠】


蛇滝茶屋とか蛇滝小屋とか、あるいは蛇滝の行者宿とか、ガイドブックや資料によって呼び名がいろいろ。
江戸後期には「ふじや新兵衛」という旅籠で、蛇滝信仰の講中の定宿だったとのこと。今でも建物を管理されている方がいて、時折、板戸を開けて風を通しているようです。
蛇滝は、高尾山中に江戸時代に整備された滝行の道場で、命を助けられた白蛇の化身という伝説が残っています。

【蛇滝旅籠の講札(はね札)】


軒下に掛かっている講札。75枚あるそうです。

【蛇滝への道標】


蛇滝旅籠の傍らに建てられた道標。
読み取りにくいのですが、
「上行講 是より蛇滝まで八丁」
と、刻まれているそうです。

【圏央道】


蛇滝旅籠をあとにして歩き出すと、ほどなく頭上を圏央道が横切ります。なんだか不思議な眺めでした。

【甲州街道と高尾山道の分岐点】


左折すると、高尾山、蛇滝へと向かいます。
甲州街道は、そのまま直進していきます。だいぶ山奥に来たなぁ…という感じがします。

【高尾山への道標】


高尾山への分岐点に建っています(上の写真の左端)。
建立されたのは享和3(1803)年。
「是より高尾山道」
と、刻まれています。

【甲州街道と中央道】


道端に前々日の雪が残っていたものの、道路状態は普通でした。最悪、積雪の中を進むのか…なんて覚悟していたので。
前方には中央道が見えます。下から見上げると、随分と高いところを車は走っているんですね。

【高尾の幸】


道端の畑では、柿や柚子、大根、サトイモ、梅干し(!)などなど、山の幸を売っていました。100円だって。安いですよね~。私は買いませんでしたが、旅の仲間は家族へのお土産に、とのことでした。

【摺指辺り】


摺指と書いて「するさし」と読みます。もちろん、私は読めませんでしたとも。「○指」という地名は、昔、焼畑を行っていた地域にみられるそうです。江戸後期、32軒の家があったと記録されています。
この辺りが駒木野宿と小仏宿の境界…という記事もありましたが、よくわかりません…。

【常林寺】


曹洞宗のお寺です。
ガイドブックによると、南朝側の小山氏の子孫、峰尾氏が開いたお寺とのこと。
この辺り、峰尾さんという苗字が多いそうです。江戸後期の記録によると、この地の民家32軒はすべて峰尾姓である…だって。

【小山神社】


常林寺のすぐそば、街道からちょっとだけ中央道寄りに入ったところにあります。
室町時代、下野国の小山氏が足利氏に討伐された際、一族の者がこの地に落ち延びて建てた神社で、当初は峰尾明神と称したとのこと。江戸時代の記録には小山明神と記されています。
この小山神社といい、常林寺といい、峰尾姓といい、平家の落人伝説のように、この辺り一帯は小山一族・峰尾氏の隠れ里のような感じだったのでしょうか。

【木下沢橋】


木下沢と書いて「こげさわ」と読みます。
江戸時代の地誌「武蔵名所図会」に、木下沢川と小仏川がこの橋の下で合流して流れていく…と記されています。また、この辺りで川を渡って奥に入っていくと、昔、鉱石を採掘していた古い穴があったとも記されていますが、この書物が書かれた当時、すでに廃坑となっていたそうです。
「何百年前に朽ちたのか、知る人はいない」(「武蔵名勝図会」)

【木下沢橋辺りの甲州街道】


さらに山奥めいてきました。
気温もあがらず、指先が冷たかったです(耐えられないほどではありませんでしたが)。
川からは湯気(川霧かな?)がたつほどでした。

【小仏宿入り口】


ガイドブックによると、このJRの赤レンガを潜ると小仏宿とのこと。案内板くらいあってもいいのにね。
それにしても、この赤レンガも古そうですね。中央線開通時のものでしょうか。

ということで、駒木野宿はなんとなく終わってしまって、武蔵国最後の宿場、小仏宿に入ります。


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【note】甲州街道・八王子宿から駒木野宿まで歩いてみた(5)-駒木野宿を往く(前編)-

