みみずくの日記

旅行記録などに関する感想を書く。

犬の糞と犬の頭の良さ

2016-03-27 18:51:29 | Weblog

 10日くらい前から、犬の糞に悩まされるようになった。1週間の間に庭に3回糞をしていった。猫も時たま庭に糞を残していくことがあるが、今度の糞被害は、これまでになく酷い。

 深夜に解き放たれた飼い犬が徘徊していると思っていたが、近所の人の話では、夜だけではないらしい。糞は結構大きいから、中型犬あるいは、もっと大きい犬かもしれない。3回目の糞の状況から、侵入経路は、どうやら隣家からのようであった。

 隣家は我が家より石垣2段半くらい敷地が高い。その上にブロックを2段積んであるから、わが家の敷地からブロックの上端までは1メートルくらいの差がある。我が家は、石垣の法面から40センチくらい内側に塀代わりの珊瑚樹を一列にして植えている。

 犬は、2段のブロックを超えて、我が家の敷地に入って、用をたし、帰りは1メートル程の高さの差を飛び超えて、戻ったようだ。犬が尻を石垣にうんと近づけて立つと、左右には樹があるから、安心して排泄できるのだろう。外敵の心配がほとんどない現代でも、遠い祖先から受け継いだ、警戒心は持ち続けているのだろう。 

 

 

 

         猫対策用の超音波発生器

 

 1回目の糞を穴を掘って埋め、消毒液のクレゾールを撒いておいたが、3日後に再び大きな糞を見つけた。初めの場所から少し離れているが、やはり石垣の根元にしていた。ネットで買った超音波発生器が届いたので、地面に置き、前よりも広範囲にクレゾールを撒いた。

 

 超音波の器械は早まって猫対策用を購入してしまった。犬対策には周波数20khz以下の超音波を使うらしいが、この器械は周波数18khzから23khzの範囲の超音波を発生するので、犬に有効な周波数も含まれている。気休めに犬にも使うことにした。

 

 最初の糞から、約1週間後、朝、家の周りに糞がないこと確かめたが、午後に、3回目の糞を見つけた。日中でも、飼い犬が勝手に人の家の庭に入り込んで、糞をしていたことになる。飼い主には、いい加減にしてくれと言いたかった。

 

 今度は今までと違った。石垣の途中に糞の塊が一つくっつき、その下の石垣の根元に大きな糞が残っていた。どうもブロックの上から糞を下の敷地に落としたらしい。もし、そうだとすると、いったいどんな格好で糞をしたのか、一度見てみたい気がする。その恰好を想像すると少し可笑しくなってくる。それにしても、同じ場所に糞を残すことにこだわる犬である。 

 

 犬の行動を人間の立場から見ると、超音波の効果が弱まるところまで逃げ、いやな臭いがする地面を避けて、ブロックの上に上がる。さらに、尻を我が家に向けると、鼻を臭いから遠ざけることができる。 犬がどう感じたかは、分からないが、結構、頭がいいのではないかと感心した。 

 

 超音波の器械の効果の程も分からないし、いやな臭いで、完全に追い払えるとも思えない。レンタルの防犯カメラを使うと、犬の姿を捉えられると思うが、飼い主までたどり着くのが、容易ではない。

 

 結局、今の状態を続けるしかないようである。せめてクレゾールをうんと撒いて、糞の回数を減らすことを願うだけである。

  

 

 

 

 

 

 

 

  


餌台の雪

2016-02-09 11:07:05 | Weblog

             餌台のヒヨドリ

 庭の小鳥の餌台に、リンゴやキュウイの皮を小さく刻んで置いておくと、小鳥がやってくる。野鳥は警戒心が強く、家の中から見ている人の気配を一寸でも感じると、さっと飛び立って逃げていく。

 以前、暫く続けて餌を置いていたら、警戒心を少し緩めたのか、台から一間位離れたところに人がいても、台に来て、餌を食べるようになったときがあった。同じヒヨドリが来ていたのかもしれない。餌を置かずにいたら、また元に戻ってしまった。

 

  

             メジロ

 皮がかなり痛んで、柔らかくなった蜜柑を輪切りにして、餌台に置くとメジロがやってくる。一口食べると、左右を見て、常に周囲を警戒している。弱い動物のストレスは相当なものだろうと思う。こういうところへ、大きなヒヨドリがやってくると、彼らはさっと逃げる。しかし、遠くまでは逃げない。直ぐ近くの繁みの中で、大きな鳥が立ち去るのを、じっと待っている。大きな鳥も小さい鳥を徹底的に追い払ったりはしない。適当に食べると、去っていく。

