みみずくの日記

旅行記録などに関する感想を書く。

ヨット の完成と帆船模型展

2011-05-23 16:12:52 | Weblog

 二月後半に入ると、五月に開かれる帆船模型展のことが気になりだした。出品を予定しているので、今までのようにのんびり構えていると、間に合わなくなる。

 

 

 甲板上に、小さな構造物を順次取り付けていく。甲板は、すでにオイルで塗装しているので、小さな部品を甲板に直接接着しても、すぐに外れてしまう。そこで、接着する部品の底面に径0.7ミリ程度の穴を開け、これに径0.5ミリのシルクピンを垂直に差し込んで、接着する。甲板にも、径0.7ミリの穴を開け、これに部品につけたシルクピンを差し込んで、部品を甲板に接着する。

 白色に塗装した手すりを甲板の外周に立て、これに、黒色に塗装した径0.5ミリの真鍮の針金を通していった。小さな手すりをピンセットでつまんで、取り上げるとき、誤って床の上に落とした。これが、床に敷いた白いマットの上に落ちたので、もう見つからない。キットには、手すりは一本も余分に入っていない。他にも小さな部品を1点なくしたので、キットのメーカーに連絡して取り寄せた。

 

 

 

 

 このヨットは1965年の建造だから、古い時代の帆船のように、マストは継ぎ目がなく、上から下まで一本の金属棒である。キットの丸棒を削って、銀色に着色する。マストには、ヤードと呼ばれる横棒も取り付ける。

 

 

 

 後部のミズンマストには、大きな三角形の帆を一枚取り付ける。前部のフォアマストと中央のメインマストの間には、それぞれ三枚の帆を取り付けている。これが終わるとフォアマストの二本のヤードに、それぞれ帆を取り付け、さらに、フォアマストの前方に三角形の帆を四枚取り付けて、合計13枚の帆を取り付けた。

 

 

 

 帆の取り付けとロープ(糸)張りが終わると一応完成した。

 このヨットは現代の船であるから鋼鉄製である。模型は木製であり、幅4ミリ、厚さ1.5ミリのヒノキ板をフレームに貼り付けて船腹を作っていく。フレームの曲面に幅4ミリの板を貼り付けると、どうしても板の継ぎ目に少し隙間が生じる。船腹を鉄鋼のように見せかけるために、船腹表面を削って、出来るだけ滑らかに仕上げる必要があった。

 

 

 

 

 今年の帆船模型展は、5月10日から15日まで、福岡市のNHKのギャラリーで行われた。私のヨットも展示させて貰った。期間前半は雨だったが、10日のNHKテレビで紹介されたこともあって、後半は来場者は多かったようだ。

 

 

 

 

 ヨットは、全長61センチ、高さ55センチ、幅20センチである。大きく、立派な模型の横に置かれると、なんとなく貧弱に見えるが、これは大きさの差だけによるものではない。新しく製作にかかるときには、今度こそはと意気込むのだが、出来上がってみると、いくつか不満な点も出てくる。

 しかし、これから先の技術の向上は、殆ど期待できないから、模型展の期限を気にせずに、ゆっくり楽しみながら、丁寧に作って、納得出来るものに仕上げることを目指すつもりである。夢中で作っているときは、結構楽しいものである。 

 今年は、PRINS WILLEM という17世紀のオランダ船を作ることにしている。すでにキットも購入した。長さ73.5センチ、高さ58センチ、幅30.5センチの模型だから、かなり大きい。図面も10枚あって、かなり手がかかりそうである。1年で完成するかどうか疑問である。場合によっては、来年の模型展はお休みにして、2年がかりになっても良いと思っている。

 

 

 ヨットの横に展示されている模型は、日本丸である。全長1.5メートル以上はありそうである。

 日本丸は、今年の4月、長崎港で開催された、帆船祭りで見てきた。模型では、喫水線より下の赤い塗装が、際立って見えるので、実物と異なる船のようだが、船体に描かれた青い横線は同じである。

 

  

               長崎港に停泊する日本丸

 

