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日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(2)-国境を越えろ!相模と甲斐-

2017-10-07 | 旧甲州街道を往く

【関野宿辺りの甲州街道1】


ウルトラ●ンの罠に落ちた我々ですが、ルートミスにもめげず国道20号線を進みます。相模川を左手にした相州四ヶ宿(小原宿・与瀬宿・吉野宿・関野宿)は台地上にあるのですが、関野宿を出た辺りから徐々に下り坂となっていきます。

【関野宿辺りの甲州街道2・えのき坂】


えのき坂の標柱。一里塚に多く植えられたという榎が語源でしょうか?この辺り、こういった標柱や道標があちこちに立っています。しっかり確認しながら進めば、本来は道筋を間違えようがないのでしょうが…。

【関野宿辺りの甲州街道3】


道はループを描き、下り坂が続きます。

【関野宿辺りの甲州街道4】


相模川を左に見下ろしながら進みます。本来の甲州街道はこの辺りから、川に向かって降りていくルートだったようですが、ガイドブックなどによると、道筋は正確には確認できていないそうです。
かつて獅子岩、衣滝と呼ばれた名勝が存在したのもこの辺り。「新編相模国風土記稿」によると、獅子岩は「高さ8尺(約2.4メートル)周囲1丈3尺(約3.9メートル)、甲州街道の傍らにあり」とのこと。その名の通り獅子の形のような岩だったのでしょうか?衣滝は「獅子岩の傍らにあり、瀑勢1丈2.3尺(約3.9メートル)、幅5.6尺(約1.5メートル)、その形象殆ど衣を翻すが如し」だったそうです。
獅子岩と衣滝、今も残っているのか、はたまた国道から見えるのかどうか?はわかりません。

【関野宿付近の甲州街道5】


名倉入口の信号で国道と分かれ、左手の小道を相模川に向かって下っていきます。

【関野宿付近の甲州街道6】


道端のヒガンバナがまた見事に咲いていました。昔の旅人は、四季折々の景色をこうやって楽しむ余裕はあったのでしょうか?

【境沢橋】


名倉入口の信号から歩いて5分程度、やって来ました、神奈川県と山梨県の県境を流れる境川に架かる境沢橋です。昔は相模と甲斐の国境。ガイドブックなどによると、江戸時代には、ここから40メートルほど下流に、境川を越える長さが6間(約9メートル)、幅6尺(1.8メートル)の土橋が架かっていたそうで、茶屋が3軒ほどあったとか。江戸時代と場所こそ若干違うとはいえ、ま、それでも無事に国境を越えて、いよいよ甲斐の国、山梨県へと入ります。

【境川】


境沢橋から見た境川下流方面。相模と甲斐の国境を流れていたから境川。あと少しで相模川に流れ込みます。

【山梨県に入った甲州街道】


今までは高台からひたすら下って境沢橋へ到達しました。で、下りがあるということは上りもあるわけで。目指す上野原は、文字通り崖の上にある原(というのが地名の起源とのこと)。ヘアピンカーブをうねうねと上り、今来た道を見下ろしながら歩きます。真夏の日差しのもとだと、結構つらいかもしれませんね。秋でよかった~。

【諏訪番所(諏訪関)跡】


境沢橋から歩くこと約20分、坂道の途中にあるのがこの諏訪番所跡。そもそもは武田家が設置した甲斐二十四関のひとつで、江戸時代には、ここで通行の取り締まりと物資の出入りの調べを行っていたそうです。ただし解説板によると、通行手形は男は不要、女性は江戸方面へ行く者のみ改められたとか。結構、ゆるい番所だったのかな?ここに10名の役人(番所定番9名、獄舎取締1名)が詰めていました。
これまた案内板の解説によると、明治になって番所の役宅は、あの政財界の大物・渋沢栄一の別荘として移築されたとのこと。よっぽど素晴らしい建物だったのか、趣ある家屋だったのか…?

