みみずくの日記

旅行記録などに関する感想を書く。

宮本武蔵駅と平福駅に途中下車

2012-07-12 19:20:48 | Weblog

  吉川英治の「随筆宮本武蔵」を読んだのは、もう30年以上も前のことである。著者は昭和十二年五月末、当時の讃甘村大字宮本を訪ね、讃甘小学校で講演をしている。そのとき、著者の描いた宮本村のスケッチが2枚、随筆に載っている。このスケッチに描かれた風景を一度見てみたいと思っていた。

 数年前、姫新線で津山から姫路に出たとき、列車は佐用でしばらく停車した。ここで智頭急行に乗り換えれば、武蔵の生誕地に行けると思ったが、実際に行くとなると、欲が出て、因美線や第三セクターの若桜鉄道や智頭急行に乗りたくなった。 

 

                   

                                         宮本武蔵駅

  大原駅から3分で宮本武蔵駅に着いた。智頭急行で途中下車した大原、宮本武蔵、平福駅は、どれも和風の建物の駅だった。山間の地には、こういう建物がよく似合う。 駅前に「武蔵の里」という幟が立っていた。道脇に立てられた案内役の幟を目当てに生家跡へ歩いて行った。

 

                              武蔵武道館

 

 生家跡に行く途中、右手に体育館らしい建物の屋根が見えた。屋根の形は、編み笠にも見え、武者修行の武蔵を連想させた。観光案内「武蔵の里めぐり」には、武蔵武道館とあった。初めて見たとき、周囲の風景と、全く異質だと感じさせた建物も、剣豪の故郷の武道館ならば、こういうデザインもあるのかと思った。 

 

 

  

                     武蔵生誕地の石碑

 

 幟のおかげで、迷うことなく、生家跡に来た。「宮本武蔵生誕地」と刻まれた石碑の他に、「宮本武蔵」の著者吉川英治に対する感謝の記念碑が立てられていた。その横に、作者名は読めなかったが、吉川英治撰 「船島の かえりは武蔵 一人だけ」と刻まれた石碑があった。巌流島の決闘場面で、「遂にもどらなかった者は、敵の厳流佐々木小次郎。」とあったのを、思い出した。

 

   

                         武蔵神社

 

 生家跡の少し先から、道は二手に分かれている。左の道を登って行くと、武蔵神社があり、神社の右側に回ると、林の中に武蔵の墓があった。

  「武蔵の里めぐり」によると、登って来た道がかつての因幡街道である。鳥取と播磨を結ぶ主要道路であった。隠岐を脱出された後醍醐天皇もここを通られ、武者修行に出た武蔵も、この道を通って、鎌坂峠を越えた。また、鳥取藩の参勤交代の行列もここを通ったとある。しかし、観光案内を読む前は、普通の山道と思っていた。そういう歴史の道であれば、写真を一枚でも撮っておけばよかったのだが。

  

 

 

    

             竹山城址の山。平らな山頂に無線塔がある。

 

 駅に戻る途中、小、中学校らしい建物が見え、地図上の学校の位置と一致していた。学校と竹山城址との位置から、随筆にある二枚のスケッチは、小学校から、それぞれ北、東側の方向の山々や村の様子を描いたことが分かった。北側のスケッチには、「竹山城の北東面」とか、町屋には、「(下町)旧い城下町この辺」などの説明があり、東側のそれには、「旧宮本家宅址この辺」とか、「荒巻神社」などの説明があった。

 小学校には行かなかったので、スケッチの風景を実際に見なかったが、スケッチに描かれた現地の様子は実感できた。

  

  

                     平福の宿場町 と佐用川

  

 佐用川に沿った宿場町平福には12時過ぎに着いた。駅の近くに道の駅「宿場町ひらふく」がある。ここの鹿肉のコロッケを食べる積りで、昼食は平福でと考えていたが、道の駅は休業だった。

 隣の店は開いていたが、昼の弁当になるのは、鯖寿司しか無かった。山間の地で、鯖寿司はちょっと意外だったが、昔から中国地方の山国で、よく作られていたと聞いたことがある。

 店の前のテーブルには、年配の男性が一人、座っていた。鯖寿司を食べながら、いろいろ話を聞いていると、ここで、40年以上林業に携わってきた人だと分かった。

 駅の東側に、かなり広い斜面に木が全然ない山がある。数年前の台風で杉が全部倒れたという。山の仕事の経験から、南向きの斜面の木は、南へ枝を張り出す。この為、木は強い南風には耐えられるが、背後からの強い北風には弱いと教えてくれた。

 このときの台風で佐用川が氾濫した。佐用の水害は、テレビなどで知っていたので、様子を聞いてみた。この人は、偶々、佐用の町にいたが、水が来るのがはやく、瞬く間に増水して1メートル位の深さになり、困ったと話していた。

 平福の宿場町は佐用川沿いにある。家のすぐ裏手は川に面している。普段の水辺は、情緒があっていいと思うが、氾濫の時は恐ろしい。川に接する場所には、小さな窓がある土蔵のような建物が多いのも、氾濫と関係があるのかもしれない。

  

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                      初決闘の場

   

  旅先で、地元の人と話をすると、地元のことをいろいろ話してくれるので、楽しいものである。 平福13時38分発の列車に乗る予定だから、まだ時間は十分あった。もう少し座って、話をしていてもよかったのだが、宿場町もゆっくり歩きたいし、鯖寿司のご飯は、普段の昼食より多かったので、1時間位歩くことは必要だった。

 少年の武蔵と兵法者との決闘場所が、近くにあると言うので、行くことにした。その場所は、宿場町のはずれ、佐用川にかかる金倉橋の袂にあった。国道脇に「宮本武蔵 初決闘の場」と書かれた看板が立てられていた。

 昔、ここは処刑場があったという。木立の中に、墓場があり、死者の霊を慰める六地蔵が並んでいた。決闘の場所、処刑場、墓場そして六地蔵となると、かなり陰気な場所に思えた。

 お地蔵さんの写真を撮ろうと、シャッターを押したが、動かなかった。写真に撮られるのを拒んでいるようで、一寸厭な気分がした。 しかし、この場所で、偶々バッテリーが無くなっただけなので、気にせず、ここを出て、宿場町を散策した。

 平福から、智頭急行の終点上郡に着いたのは、14時12分であった。ここから、相生まで12、3分で行けるが、山陽本線の下りに約50分乗って、15時31分、岡山に着いた。相生より、岡山の方が新幹線の下り列車の本数が多いからである。しかし、列車ダイヤの効率だけを考えて、プランを作ったのは間違いだった。これから先、相生駅に途中下車することはまずないし、これまで、降りたこともない。そうであれば、初めての相生駅で降りて、ぶらぶら歩いても、よかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


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