  

 

            餌台の雪

  1月の末、北部九州は記録的な大雪だった。餌台の上に、こんなに雪が積もったのを見るのは初めてだった。30センチ近く積もったようだ。

 以前、ヒヨドリが雪に降られながら、台の上にうづくまっていたことがある。その横にリンゴの皮を刻んだ餌も雪に覆われていた。雪に降られても、確実に餌がある場所が、よかったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


余市のニッカウヰスキー工場

2016-02-03 13:37:17 | Weblog

 

         ニッカウイスキー株式会社の正門

 札幌二日目は、NHKドラマ「マッサン」の舞台であるニッカウヰスキーの工場がある余市へ行った。5年前のバスツアーで、このウヰスキー工場を訪ねたときは、敷地内のバス駐車場で降りて、工場を見学した。今回は正門から入った。ドラマ「マッサン」の後のせいか、展示会場が増設されたように感じた。

 

  

                 RITA HOUSE

   ドラマの内容を知らないと、RITA HOUSE が社長夫人の家であることは、分からなかったと思う。

  ドラマ「マッサン」に出てくる理髪店の壁に、「興亜奉公日」と印刷された紙が壁に貼ってあった。「火の用心」の貼り紙を時折見かけるが、それと同じようなものである。ドラマの時代は多分昭和18年以降、店の場所は分からないが、余市の町と思われる。

 「興亜奉公日」をはじめて聞いたのは、戦時中、小学校二年生か三年生の頃である。朝礼の時間、担任の女の先生が、今日は「こうあほうこうび」ですといい、新しい記念日ができたことを話した。先生は、小学校低学年には、内容の理解が無理と思ったのか、それ以上何も説明しなかった。

 「ほうこう」は働くことと知っていた。しかし、初めて聞く「こうあ」は、何のことか分からなかった。「こうあ」が「きょうわ」なら「きょうわほうこうび」となる。これなら「今日は働く日」となって分かると何度か思った。しかし、「こうわ」は分からなかった。

 「興亜」の意味が分かったのは、ずつと後のことである。教壇に立って話をしている先生の姿を、なぜか、今でもはっきり覚えているのは、全然理解できないことを先生が話したからだと思う。分からないから「訊ねる」ということは、全く念頭になかった。その後、先生達からも、周囲の大人や友達からも、この言葉を聞くことはなかった。

 そして70年以上たった。実物を見たことはないが、小道具として「興亜奉公日」の貼り紙がドラマで使われているのを見て、実際に使われていたことを知った。印刷されたビラが、隣組を通じて町の商店などに配られたのだろう。何の役にも立たなかった記念日と思うが、ビラはドラマの時代を表す小道具として役立ったといえる。

 

             蒸留装置

  ドラマの放映によつて、五年前に来たときより、多くの場所が公開、展示されていたように感じた。

  

  

  

  見覚えのあるニッカウヰスキーのラベルが、大きく拡大されて展示され、若い女性のガイドさんの説明が行われていた。

 

 

            NORTH-LAND

 1階は土産売り場、2階がウヰスキーの試飲会場 となっている。酒は飲めないが、折角だから、少し飲んで行くことにした。

 会場で、おいしい水割りウヰスキーの作り方の説明があったが忘れてしまった。ウヰスキーを口にして、その強い香りに驚いた。今までこんなウヰスキーに出会ったことがない。下戸で、上等のウヰスキーを飲んだ経験がなかったせいだろう。ウヰスキーの味は分からないが、使われている氷水はまろやかで、おいしい余市の水で作られたものと思われた。

 記念にミニボトルを1本買い、あの香りをもう一度家で楽しむことにした。しかし、我が家の水道水は、鉄分が多いようで、ろ過機を使っても、おいしい氷ができそうもない。そこで、ペットボトルに入った市販の天然水で氷を作ることにした。ここで、やっと気づいたことがある。

 ご近所の家で、ゴミ回収日に透明のペットボトルを沢山出す家がある。あれはきっと、その家のご主人が、ウヰスキーや焼酎の水割りを楽しんでおられるに違いないと思った。

 余市を訪ねたのは、27年4月だった。棚にはまだウヰスキーの小瓶が置かれたままである。

 

 

 

 

 

 


室蘭の喫茶店

2016-01-24 13:50:00 | Weblog

 正月、NHKの番組で火野正平さんの心旅コンサートがあり、火野さんの歌を大いに楽しんだ。番組では、視聴者が選んだ心旅ベスト3が発表されたが、残念なことにすぐに忘れてしまった。