【諏訪番所前の甲州街道1・関野宿方面】


番所前で今来た道を振り返るとこんな感じ。随分と上ってきました。江戸時代の旅人も、坂道に息を切らせながらここへたどり着き、荒い息遣いのままお役人の改めを受けたのかもしれませんね。

【諏訪番所前の甲州街道2・上野原宿方面】


番所役人の改めも無事終わり、さて、上野原を目指そう!という旅人の前には、まだまだ続く上り坂が…。
そんなわけで、我々もまだ上り坂を進むわけですが、この先、上野原宿に入るまでには、もう少し歩かなければならないようです。


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【note】甲州街道・関野宿から鶴川宿まで歩いてみた(1)-関野宿を往く-

2017-10-04 | 旧甲州街道を往く

9月30日。久しぶりの甲州街道を歩く旅。いつもの旅の仲間4人が、日頃の残業の疲れをものともせず集結しました。
前回は相模湖畔の吉野宿へ入り、中華屋さんでお昼を食べていたら雨となり終了。藤野駅までお店の車で送っていただいた…というとこまで。あれは4月のことでしたので、かれこれ5ヶ月も過ぎてしまいました。

→前回はこちら

今日は藤野駅をスタートして、関野宿→上野原宿→鶴川宿を目指すルート。距離的には約5.6キロで大した距離ではありませんが、何しろ普段運動不足の身なれば、そこはかとなく不安が付きまといます。10時30分に集合ですが、私は一足先に現地入りして、前回、雨のためチェックできなかったポイントへ向かいました。

【緑のラブレター】


藤野駅のホームで電車を降りて、まず目につくのがこの巨大な「緑のラブレター」。芸術の町を謳う藤野のシンボルです。地元在住の芸術家が1989年に旧藤野町(現在は相模原市緑区です)から依頼されて作ったのだとか。

【関野の一里塚跡】


前回、雨のために断念したのがここです。江戸から17番目の一里塚。藤野駅から東へ5~6分歩いたところです。一里塚を示す碑や案内板はありませんが、鬱蒼とした木の前に「津久井の名木・エノキ」の解説板があります。ガイドブックによると、このエノキが一里塚跡なのだそうです。片塚で、塚の上には当時もエノキ。そのエノキが解説板の「津久井の名木」の木なのかどうかは、わかりませんが…。
この辺り、道幅が狭く歩道もあったりなかったり。車には要注意です。

【藤野駅付近の甲州街道】


関野宿は天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると

本陣…1軒
脇本陣…1軒
問屋場…1ヶ所
旅籠…3軒
宿場内の家数…130軒
宿場内の人口…635人

江戸方面から歩いてくると相模国最後の宿場で、西には甲斐との国境が控えています。
「甲州街道一條東西に亘り、道幅二間程。民家相対して軒を並ぶる二十四戸」(新編相模国風土記稿)
この辺り、江戸時代には奥三保とか桂里とも呼ばれたとか。風流な呼び名であることよ。

さて、歩こう。
ガイドブックや資料を見ると、旧街道は藤野駅付近でいったん国道20号から分かれて細道を行くのが正しい!というものもあり、そのまま国道を西進せよ!というものもあり、さて、どうしたものかと迷ってしまいます。我々はそのまま国道を進みました。

【関野宿内の甲州街道】


藤野駅からしばらく歩くと、歩道は車道より1段高くなります。JR中央線を高架で越え、中央道と並行して進んでいきます。江戸時代の宿並がどう続き、旅籠がどのあたりにあったのか?残念ながら明治以降の度重なる火災により、当時の面影は皆無に等しいようです。

【関野宿本陣跡】


中村家が勤めたという関野宿本陣跡。明治後の大火で灰燼に帰した関野宿、本陣もまた無事ではいられなかったそうです。
解説板が立っていますが、藤野駅方面(写真でいうと奥の方)から歩いてくると、絶対に見落としてしまう立ち位置です。実際に我々も通過後に、あれ、本陣は?ってことで戻ったのでした。

【増珠寺】


本陣跡から歩いてすぐ、関野宿の西端に位置する曹洞宗のお寺です。永正9(1512)年に開かれたそうです。ここ関野宿に生まれた江戸時代の大関・追手風喜太郎ゆかりのお寺で、彼が寄進したあれやらこれやら…が残されているとのことですが、残念ながら境内に入っただけではわかりませんでした。