 4月24日に長崎帆船祭りに行った。近くで見る日本丸のマストやヤードは、太く、逞しく見える。

 帆船祭りに来たのは、これで2度目であるが、今回は天気が悪かった。 ロシアの帆船も参加したそうであるが、放射能騒ぎで、早々に引き上げたらしい。韓国の帆船は岸壁につながれていて、まだ残っていた。

 船内見学は、午後1時30分からと聞いたので、岸壁のレストランで昼食をとり、近くにあるグラバー邸を見に行った。

 岸壁まで帰ってくると、雨が激しく降りだした。傘を差して濡れながらの見学だったので、カメラを出して、写真も撮れなかった。晴天だったら、船内の見学が出来たかも知れないが、甲板だけの見学だった。

 船尾には、直径1メートル以上はある大きな舵輪が、軸を同じくして、二個並んで設置されている。説明役の実習生に聞くと、普段は一個の舵輪を二人で操作するが 、荒天時には、四人で二つの舵輪を操作するという。

 マストの高さは、60メートル近くあるらしい。甲板にいた実習生の一人に、マスト登りについて聞いてみた。マストの上まで登るのに、慣れると4分位で登ると言っていた。初めは、怖いので、もっと時間がかかるらしい。マストに登り、さらにヤードを横方向に移動するのは、大変だと思う。航海科の学生には必修だが、機関科の学生はやらないそうである。

 甲板から上を眺めると、ロープを通した滑車は、すべて木製である。説明役の学生に、これについて聞いてみた。帆船だから木が基本になっているのでは、という話だった。後で考えると、金属製の滑車は木製に比べて、重く、錆や落雷の問題があるとも思ったが、本当のことは分からない。

 

 

 

  


観光周遊バスでベンガラのまちへ

2011-05-14 18:45:17 | Weblog

 バスは備中松山城から市内に下りてきて、藩邸跡に建つ高梁高校の前を通り過ぎていく。この道は、昨年の4月に歩いたので見覚えがある。少し先でガイドさんはバスを降りた。バスは街中を通り抜け、伯備線と高梁川に並行する国道180号線を北へ向かい、ベンガラの町吹屋に向かう。木野山駅、備中川面駅の横を通って、しばらく走った後、国道85号線に入って、今度は西へ向かう。これまでは、ひらけた地域を走っているという感じだったが、今度は、広葉樹に覆われた山の中へ入っていくという風景に変わった。道幅もあまり広くなく、道路沿いに民家などは何もない。

 吹屋ふるさと村の駐車場に着いたのは11時30分頃。ここで、自由に昼食をとって、12時10分に再び駐車場に集まることになった。出発前に渡された資料の中に、「お食事処」というプリントがあり、これを見て、近くの食堂で昼食をとることにした。自家用車で観光に来ている人も結構多く、昼時の客は多かった。

 

 

 今度は、赤い法被を着た地元のガイドさんが、一行を案内した。ベンガラという言葉は、古くからの日本語と思っていたが、インドのベンガルが語源と聞いて、意外な感じがした。そしてちょっぴり物知りになったような気がした。そのいわれについての説明もあったが、聞きそびれた。板塀も屋根瓦もベンガラ色である。

 

 

 道の両側約300メートルに亘って連なる民家が、吹屋ふるさと村と呼ばれる町並みである。ベンガラで財をなした旧片山家と郷土館の見学は、有料であるが、周遊バスの一行はフリーである。道に面して、民家と同じ外観の郵便局もあったが、土曜日なので閉まっていた。

 土産店には、地元の酒、醤油や味噌もあったが、結局、ビニール袋に入ったそば粉を買った。店の人に食べ方を聞くと、団子汁にして食べるという。 

                     

 

 この町並みは、国が選定した重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。歩いて行くと、傷みが目につく家屋もあるが、毎年1000万円の補助金が支出され、建物の補修などが行われているという。

 伝統のある町並みが保存される一方、町並みのはずれに、新たに復元中の家屋もあった。

 町並みが終わった所から、下っていくと、駐車場があり、先回りしていたバスが待っていた。

 