 印象に残った心旅を三つ挙げると、順位はないが、学生時代、岳温泉に泊ったとき、親切にして貰ったおばあさんを訪ねる話。夫を亡くした女性に代って、美保関神社にお参りをする話。熊本の場所は思い出せないが、空襲で亡くなった母と最期に別れた橋を訪ねる話である。

 心旅の道を辿り、目的地に行くことは、まず出来ないが、息子が室蘭にいるので、室蘭の心旅の地へ連れて行って貰うことにした。

 昨年、27年4月、福岡から札幌3泊4日、二日間フリーのツアーを利用して、室蘭に行った。ホテルは札幌駅のすぐ横で便利がいい。初日は室蘭に行き、室蘭八景を巡って、白鳥大橋まで行き、帰りに火野さんが休憩した喫茶店に寄ることにした。二日目は、余市のニッカウヰスキーの工場に行った。

  

            室蘭八景 トッカリショ

  地名由来板の説明には、トッカリショは、アイヌ語で「アザラシ岩」を意味するトカル・イショからきているとある。 

 

             トッカリショの崖

 崖下の岩には、今もアザラシが来るのだろうか。崖が切れる向こうの海岸がイタンキ浜。心旅では、浜に白い花が゛いっぱい咲いていたが、季節が違ったのか、花はなかった。遠くには室蘭の市街が見える。 

 

 

  室蘭湾の入口にかかる白鳥大橋。ここから室蘭の町の方へ引き返した。

 

 

              「英国館」

  火野さんが休憩した、喫茶店「英国館」は白鳥大橋を渡って、市街地の方へ約1キロ位のところにあった。テレビの場面では、店の前の道路が実際より広く見えたように思った。注文を受けて、コーヒーを入れるマスターは、テレビ画面で見覚えがあった。コーヒーを運んできた奥さんに、店内撮影の許可を求めると、気持よく認めてくれた。店内はレンガ壁の所もあり、落ち着いた雰囲気の店だった。店のドアーの前で写真を撮っていると、中から奥さんが出て来て、写真を撮ってくれた。

 

 

 


ニュージーランド旅行の思い出

2016-01-12 16:23:27 | Weblog

 

 タクシーの車窓からちらっと見た、ニュージーランドの町の家並みの印象をブログに書いたので、ニュージーランド旅行のことを思い出した。

  ニュージーランドを旅行したのは、今から十数年前である。鉄道とバスを使って、クライストチャーチからクイーンズタウン、ミルフォードサウンドなどを経て、クライストチャーチに戻ってきた。途中、ちょっとした旅のミスもあったが、何とか帰ってきた。 

 

      クライストチャーチの市内電車の前で記念写真

  

  クライストチャーチのホテルに荷物を置いて、電車で市内見物に出かけた。空港の両替所で、コインを用意せずに、電車に乗ったのが間違いだった。車内で車掌さんに少額紙幣を出して、切符を買おうとしたが、つり銭がないと言って断られた。車掌さんが、偶々釣銭を持ち合わせなかったのか、それとも、小銭は客が必ず用意することになっているのか、分からなかった。仕方がないので、そのまま座っていたら、もういいというゼスチャーをしてくれたので、市内循環線の終点まで乗って行った。

 終点で記念写真を頼むと、気のいい車掌さんは、タダ乗りの日本人夫婦と一緒に写真に入ってくれた。その後、市内をどのように行動したかは、記憶にない。

  数年前のクライストチャーチの大地震では、市内で大きな被害が出て、日本人の犠牲者も出たが、この写真のあたりも災害にあったかもしれない。

 

 

             ダニーデン駅

 クライストチャーチからダニーデンを経て汽車でクイーンズタウンへ行った。ダニーデン駅で、座席指定券を買い、列車に乗ると、他の乗客が、すでに私たちの指定席に座っていた。窓口の駅員が手書きで指定券を売るので、同じ番号の座席券が発券されのだ。再び、窓口に行って、空席の指定券と交換して貰った。

 

  ミルフォードサウンドからクイーンズタウンへ飛ぶ遊覧飛行機

 

 クイーンズタウンから、日帰りバスツアーでミルフォードサウンドに行き、観光船でフイヨルドを見物した。観光船の待合所で、クイーンズタウンへ行く遊覧飛行があることを知り、バスをやめて、飛行機で帰ることにした。バスでは、クイーンズタウンからミルフォードサウンドまで、4時間近くかかったようだった。