2016-11-28 | 旧甲州街道を往く

多摩御陵を出発した我々ですが、日ごろの運動不足がたたり、けっこう疲れも出てきている状況で、誰も参道を引き返して甲州街道に復帰しよう!とは言いださなかったのでした。多摩御陵内を歩くのも結構な距離となりましたし…。
そんなわけで、不本意ながらもショートカットして、高尾駅への最短ルートを選択した私たちでした。

【JR高尾駅前】


JR高尾駅前から、気持ちも新たに駒木野宿を目指して甲州街道を西へ進みます。

【JR高尾駅付近の甲州街道】


高尾駅前を越えてからの甲州街道は、それまでの並木道とは雰囲気が変わって、少々雑然とした、というか込み入った感じになってきます。

【川原の宿辺り】


江戸時代、ここは上椚田村(かみくぬぎだむら)で、とくにこの辺りは川原の宿と呼ばれていました。
そもそもは浅川が流れていたのですが川筋が北へ変わり、江戸時代前期に川の跡を整備して、ここに甲州街道を通しました。その街道筋にできた集落が川原の宿。「宿」とついていますが、幕府が公認した(宿駅業務をこなす)宿場町ではありませんでした。
今もバス停に地名が残っています。

【駒木野宿の入口・両界橋】


しばらく進むと、JRの高架の下を街道は潜ります。この高架の下に架かっている橋が両界橋で、東の上椚田村と西の駒木野宿の境界という意味だそうです。ここから先、いよいよ駒木野宿に入ります。

ここで駒木野宿の概略を-
天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、
・本陣…1軒
・脇本陣…1軒
・旅籠…12軒
・問屋…3ヶ所
・宿場の家数…73軒
・宿場の人口…355人

駒木野宿は、西に連なる小仏宿との合宿で、毎月16日から晦日まで宿駅業務を勤めました(1日~15日までが小仏宿)。八王子側から下宿・中宿・上宿に分かれ、問屋は下宿に1ヶ所、中宿に2ヶ所あったとのこと。
本陣をはじめとする旅籠も、専業ではなく大きな農家が兼業という形をとっていたようです。山間部ということもあり、宿駅業務を果たすには経済的にかなり困難だったようで、度々、幕府に対して援助を願い出ています。
小さく貧しい宿場でしたが、宿内に小仏関所を擁し、背後には小仏峠が控えるという、重要な宿場、交通の要衝でした。

それでは、駒木野宿を散策していきましょう。

【獅子渕】


両界橋は、JRの高架の古い煉瓦がいい感じでノスタルジックな雰囲気を出していて、人気の写真スポットとなっているようです。
小仏川と案内川が合流した、そのすぐ下流に当たるこの辺りは、江戸時代には獅子渕と呼ばれました。江戸時代の記録によると獅子岩という巨岩があり、水深はおよそ1丈(約3メートル)だったそうです。今よりずっと深かったのですね。
江戸後期、最上某さんは、ここに小庵を建てて移り住んだそうです。なんか、風流ですね~。

この辺りには成敗場、いわゆる処刑場があったと言われています。小仏関所で捕えられ、死罪を言い渡された者はここで処刑されたといいます。
江戸初期から寛文のころ(17世紀後半)にかけて3度の処刑が行われたが、それ以降、刑の執行は聞いていない…と、江戸後期の記録に残されています。

【両界橋の古仏】


JRの高架のたもとにひっそりとたたずんでいました。今でも花が供えられているのを見ると、地元の人たちの温かさを感じますね。

【甲州街道と高尾山道の分岐点】


西浅川の交差点で現在の甲州街道(国道20号線)と分かれて、旧街道は右側へ入ります(都道516号線)。国道20号線はかつての高尾山道。
両界橋からこの交差点付近までが、駒木野宿の下宿と呼ばれていた地域にあたります。