 

 吹屋ふるさと村を出たバスは、復元されたベンガラ工場に立ち寄った。広い敷地内の家屋で、ベンガラ製造の各行程の作業が行われたと説明があった。しかし、ベンガラ製造の知識が全然ないので、作業のイメージがさっぱりわいて来ない。

 吹屋のベンガラは、品質が非常に優れていたという。優れた製品の陰には、優秀な技術者のたゆまぬ努力があったに違いない。優れた品質の製品を産み出す伝統は、現代でも多くの分野で受け継がれている。 

  

  

 

  復元されたベンガラ工場を経て、映画「八つ墓村」のロケが行われた「広兼邸」へ向かった。江戸時代、銅山経営とベンガラの原料の製造で莫大な財を築いた富豪の邸宅である。見学のための駐車場もあり、売店も二、三軒あった。駐車場からバスを降りて見ると、丘の中腹にある石垣に囲まれた邸宅はまるでお城である。

 坂道を登り、門を潜って、庭から座敷の中を見学した。

 石垣の上に見える白壁の建物は、下男、下女の部屋や番頭部屋がある長屋で、その先には、馬屋や倉庫が連なっていた。これらの建屋は開け放され、外からも内部を見学できる。

 下男の部屋の窓からは、下に道が見え、道を上がってくる外来者が見えるようになっている。見学のときは、気がつかなかったけれども、パンフレットを見ると、門には門番部屋があり、さらに、楼門の上には、不寝番部屋が設けられている。

 桁外れの大金持ちだから、盗賊に対する警戒も厳重だったことは当然だろう。下男部屋には、屈強の男たちがいたに違いないし、不寝番もいたということは、いかに警戒が厳しかったかを物語っているようだ。

 このような厳重な警戒の様子を、近郊の住民は当然熟知していた筈で、それは防犯対策に有効で、かつ必要だったろう。

 映画「八つ墓村」は見ていないが、このお屋敷の様子が、どのような画面となっているのか、興味がある。機会があれば見てみたいものである。 

 

 

  周遊バス最後の訪問地は成羽町であった。ここは、備中高梁駅から西、バスで約20分くらいの距離にある。

 この町の成羽美術館は、昔の陣屋跡に建てられている。陣屋の遺構である石垣が、美術館の周囲に残っていた。美術館は、建築家の安東忠雄氏の設計によるもので、左側の壁に沿って設けられた通路を通って美術館の中に入るようになっている。

 通路の左側に隣接して「流水の池」と呼ばれる長方形の土地に、水が張られている。池は、いくつかの区画に区切られていて、その区切りが、あたかも田圃の畦道のように見え、「流水の池」全体が、水を張った水田が、何枚か続いているように見えた。

 館内には、成羽町出身の画家児島虎次郎氏の作品や、この地方から出土した化石類が展示されていた。残念ながら時間の都合で、ゆっくり鑑賞できなかったが、また、伯備線に乗る機会があれば、少し、時間を都合して、もう一度、ここへ来て見たいと思った。

 

 

  美術館を出て、国道313号線を横切ると、「本丁神楽ロード」と呼ばれる成羽町の商店街に出る。ここは、200年の歴史を持つ、備中神楽発祥の地であるという。道路に面した商店の前には、神楽に登場する人物の人形が、飾られていた。

 

 

  人形は、町の人達が自分たちのの手で作ったものである。この町には、NHK番組「家族に乾杯」で鶴瓶さんが訪れている。人形をめぐって、鶴瓶さんと商店街の人達のやりとりはテレビで見た。

 昨年、備中高梁に来たとき、テレビで見た人形の町を訪ねようとしたが、分からなかった。駅前の観光案内所で聞けばよかったのであるが、駅の近所と思い込んで、自分で勝手に歩いていたので、見つからなかったのである。商店街の人の話によると、テレビで放映された後、ここを訪れる人が、随分増えたという。

 

 

 