【増珠寺のヒガンバナ】


街道から境内へと向かう参道沿いにヒガンバナ。今がまさに見頃!といった感じでした。

【増珠寺前の石塔】


甲州街道沿い、増珠寺のかつての参道脇(今は石段が使えないように閉鎖されています)にある古い石碑。

【増珠寺前の石碑・庚申塔】


ガイドブックによると、左側が天明元(1781)年の庚申塔。向かって左側面に「関野宿講中」とあります。この日歩いていて、関野宿を偲ぶことのできた唯一のものでした。

【増珠寺付近の甲州街道】


江戸時代、関野宿を含むこの辺りは小渕村でした。今も地名に残っています。上野原まで3キロ。でもそれは国道20号を行けば、ということなので、実際は、もう少しありそうな予感。

【関野宿のウ●トラマン】


上野原に向けて国道を進んでゆくと、右手に立ちはだかるウル●ラマン。思わぬ不意打ちにペースを乱された私たちは、本来進むべき右手の小道へ入らず、そのまま国道を直進してしまったのでした。ガイドブックによるとこの小道、石畳など「古道の面影を残す」とのこと。
まんまとウルト●マンのスペシウム光線にやられてしまった我々ですが、そんなことにもめげずに、この辺りで関野宿を抜けて、神奈川県と山梨県の県境(江戸時代なら相模と甲斐の国境)に向かって歩を進めるのでした。


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【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(3)-吉野宿へ到着-

2017-04-22 | 旧甲州街道を往く

【子の入】


かつての間の宿・橋沢で休息することもなく、しばらく歩くとまたまた道はU字にターンします。その地点に「子の入」の標識。「ねのいり」と読むのでしょうか?

【子の入付近の甲州街道】


子の入でターンすると、道は下りながら相模湖方面へと向かいます。

【天奈橋から中央道を見下ろす】


中央道の横断橋・天奈橋。写真は橋の手前での1枚です。

【赤坂の標柱】


天奈橋を渡って中央道を越え、赤坂の標柱。
この標柱付近で道は観福寺を真ん中にして、左右へY字型に分岐します。本来は右手へと小道を進むのが正解でしたが、我々は気づかずにそのまま左側、舗装道路を歩いてしまいました。普段なら気づいていたかもしれないルートミス。下調べの重要さをあらためて思い知らされたのでした。

【桜野の標柱】


そんなわけで、本来の道筋から外れてしまったわけですが、観福寺を回り込むようにして、結果的にすぐ旧道と合流します。その合流地点に建っているのがこの桜野の標識。

【矢部の標柱】


桜野の標識からすぐのところに矢部の標識が建っています。「新編相模国風土記稿」の吉野宿の項に、小字(こあざ)として矢部の地名が挙げられています。


【矢部の標柱付近の甲州街道】


矢部の標柱が建っている場所から、右折して石段を下っていきます。

【椚戸の標柱】


「くぐど」と読むようです。「新編相模国風土記稿」吉野宿の項に小字「椚々戸、久具土」と記録されています。ガイドブックによると、ここら辺りが吉野宿の江戸側のはずれとなるようです。

【石塔群】


右端が蚕影山(こかげさん)の碑、ひとつおいて二十三夜塔、その他。
蚕影山とは、養蚕の神さまを祀る信仰で、茨城県つくば市にある蚕影神社が総本社とのこと。吉野宿近郊も織物が盛んだった地域だったそうです。

さて吉野宿です。
「甲州道中宿村大概帳」によると

本陣…1軒
脇本陣…1軒
問屋場…1ヶ所
旅籠…3軒
宿場内の家数…104軒
宿場内の人口…527人

とのこと。
街道に沿って流れる相模川はこの辺りでは桂川と呼ばれるため、桂の里とも。なんとも風流な言い回しです。相州四ヶ宿のうち、東隣の与瀬宿へは1里、西隣の関野宿へは26町(2.9キロ)。

【高札場】


椚戸から道は下り坂となります。その坂道が国道20号線に合流する場所に、高札場跡の標柱が建っています。

【お地蔵様】


高札場の後には6体のお地蔵様。もともとここに建っていたものなのか、後から移されたものなのか、その由来などはとくに案内されていません。

【高札場付近の甲州街道】


高札場で道は国道20号に合流し右折、西へと向かいます。「新編相模国風土記稿」の吉野宿の頁に「一条の大道東西にわたり」と記されていますが、ここから先のことを言うのでしょう。