【問屋場辺り…かな?】


交差点を右折して、すぐの辺り街道の右側に問屋場、左側に立場があったとされます。現在はそれを示すものは何もありません。

【高尾駒木野庭園】


戦前の家屋(病院長の自宅だったそうです)を中心にした日本庭園。開園したのは平成21年とのこと。
ちょっと気になったものの、中には入らずに通過しました。

【新しいお地蔵様と古いお地蔵様】


道沿いに新旧のお地蔵様。
古いお地蔵様はいつ頃建てられたのでしょうか?とくに案内板などはないので、わからないままです。

【駒木野橋の碑】


区画整備によって撤去された駒木野橋の碑。小仏関所のすぐ手前にあります(写真の右奥が関所跡)。
関所の東側の入口には谷川の板橋あり、と江戸時代の記録に残されています。この「板橋」こそ、区画整備で撤去されてしまった駒木野橋のことなのでしょうね。

【小仏関所跡】


そしてやって来ました。駒木野宿最大のスポット、小仏関所跡です。
もともとは小仏峠の頂上にありましたが、江戸時代になり甲州街道が整備されると、この地に移転しました。
関所番は4人。
橋(駒木野橋?)を渡った辺りに東の門を設け、その先に小さな茅葺の番屋を建て旅人の通行を吟味したそうです。その先には西の門があり、東西の門の距離は20メートル程度だったようです。門の両脇より四方に柵をめぐらせてあったとのこと。う~ん、意外とこじんまりした感じですね。
関所の通過は明け六つ(朝6時~7時ころ)から暮れ六つ(夕方5時~7時ころ)までと決められていました。

【小仏関所跡・手形石と手付石】


関所の碑の前に、平べったい台座のような石がふたつあります。手形石と手付石と呼ばれ、旅人は通行手形を手形石の上に置き、手付石に手をついて、通行の許可がおりるのを待ったとのこと。奥が手形石、前が手付石でしょうか。ちゃんと残っているんですね。

【駒木野宿の碑】


小仏関所跡の西側に駒木野宿の碑が建てられています。ここはかつての関所の敷地内でしょうか。
関所番を勤めた佐藤家・落合家は関所の西隣に住んでいたとのことなので、両家の屋敷跡かもしれませんね。

【中宿辺り】


関所の辺りが、かつての中宿。古風な家が残っていて街道気分に浸れます。
ただし道幅が狭く、小仏峠へ向かう路線バスも走っていますので、歩く際には車に注意しましょう。

【念珠坂・高札場跡】


年中坂とも言うらしいです。
ガイドブックによると、昔ここに住んでいた鬼が老婆を襲ったところ、老婆の持っていた念珠のひもが切れて珠が散らばり、それに足をとられた鬼は坂道を転がり大穴に落ちてしまった。それ以来、鬼は現れなくなった…ということです。
ここに江戸時代、高札場があったとのこと。
「甲州街道念珠坂」の碑と並んで、古仏、古碑が建っています。

【念珠坂2】


鬼が転がる念珠坂。西側に下っていきます。

【荒井バス停】


駒木野宿の真ん中あたり、荒井のバス停に着いたのが午後4時20分頃。
バス停で時刻を確認したところ、ぼちぼち高尾駅へ戻るバスが来そうだったので、ここをこの日の終着地点としました。バス1本乗り過ごすと、結構待ちますからね。
八王子の市守大鳥神社を出発したのが、午前11時。まずまずのペースでしょうか。
次回は、ここが西へ向けてのスタート地点。甲州街道の難所のひとつ小仏峠に挑むことになります。

【番外編】


そのままバスに乗り、JR高尾駅北口(終点)で下車。反省会は高尾駅周辺のお酒も料理も美味しいところで…と探したのですが、なかなか見当たりませんでした。
どうも南口の方に飲食店は多いみたいです。
ところが、北口から南口へ行くには、駅を大きく迂回して踏切を渡らなければならないようです。
これはちょっと不便。
結局、駅の入場券を買って駅構内を通ったのですが、観光地という観点からすると、どうなのかな?
高尾帰りの観光客(登山者)のグループが、八王子まで出て祝杯を挙げるのことが多いのは、そのためでしょうか?