 商店街の一角に、備中神楽を紹介するコーナーがあり、神楽のビデオテープを鑑賞した。終わって、観光案内のボランティアの人達に連れられ、商店街を散策した。酒屋さんでは地元の酒を賞味し、「お茶のおもてなし」の店では、お茶とお菓子の接待を受けた。

 店の前の道路の道幅は、二車線であるが、江戸時代からこの道幅だったという。広い道幅は、この町の江戸時代からの繁栄をあらわしていることが分かる。

 周遊バスによる観光スポットの見学は、すべて終わり、予定通り16時50分に、バスは備中高梁駅に戻ってきた。

 

 

 

 


観光周遊バスで備中松山城へ

2011-05-08 21:12:33 | Weblog

 ベンガラの町吹屋のことはテレビ知り、その後、旅雑誌でも読んで、一度は行ってみようと思っていた。しかし、備中高梁からの路線バスを利用すると、現地で観光ポイントを巡るとき、交通手段がないので、行かなかった。その後、備中高梁駅から観光周遊バスが出ていることを知り、これに乗ることにして、4月30日の乗車を備中高梁駅に予約し、周遊バスの切符を駅の窓口で受けとった。

 

 

 

 

 観光周遊バスは、9時50分に備中高梁駅前を出発し、備中松山城、ベンガラの町吹屋、高梁市成羽美術館、本丁神楽ロードを回って16時50分に駅に戻って来る。バス代金は大人一人3800円、昼食はついてないが、施設などの入場料は含まれているから、内容からみて決して高くない。当日参加は17名だったが、中型バスには20名以上は乗れそうだ。黄色の法被を着た市の商工観光化課の人が、備中松山城までガイドしてくれた。

 

 

 備中松山城は標高400メートル以上の山頂にある。山の8合目にある駐車場でバスを降りた。そこから天守閣まで700メートルほどの石段を、20分程度かけて上がって行くのが、一応の目安のようだ。かなり整備されている石段だが、不規則な形のものも多く、歩き易いものではない。

 右膝を傷めて以来、家の中で、右足だけで踏み台や椅子の上に上がれなくなってしまった。人より時間はかかると思うが、何とか頂上の天守閣までついていくことにした。スタート地点に置かれていた竹杖の助けをかりて上って行く。一緒に参加した人も、みんな竹杖を使っている。

 見下ろすと、市街地が広がり、右側に高梁川の流れが見える。周囲の山の姿も、深く切れ込んだ谷がいくつもあり、高くはないが、険しい山のようだ。

 

 

 

  300メートル歩いたところで少し休んで、また残りの400メートルを歩き始めた。やっと大手門の所に着いた。何とかみんなの後ろからついていくことが出来た。 

 

 

 ガイドさんの説明によると、石垣の石は城の後ろの山から運んで来たものであり、右手の大きな石は、山城らしく、もともとあった自然石を利用したものだそうだ。 

 

 

 足軽箱番所と読める石碑の横に石段がある。上がったところに番所跡の狭い敷地があった。ガイドさんの説明によれば、当時は6人の足軽がこの番所に詰めていたという。現在では2人の市職員が、ここのお城に毎日詰めているそうだが、朝晩の往復は、慣れても大変だったろうと思われる。

  

 

 

 天守閣の下の広場にたどり着く。二層の小さな天守閣である。ガイドさんの説明によると、普段、藩主は山麓の藩邸にいて、政務を行ったという。一般の、藩士は毎日登城したのかどうか訊ね損ねたが、武家屋敷のある町からここまで来るのは、大変だっただろう。

  

 

 

 入り口を入って、靴を脱いで、上がるようになっている。昔のままの木造の天守閣だから、仕方がない。昔の天守閣のままで残っているのは、ここを含めて、全国で12箇所と聞いた。

 1階の広間の急な階段を上がると、天守閣である。窓の柱の間からは、外の景色が見られるが、柱の間からは、視野も限られて展望はあまりよくない。

 戦いが起こり、篭城となったとき、城主が生活する部屋が設けられていた。万一、落城の時には、城主がここで自決する部屋でもあるという。武士の生活の厳しい一面を見せられた思いがした。