【国道20号線に合流】


いよいよ吉野宿のメインストリートへと入ります。

【吉野宿本陣】


吉野十郎右衛門が本陣を勤めました。吉野家は鎌倉時代に奈良の吉野から移り住んだとのこと。吉野宿の地名の起こりは遠く奈良県なわけですか。
現在、本陣跡には「聖蹟」の碑が建っています。明治天皇が明治13(1880)年に行幸された際の行在所でした。

【当時の吉野宿本陣(現地の案内板より)】


天皇の行在所にもなるほどの吉野宿本陣、何と五層の楼閣(明治初期の建築)だったそうです。失礼ながら小さな吉野宿には似合わぬ威容ぶりです。写真はその頃の様子。残念ながら、明治29(1896)年の大火で焼失してしまいました。
それにしても、私たちが思い描く江戸時代の本陣とは、まったくイメージが違いますね。

【吉野宿本陣・土蔵】


本陣跡には土蔵が残っています。明治の大火を生き残った唯一の建物だとか。建築年代は江戸時代にまでさかのぼる可能性があるそうです。


【旅籠藤屋跡(吉野宿ふじや)1】


街道をはさんで本陣の向かい側にある江戸時代の旅籠「藤屋」は、明治29年の大火で焼失、翌年、再建されました。再建後は養蚕農家として利用されたようです。現在は「吉野宿ふじや」としてこの地域で出土した遺物、民具などを展示する郷土資料館的な施設となっています。
建物は相模原市の登録文化財に指定されています。

【旅籠藤屋跡(吉野宿ふじや)2】


入館料は無料、開館時間は10時から16時。月曜日が基本的に休館日のようですが、平日は閉館していることもあるとの情報も。ここを目当てに行くなら、事前に確認した方がよさそうです。
じっくり見たかったのですが、先を急ぐため、ちょっとだけ覗いて失礼しました。吉野宿のジオラマや本陣五層建築の模型はなかなか迫力ありました。

【吉野バス停】


吉野のバス停を通過。
見よ、この空模様!我々が急ぐ理由がおわかりになるでしょう。

【庚申塔】


街道沿いの石碑。ガイドブックによると庚申塔とのことですが、表面が摩耗していて何が書いてあるか読み取れませんでした。

【小猿橋跡】


江戸時代に沢井川に架けられた欄干付の板橋の跡。長さ14間(約25.5m)、幅2間(約3.6m)、川からの高さは5丈8尺(約17.5m)だったそうです。名前の由来は大月の猿橋に似ていたからとのこと。

【小猿橋(新編相模国風土記稿より)】


案内板によると、元禄11(1698)年の橋の架け替え工事は幕府によって行われ、400両(約4800万円、1両=12万円で計算)かかったそうです。
欄干付とはいえ、渡るにはちょっとドキドキしそうな橋です。

【百万遍と二十三夜塔】


小猿橋の案内板とともに百万遍と二十三夜塔が建っています。「百万遍」は念仏を100万回唱えると願いが成就されるとされ、その記念の碑ということのようです。

【吉野橋】


現在は昭和8(1933)年に完成した吉野橋で沢井川を渡ります。

【中華福龍で昼食】


相模湖駅を出発したのが11時。お昼を食べるお店を探しながら歩いてきましたが、ようやくたどり着きました。中華料理店です。
時刻も1時半をまわり、さすがに空腹に耐えかねた我々、冷たい生ビールと中華でお腹を満たしました。餃子も美味しい、焼きそばも美味しい…。

久しぶりの旅に疲れが出てきたころにビールとくれば、もう何となくこの辺までで今日はいいんじゃない?的な雰囲気が流れ出します。とりあえず、最寄りのJR藤野駅までは歩かねばなりません。それでは、いざ…と店を出たら、何と大粒の雨がパラパラと。これを恐れて先を急いでいた我々ですが、ビールでいい気分になっているうちに、ついに雨雲に捕まってしまいました。

傘、雨具…誰も持っていない。
東京では昼には雨は降らないとの天気予報。でもここは神奈川県。

そんなとき救いの手が!
お店の方が車で駅まで送ってくれるというのです。なんて親切な!