ま、それはさておき。

旅の仲間、Wさんのお土産、瀬戸焼のおちょこで固めの盃を。
この日の旅の反省と次回に向けての作戦会議は、この後、カラオケ屋に場所を移し、夜遅くまで続いたのでした。


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【note】甲州街道・八王子宿から駒木野宿まで歩いてみた(4)-大きく迂回して多摩御陵を目指す-

2016-11-27 | 旧甲州街道を往く

前回から少々時間が開きましたが、甲州街道を歩いてみた記録の続きを。歩いたのは10月22日です。もう1ヶ月も経ってしまったのか…。

【道標】


西八王子駅近くで昼食をとった後、再び西へと進みます。
長房団地入口の信号を北へ入ってすぐのところに、大きな道標があります。
「右高尾山 左真覺寺」
と刻まれています。道標が建てられたのは大正時代になってからのことだそうです。

【散田の枡形】

この道標のある場所は散田の枡形と呼ばれ、今まで歩いてきた千人町と散田村との境界でした(左側の草の生えている場所に道標が建っています)。
江戸時代、ここで甲州街道は左へ折れ、散田村を通って西へ続いていました。写真で見える直進する道は、江戸時代には小道程度のものだったようです。

【旧散田村辺り】


散田の枡形を左折して、江戸時代の散田村を西へと向かいます。とくにこの辺りは新地と呼ばれた地域で、その名があらわすように、江戸時代に甲州街道がここを通るようになってから、道に沿うようにできた新しい集落でした。
黒塀のお屋敷がいい感じを醸し出しています。
そのまま進んでいくと再び現在の甲州街道(国道20号線)と合流します。

【オオツクバネガシと散田の一里塚跡】


国道20号線に合流してしばらく歩くと、左手に八王子市役所横山事務所があります。その敷地内にドーンと立っている巨木は、八王子市の天然記念物・オオツクバネガシ。現地の案内板によると、樫の木の仲間(アカガシとツクバネガシの間種)で高尾が原産地と認定されています。高さは約18メートル。
江戸時代にも、この木はちゃんと記録に残っているそうです。
この辺りに江戸から12番目の一里塚があったようですが、今は跡形もなし。街道の左右に塚が築かれていた模様。

【イチョウ並木】


現在の甲州街道(国道20号線)は、高尾駅までイチョウ並木が整備されています。昭和2(1927)年に多摩御陵が造営された際に植樹されました。交通量は多いものの、歩いていて清々しい感じです。

【多摩御陵入口】


並木道をしばらく進むと、多摩御陵入口の交差点に差しかかります。
このまま甲州街道を直進すれば、高尾駅へ。
ここで旅の仲間から、
「せっかく近くまで来たのだから、御陵に参拝しよう!」
という声があがりました。私も含め、4人ともまだ御陵に参拝したことがないとのこと。
そんなわけで、甲州街道を大きく北へ迂回して(右折して)多摩御陵へと向かいます。

【参道入口】


甲州街道を右折して御陵への参道を進みます。当然のことながら、きれいに整備されています。途中、南浅川を越えます。
参道は大きな公園(陵南公園)を迂回するように進みますが、公園を突っ切ると若干近道になります。

【武蔵陵墓地(多摩御陵)1】


参道を20分ほど進むと、御陵の入口に到着します。
多摩御陵と呼んでいますが、正式名称は武蔵陵墓地。
昭和2(1927)年に大正天皇陵(多摩陵)が築かれたのが最初で、大正天皇・皇后、昭和天皇・皇后の4つの御陵があります。関東で御陵が造営されたのはここが初めてとのこと。
とくに入口で手続きをするわけでもなく、そのまま中へと進めます。

【武蔵陵墓地(多摩御陵)2】


雰囲気としては明治神宮に似ているなぁ…と思いました。森閑にして厳かというのでしょうか…。
それにしても広い!