 場合によっては、城を抜けて背後の山の間道を通って落ち延びられるように、脱出口もあったらしい。長く平和が続いた江戸時代は、無用のものだが、城の備えとして設けられたのだろう。 

 

 

 

 天守閣の二階の床に、石製の長方形の囲炉裏が設けてある。他の城のことは知らないが、珍しいのではないかと思う。底に灰が残っているが、分析によると火を使った形跡はないとのことである。

 山頂にある冬の山城の冷え込みは厳しく、暖房の囲炉裏が設けられたのだろうが、防火の観点からは何かちぐはぐなものを感じた。しかし、どこか家庭的な雰囲気を感じさせる天守閣である。

 

 

 

 

 


三次から新見へ

2011-05-04 18:47:29 | Weblog

 4月29日から備後落合駅と備中高梁のベンガラ村吹屋を訪ねることを目的に一泊二日の旅行に出た。

 昨年の四月は、木次線に乗ることを目的に、岡山、新見を経て備後落合で降り、ここから木次線に乗った。その途中、備中高梁で下車して、市内の武家屋敷や頼久寺を見学したが、時間の都合で、山の上にある備中松山城には行けなかった。桜の花が盛りの頃で、備中高梁駅の隣の木野山駅には、ホームに大きな桜の木が一列に植えられ、その桜が満開で見事なものだった。

 今年、備中高梁駅からの観光周遊バスで吹屋へ行く途中、木野山駅のすぐ横の道を通った。去年見た満開の大きな桜の木には、青い葉がいっぱいに繁っていた。

 備後落合と三次との区間は、まだ乗ったことがない。今年は去年とは逆に、広島から三次を経て、備後落合に行くことにした。三次を12時52分発に乗ると、14時13分に備後落合に到着する。5分後に新見行きが出発するが、乗り換え時間が5分では駅の滞在時間が短すぎる。

 もう少し長く、駅にいようと思ったので、10時47分三次発の備後落合行きに乗ることにした。これだと、12時05分に備後落合に着き、14時18分に新見行きが出るから、駅での滞在時間が2時間以上ある。駅で弁当を食べ、写真を撮ったりしても、時間はだいぶ余るが、これで行くことにした。

  備後落合からは、新見に出て、ここで一泊し、翌朝、備中高梁から出る観光周遊バスに乗ることにしている。

 

 

 

 12時5分、定刻通り備後落合駅に到着。ホームにはすでに家族連れの人達がいて、弁当を広げている人達もいた。 大きな荷物を担いで、線路を渡っているのは、岡山大学の山岳部かワンゲル部の学生らしい。

 

 

 

 しばらくすると、12時39分に発車するトロッコ列車「奥出雲おろち号」が入線するという放送があった。ホームにいた人達は、この列車を待っている人達であった。ホームには海抜452メートルと書いた標識がある。600メートルくらいの標高かと思っていたが、それよりは低い。しかし、高度のある山間の地であるから、桜の開花もだいぶ遅いようである。やがてトロッコ列車「奥出雲おろち号」がやってきて、乗客たちはみんな乗り込んだ。

 

 

 

 12時39分、木次行きの「奥出雲おろち号」は発車した。同じ時刻に、三次に引き返すディーゼルカーも発車したので、行き先の異なる二つの列車が、同じ方向に平行して同時に動き出した。ホームでは二人の駅員が列車を見送った。残った駅員は、車で先回りして列車に乗り込むという話だった。そういえば、JRのマークがついた軽自動車が駅前にあった。

 

  

 

 木次行きと三次行きの列車が出て、駅員も去ってしまうと、ホームに残ったのは私が一人になった。ホームの待合室で昼の弁当を食べてしまうと、後はもう何もすることがない。駅舎の待合室に入ると、駅ノートが何冊か置かれている。ぱらぱらと頁をめくって覗いてみたが、10冊近くあるようなので、とても全部に目を通す気にはなれなかった。