江戸時代なら、駕籠に揺られて楽ちん旅といったところでしょうか。車の中でのお話によると、甲州街道を歩いて立ち寄る人も結構いるとか。ほんと、お世話になりました。

【JR藤野駅】


JR藤野駅、時刻は2時半。
この日、我々の歩く旅にはここで終了。歩く旅史上、最短距離、最短時間となりました。ま、久しぶりだったし、みんな日ごろの疲れも溜まっていたので無理せずに…と、それぞれが自己弁護しつつ、反省会開催のため八王子に向かうのでした。
そして、疲れが溜まっているとか言いながら、反省会は延々夜遅くまで盛り上がってしまうことだけは、いつもと変わらないのでした。


さらに、夜遅くに帰宅した直後、39度の発熱が襲いかかることなんて、もちろん夢にも思っていない午後2時半、藤野駅で最後の写真を撮り終えた私なのでした。


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【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(2)-古道復活路を進め-

2017-04-19 | 旧甲州街道を往く

【与瀬神社付近の甲州街道】


旧街道は与瀬神社の前で国道20号線と分岐して、集落の間をぬう長閑な道となります。やはり騒がしい国道を歩くよりは、こちらのほうが風情があっていいものです。

【再び国道と合流】


このまま長閑な雰囲気で進むのか、と思うとそうでもなく、再び国道と合流します。上の高架は中央道、左下には線路(JR中央本線)。旧街道、国道、中央道、中央本線が交差するこの地点、昔だったら交通の要衝とでも記されたのでしょうね。

【いざ、古道復活路へ】


合流してすぐに、国道は大きくU字型に曲がります。ここにラーメン店があるのですが、その手前で山道のような(林道かな?)細い道へと進みます。ここが数年前に歩けるように整備された「古道復活路」への入口。以前は、そのまま国道に沿って歩くしかなかったようです。それにしても、「クマ出没注意」とは…。

【古道復活路1】


まさに山道。すでに埋もれていた道なき道を探し出して整備したのでしょうか。小仏峠を彷彿とさせます。ガイドブックには「砂利道」「足元が悪いので注意」と記されています。そんな山道を沢に向かって下っていきます。

【貝沢橋】


小さな川に架けられた貝沢橋。古道の復活時に作られたのだと思いますが、けっこうグラグラしています。飛んだり跳ねたりすると崩落の恐れがあるので、はしゃがずに静々と渡りましょう。ま、川に落ちたとしても水面まで20センチ程度なので怪我はしないと思いますが、濡れた靴で歩くのはこの先ちょっと辛いかと…。

【古道復活路2】


橋を渡ると今度は上り坂。渡河した直後がいちばんの悪路。木や蔦を掴んで急勾配をよじ登るような感じです。確かにガイドブックの言うとおり「足元が悪いので注意」が必要です。せっかく無事に渡った川に転がり落ちませんように…。
写真はそんな急勾配が落ち着いてからの古道。

【与瀬の一里塚】


沢から山道を登っていくと、突然開けた草地に出ます。ここに一里塚の標柱が建っています。日本橋から16番目。ガイドブックによると、片塚でモチノキが植えられていたようです。一里塚というと榎が定番のような気がしますが、場所により様々なのですね。ここも残念ながら当時の痕跡は残っていません。

【与瀬一里塚付近の甲州街道】


右側が山、左側が相模湖方面。山の中腹に沿うように道は伸びていきます。

【甲州街道から相模湖を望む】


相模ダムの建設に伴い、相模湖が出来たのは昭和22(1947)年。ここは人造湖だったのですね。それ以前は相模川の渓流が流れ、その流れに沿うように相州四ヶ宿の宿場が並んでいました。広重の味覚には合わなかった与瀬宿の名産・鮎も、相模川で釣ったのでしょうね。湖底には与瀬の集落の一部が沈んでいるそうです。
なので江戸時代の旅人の目には、今と全く別の風景が見えていたことになります。

【横道】


しばらく進むと山道は終わり、住宅地の間を抜けるようになります。横道の標識が出ているこの辺り、江戸時代の地誌「新編相模国風土記稿」の与瀬村の項に「横道組」と記されているので、昔から続く集落なのでしょう。