【昭和天皇御陵(武蔵野陵)】


昭和天皇の御陵は武蔵野陵と呼ばれています。
上円下方墳なのだそうです。
木々に覆われる前の古代の古墳も、きっとこういった造りになっていたのでしょうね。
武蔵野陵の他、多摩陵(大正天皇陵)、多摩東陵(大正天皇の皇后・貞明皇后陵)、武蔵野東陵(昭和天皇の皇后・香淳皇后陵)にも参拝して、武蔵陵墓地をあとにしたのでした。


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【note】甲州街道・八王子宿から駒木野宿まで歩いてみた(3)-八王子宿を抜け西八王子へ-

2016-10-29 | 旧甲州街道を往く

寄り道から街道へ復帰して、西へ進みます。

【旧八幡宿辺り1】


八王子十五宿のうち、八日市宿の西側には八幡宿。写真は八幡町の交差点付近です。
八幡宿は、十五宿のうち横山宿、八日市宿に次ぐ地位にあったそうですが、あくまで加宿。本宿の横山宿、八日市宿に対して対抗心を燃やしていたらしいです。

【八王子織物工業組合】


八王子は「桑都(そうと)」とも称されるとおり、昔から養蚕や織物が盛んでした。江戸時代、付近の農民は副業として織物を市に出していましたが、のちには江戸や京、大坂の商人とその仲買人によって問屋制家内工業が組織され、八王子宿は織物の集積地としても繁栄しました。
明治32(1899)年に設立された八王子織物同業組合が、現在の八王子織物工業組合の前身だそうです。
現在は「多摩織」として経済産業省より伝統工芸品に認定されています。ちょっと高いけど、ネクタイが欲しいなぁ…。

【旧八幡宿辺り2】


八王子の市街地から少し離れたこの辺りは、趣ある建物が散見されます。こちらは頑丈そうな蔵造り。

【本郷横丁交差点】


街道は直進。右折して北へ向かうと、十五宿のうちの本郷宿。写真は撮り忘れたので、後日、こっそりと。

【旧八木宿辺り1】


八幡宿の西隣は八木宿。北条氏照の家臣だった八木源左衛門という人物が、八王子城落城後、この地に住居を構えたことが地名の起源だとか。江戸時代の後半には、その子孫がどうなったかはわからない…と記されています。虎は死して皮を残し、八木氏は滅して地名を残す…そんなところでしょうか。

【旧八木宿辺り2】


こんにゃく屋さんです。ここも趣のある素敵な建物です。

【追分(旧久保宿)】


市守大鳥神社から出発して、街道は一直線に西へ続いてきましたが、ここ追分(十五宿のうち、久保宿)で分岐し南西方面へと向かいます。この追分町の交差点を左折すると甲州街道、直進すると陣馬街道(案下道)です。

【追分道標】


追分町の交差点の交番前に、文化8(1811)年に建てられた道標。
「左甲州道中高尾山道」
「右あんげ道」
あんげ道(案下道)とは現在の陣馬街道のことで、川を渡り峠を越えて、相模の津久井方面へと続いていました。
空襲により4つに折れてしまいましたが、近年再建されました。2段目と4段目が当時のものだそうです。

【八王子千人同心屋敷跡記念碑】


追分の交差点を陣馬街道へ進むとすぐのところにあります。
この辺りに、八王子千人同心たちの拝領屋敷が連なっていたといわれます。彼らはもともと武田家の家臣で、主家滅亡後、家康に召し抱えられ八王子の守りにつきました。普段は農業を営んでいて有事の際には武士としてその任に当たったというのは、坂本竜馬で有名な土佐藩の郷士のような感じだったのでしょうか。
戦乱が収まり平和な世の中になると、主な任務は「日光火の番(日光東照宮の警護)」となったそうです。また、幕末には蝦夷地の開拓も任されたそうですが、これは悲惨な結果に終わったとのこと。
これが縁で、八王子市は日光市、苫小牧市と姉妹都市となっています。