 去年ここへ来た時には、15分くらいの乗り継ぎ時間で木次線に乗った。雨も降っていたし、おまけに切符をなくしたと勘違いして、あちこち探し回ったので、写真も十分に撮れなかった。今日は、天気も好いし、時間もあるので駅から少し先の方まで行ってみることにした。

 

 

 

 駅のすぐ前には廃業した新聞店がある。山間の地で冬の積雪量も多いから、新聞輸送は列車で行われていたのだろうか。列車で運ばれてきた新聞をできるだけ速く配達するには、駅前の場所が都合がいい筈だ。 しかし、駅が寂れて、住民がいなくなって、廃業したのだろう。

 駅前の道をだらだらと下って、橋を渡ると国道に面して郵便局や民家がある。民家には人が住んでいる様子はない。今日は祭日なので、郵便局は閉まっているが、普段営業しているのか、どうかは分からなかった。芸備線の五万分の一の地図を見ると、大抵、沿線の駅の近くには郵便局がある。郵政民営化の後、これらの郵便局はどうなっただろうか。

 天気がいいし、時間もあるので、少し先まで歩いてみた。道路が二股に分かれる手前に道路標識がある。もう少し先に立派な民家が見えるが、ここで引き返した。

 

 

 

 備後落合駅で時間を過ごすときに一番気にしていたのは、天候と気温である。幸い今日は快晴で、風はあるが気温も低くはない。リュックの中に予備のセーターを入れ、念のために薄い布地のマフラーと手袋も持参してきたが、使う必要はなかった。寒いのをじっと我慢をしていると、必ず風邪を引いてしまう。

 駅の構内も一通り歩いたので、しばらくベンチに座っていることにした。プラスチック製のベンチの椅子は、日に照らされて暖かくなり、座ると尻が温かく感じて、気持ちがいい。ポケットラジオのスイッチを入れ、ラジオを聴こうと思ったが、エリアが違うのでうまくいかない。しばらく、そのまま座っていることにした。駅のベンチで日向ぼっこである。

 列車が出た後、2時間近く人気のない駅構内で過ごすことになるので、退屈するのが気になったが、実際はそうでもなく、結構、車で人がやってきて、駅構内の写真を撮って行く。今日は、祭日だから特に訪問者が多いのかも知れない。大抵は男性だが、中には中年の夫婦もやってきて、写真を撮っている。夫婦で同じ趣味というのは結構なことだと思いながら、黙ってベンチに腰を掛けていた。ここへ来る人の中には、知らない人と言葉を交わすのが、面倒な人もいるかもしれないし、こちらも相手に気を使うのは嫌であるから、黙っていた。

 こういう山中の無人駅で、一人で過ごすのは、これが初めてだが、これを最後にしようと思った。持病はないが、万が一倒れるということもあり得る。今日のように、訪問者が結構いる場合は、誰かが気づいてくれると思うが、人様に迷惑をかけること避けたい。

  

 

 

 14時10分を過ぎる頃になると、宍道と新見からのディーゼルカーが入線した。三次からもやってきて、三台の車両が駅に集まった。昨年の4月は、12時47分に新見を出たディーゼルカーでここに来て、14時25分発の出雲横田行きに乗った。今日は、逆に14時18分発に乗って、新見に行くことにしている。

 

 

 

 

 三次を出てから備後落合まで、上り勾配が多く、下りはほとんどなかったように思う。備後落合を出ても上り勾配は続き、道後山の手前のトンネルを抜けると、初めて下り勾配になったように記憶している。

 きれいな谷川のすぐ傍らを走る線路をカーブしながら、ゆっくりと進んで行った。

 

 

                  布原駅ホーム

  芸備線を去年と逆向きに走ったので、沿線の風景の印象は、違うように感じた。もっとも、年齢のせいで記憶力は全然当てにはならないが。15時42分に新見に着いた。ホテルにチェックインするには、少し時間があるので、駅の近くにある新見美術館に行く。美術館は小高い丘の上にあって、石段をかなり上がっていかねばならない。石段を上りながら、津波に襲われてこういう高所に避難するときは、大変だろうと思った。