【古仏石碑群1】


道端に並んだ古い石仏・石碑。右からお地蔵様、供養塔、不明、庚申塚、二十三夜塔。

【秋葉神社】


古仏・石碑群の後ろ(山側)には火伏せの神様・秋葉神社の鳥居と常夜燈が見ます。現地では気づきませんでしたが、あとで写真をよく見ると鳥居は竹で作られているようです。社殿は街道からは見えません。奥に進んでいけば社殿があるのか定かではないまま、道端から手を合わせて先へ進みます。

【秋葉神社前の甲州街道】


秋葉神社前の旧街道。春の暖かな陽射しのもと、またまた長閑な雰囲気です。

【古仏石碑群2】


しばらく進むと橋を渡ってU字に道は曲がります。そこにたたずむ古仏と石碑群。真ん中に見えるのが二十三夜塔。あとは、ちょっとわかりません。こういう古い石碑を見て即座にこれが何なのかがわかると、街道歩きももっと楽しいだろうに…と、いつも思うのです。

【集落の間を往く甲州街道】


僅かながらですが、道は上り坂になっていきます。相模湖駅の観光案内所で入手した「甲州古道案内図」(無料)には勾配図なるものが載っていて、それによると相模湖駅前交差点は201m、その後、徐々に上ってゆき、この辺りからもう少し先のポイントが300m、そして道は下りとなり吉野宿本陣付近は179mとのこと。気づかなかったけど、相模湖駅から100m近くも上ったのでした。

【馬頭観音】


道の左手に馬頭観音。比較的新しいもの?…とは言っても、馬が行き交っていた明治初期までのものでしょうね。

【菜の花と甲州街道】


この時期、どうしても桜にばかり目が行ってしまいがちですが、菜の花も見事に咲き誇っていました。

【橋沢】


「新編相模国風土記稿」与瀬村の項に横道とともに記されている橋沢。ガイドブックには間の宿(あいのしゅく)とも。間の宿とは、宿場と宿場の間にあって、茶屋など簡単な休憩施設が設けられていた場所のこと。与瀬宿と吉野宿との距離は34町(約3.7キロ)。距離の数値だけ見たら茶屋などなくても大丈夫そうですが、やはり険しい山道の多い甲州街道、単純にそうはいかないということを、このとき、我々が身を持って体験してる最中なのでした。単に運動不足なのか?

【橋沢付近の甲州街道】


さて見渡しても、現在の橋沢には茶屋に代わるものも見当たらないので、このまま吉野宿へと急ぐ一行4人。何やら空模様も怪しくなってきました。家を出る際の天気予報では、雨は昼間には降らないとのことでしたが、ここは東京ではなく神奈川県だったのが大きな誤算になるのかならないのか…。


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【note】甲州街道・与瀬宿から吉野宿まで歩いてみた(1)-与瀬宿を往く-

2017-04-16 | 旧甲州街道を往く

去年の11月26日以来、久しぶりの甲州街道歩く旅です。メンバー全員、仕事が繁忙期に入り半死状態でしたが、ようやく一段落ということで、4月15日、2017年の旅をスタートさせました。

【JR相模湖駅】


集合はJR相模湖駅。前回の最終地点です。前回は小原宿までだったので、今回は与瀬宿から。11時集合としましたが、なんだか電車が止まっているだか遅れているだか…との情報だったので、早めに家を出ました。なので駅に着いたのは10時。
そう言えば、前回に来たときは駅は工事中でしたが、すっかりきれいに生まれ変わっていました。

【津久井の組みひも】


時間があったので駅前の観光案内所に寄りました。ここ相模湖一帯は「津久井の組みひも」が産業のひとつ。その起こりは大正時代とのこと。現在では20社ほどが組みひもを作っているそうです。
そんなわけで、私も5mの組みひもと、組みひもを使った奴さんキューピーの根付けを買いました。

【与瀬宿】


それでは歩き始めます。相模湖駅前の交差点は、すでに与瀬宿。前回歩いた小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿は近距離に位置し、地元では相州四ヶ宿と呼ばれているそうです。