【千人町辺り】


今もこの辺り(JR西八王子駅の北側)は千人町という地名です。バス停だってこの通り。

【JR西八王子駅】


現在の甲州街道と一旦別れて、旧街道はJR寄りの細道に入ります。西八王子駅前を通って西へ。

【JR西八王子駅を過ぎた辺り】


駅周辺は店舗で賑わっていますが、ちょっと往くと、静かな通りになります。

【お昼の休憩】


八王子を出発した当初から、同行者のひとりが、蕎麦を食べたい!と言い続けていました。なので、蕎麦屋を探しながら歩いてきたのですが、なかなか見つかりませんでした。
蕎麦屋なんてどこにでもありそうなものなのに。さすが八王子、蕎麦よりやっぱりラーメンなのか?
で、ようやく西八王子駅を過ぎて蕎麦屋を発見。我々のような一見さんが入っていいのかな?的な店構えでしたが、とても美味しかったです。
ランチメニューは蕎麦と小どんぶりで1300円。ご馳走さまでした。

時間はちょど午後の2時。
腹ごしらえも終わったところで、いざ、八王子宿から高尾・駒木野宿方面へと歩を進めましょう!


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【note】甲州街道・八王子宿から駒木野宿まで歩いてみた(2)-大久保長安と松姫-

2016-10-28 | 旧甲州街道を往く

八日市宿を進み、西に連なる八幡宿に入ったところで、ちょっと寄り道。街道を左折して、八幡宿の南側、かつての小門(おかど)宿へと向かいます。小門宿は八王子十五宿の中でも加宿とされた小さな集落だったようですが、かつては、ここに八王子宿の基礎を築いた大久保長安の陣屋がありました。


【産千代稲荷神社(大久保長安陣屋跡)】


産千代稲荷神社が、かつての大久保長安の陣屋跡です。
長安は、もともと猿楽師の出身で甲斐武田家に仕え、武田家滅亡後、家康に召し抱えられました。武人というよりは行政官として頭角をあらわし、佐渡金山や石見銀山の経営にも手腕を発揮しました。
家康は、長安の実力を高く評価して八王子の再興を任せたのでしょうね。何しろ、江戸の西の固めとなる地なのですから。

【産千代稲荷神社・社殿】


江戸時代に書かれた「武蔵名勝図会」にも記載があります。
この書物が書かれた頃(文政年間=1820年頃)には、
「陣屋跡はかつて西南三方に土手があって、井戸もあったけれど、近年、切り崩して西の隅の土手の上に稲荷の小さな祠があるのみ」
という状況だったようです。
この稲荷の祠が産千代稲荷神社なのでしょうね。

【陣屋の井戸】


社務所の傍らに残る井戸。「武蔵名勝図会」に、かつて井戸もあった…と記されている、まさにその井戸でしょうか?見落とし注意です。

こちらも参考までに→ 産千代稲荷神社と大久保長安


【信松院】


産千代稲荷神社から、さらに南へ10分ほど歩きます。十五宿のうちの上野原宿の西端、目指す信松院は異国情緒漂う本堂が目を引く曹洞宗の寺院です。
開基は武田信玄の娘・松姫。織田信長の嫡男・信忠と婚約を結びながら、結局は嫁ぐことなく武田家は滅亡。甲斐から八王子へ逃れ、この地に隠棲しました。

【信松院・本堂】


立派な本堂です。青瓦と壁の白、ところどころの金箔(?)のコントラストがいい感じです。境内では庭木の手入れ中でした。市守大鳥神社、そして信松院、寺社にとってこの時期は、庭の手入れの季節なのでしょうかね?

【信松院・松姫墓所】


本堂の裏手に松姫の墓所があります。
武田家の遺臣からなる八王子千人同心の心のよりどころでもあったと言われる松姫。後々まで慕われたようで、没後100年たった延享5(1748)年に、墓所を囲む玉垣が、千人同心たちによって寄進されています。

【松姫マッピー】


そして現代。
八王子のゆるキャラとしてよみがえった松姫。特技は「みんなを笑顔にする魔法」だそうです。残念ながら、まだお目にかかったことがありません。それは私が御目見(おめみえ)以下の身分だからかな…。
ちなみにマッピーは、信松院とは直接には関係ありません。八王子商工会議所が生みの親のようです。


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