天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、与瀬宿は

・本陣…1軒
・脇本陣…なし
・問屋場…1ヶ所
・旅籠…6軒
・宿場の家数…114軒
・宿場の人口…566人

とのこと。
東隣の小原宿と2宿セットの片継の宿場で、江戸方面へ向かう荷を小原宿を通り越して小仏宿へ継ぎ立てていました。逆に西へ向かう荷は、小原宿で継ぎ立てて与瀬宿を通過して西隣の吉野宿へと向かいました。
そうそう、ここは鮎が名物でしたが、歌川広重は高くて不味いと評したとか。

【本陣焼1】


歩き出してすぐ、街道沿いのお店で「本陣焼」なるものを売っていました。お饅頭です。中身は野沢菜とか餡子とか。

【本陣焼2】


私は餡子。他の3人は野沢菜。歩き出して数分なのにもう茶屋で一服みたいな感じです。ご馳走さまでした。
ちなみに本陣とは、与瀬宿の本陣ではなく小原宿の本陣のことで、正式には「をばら本陣焼」というらしいです。

【はるばる来たぜ与瀬宿】


そしてまだまだ先は長い…。

【与瀬宿本陣】



「明治天皇與瀬御小休所趾」の碑が建つあたりがかつての本陣。往時は建坪111坪だったそうです。

【与瀬本陣付近の甲州街道】


本陣前までは国道20号線が旧街道です。車の通行量も結構多いです。

【与瀬神社】


相模湖駅から歩いて数分、与瀬神社へ向かいます。ちょうどこの日は与瀬神社のお祭りでした。参道付近には露店も出ていて賑わっていました。

【与瀬神社・参道】


長い石段だなぁ~と見上げつつ、ここを越えれば目指す神社かな。
ところが、その先に思わぬ景色が広がっていました。

【与瀬神社・中央道横断橋】


階段を登りきると、こんな感じ。正面左の鳥居が与瀬神社。右側は慈眼寺。そして参道の下を通るのは中央道。この石段、中央道を越すために作られた横断橋だったのでした。昭和43年のことと記念碑には記されています。

【与瀬神社・社殿】


横断橋からさらに石段を登ってやっとの思いでたどり着いた与瀬神社。普段運動不足の身にはこたえました。
この神社、江戸時代には蔵王社とも称し、与瀬村の鎮守として崇められていました。創建年代は不明のようですが、天和2(1682)年に現在地に遷座されたとのこと。与瀬の権現さまの虫封じが名高いそうです。
虫封じ?最近は聞かない言葉ですね。調べてみたら
「幼児が消化不良や寄生虫を宿したりして身体が弱くきげんが悪い場合や、〈虫がおこる〉とか〈疳の虫〉と称するひきつけや疳が起こった場合に、これを防ぐ呪法のこと」(「コトバンク」より引用)

【与瀬神社・例大祭】


お祭りということで、境内には地元の人が多く集まっていました。法被を着ている人たちの他に、観光客と思われる人も随分といました。天気が良かったのでたまたま相模湖へ遊びに来たのか、それともお祭りが目当てだったのでしょうか…。
今登ってきた急な石段を神輿を担いで下っていくそうです。「ヤヨ、キヨ」と独特の掛け声をかけての神輿の渡御。迫力ありそうですが、残念ながら時間的にはまだ先のようなので断念。江戸時代後期に編纂された地誌「新編相模国風土記稿」にも「西より東より南より北より尊信して群参礼拝す」と、例大祭の賑わいが記録されています。


【慈眼寺】


与瀬神社の麓にある真言宗のお寺。江戸時代には与瀬神社の別当寺(神社を管理するお寺)でした。

【慈眼寺より相模湖をのぞむ】


山門から相模湖をのぞむと、まさにこれぞ絶景!。満開の桜と山の緑と相模湖。ついでに真下に中央道。


実は今回、忙しさのせいにしてほとんど下調べもせずに決行に至ったのです。あんまり立ち寄る場所もないだろうから、ひたすら歩いて上野原宿を目指す!という事前の甘い目標は、桜に見惚れ、湖の絶景にうつつをぬかし、お祭り気分に浸り、すでにここで大いに時間を取られてしまい、最初から暗雲たちこめる旅立ちとなったのでした。


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