 観光船の待合所と飛行場を往復するバスがあるので、これを利用した。「飛行場」という標識のバス停で降りたが、飛行機の乗り場ではなく、手前のバス停で降りたことがすぐに分かった。他の人たちは誰も降りずに、バスは出て行ってしまった。慌てて後を追い、どうにか飛行機のところまで、たどり着いた。小型飛行機の小さな飛行場だったので、何とか間に合ったと思った。

 

 

 

 


陸奥記念館を訪ねる

2015-04-04 15:42:40 | Weblog

 安芸灘の屋代島北西端が対岸の柳井市と大島大橋で結ばれていることをテレビの番組で初めて知った。地図を見ると、島は東西に30キロ位あり、安芸灘を蓋しているように見える。島の東部の伊保田に、戦時中、柱島泊地で爆沈した戦艦陸奥の記念館があるので行ってみることにした。

 運転免許証は返納しているので、移動はバスかフェリーを使うことになる。バスでは、山陽本線大畠駅から防予バス周防油宇行きに乗り、記念館前で降りる。所要時間は約1時間6分、運賃は片道1730円である。

 柳井港(やないみなと)からは、松山へ行く防予汽船のフェリーがある。
途中、寄港する伊保田で降りて、記念館まで徒歩10分の距離だ。記念館まで海岸沿いの平坦な道であると電話で聞いて安心した。所要時間は約1時間20分、運賃は片道1360円である。行きはフェリー、帰りはバスにした。

 

 

 

 

  

 

 

 

 出港して、10分も経たないうちに大島大橋に近づいた。食べていた弁当を傍らに置き、カメラを持って、客室の前のデッキに 出た。

 天気予報は、今日だけが曇り、その前後の日は晴れとなっていたが、天気は良かった。大島大橋の右側が屋代島であり、左側には、山陽本線大畠駅がある。

 山陽本線の柳井港駅には12時少し前に着いた。防予汽船の乗船場は、柳井港駅の直ぐ前にあった。博多駅で買った駅弁を山陽本線の車中で食べるつもりだったが、乗客が多かったのでフェリーで食べた。松山行のフェリーは12時25分に出港する。伊保田寄港を確認して乗船した。13時45分伊保田着となっている。

  

 

 

  

 

 

  大橋の下の瀬戸を通る時から前に島が見えていた。地図を見ると前島とある。島の場所に似合った名前だと思う。島は初め進行方向に見えていたが、やがてフェリーは島の横を通り過ぎた。進路を少し右に変えたようだった。海は穏やかだった。 

 

 

 

 

     柱島、出港して約50分後の13時15分撮影。

 

 

 右に小さく見える三つの島が、左から続島、長島、福良島とすると、左の大きな島が柱島となる。この島は、かなり前から見えていた。陸奥の沈没位置は、柱島から約5キロとあったから、フェリーから見て、左舷前方の海域と思ったが、これは間違いだった。海上の距離感は全くあてにならない。

 記念館で受付の女性に訊ねると、陸奥の沈没場所は、フェリーが通ったあたりだと教えてくれた。吉村昭氏の著書「陸奥爆沈」には、沈没位置は東経132度24分、北緯33度58分となっている。家に帰って、フェリーの航路が描かれている地図で、フェリーの右舷の海域で航路に近い場所と推定した。そこは柱島の海岸まで約5キロ、記念館の海岸まで約4キロであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 記念館横の小高い丘に石碑があり、傍らに沈没場所の方向と距離が3キロと表示されていた。前方には柱島が見える。記念館の女性の話とこの標識から、推定した場所は沈没場所に近いと思った。予め調べておけば、フェリーがその近くに来た時、せめて心の中で手を合わせたのにと思った。 

 

 

 

 

 

            

 

 フェリーが伊保田の港に近づいて行くとき、海岸に自衛隊の飛行艇が見えていたので、記念館の場所はすぐに見当がついた。

 

 

 

 

 

 

  陸奥記念館の周辺は、公園と駐車場になっていて、小さな水族館もあった。「陸奥記念館」と刻まれた石碑の背後には、陸奥の碇が見える。

 

 

 

 

  館内には引き揚げられた遺品が展示されていた。艦長の軍服や破損した士官の短剣など多くの遺品を見ると、爆発による人の死が実感され、遺品を撮影する気にはなれなかった。爆発は、昭和18年6月8日の12時10分から13分ごろとされている。遺品の時計には、爆発の瞬間を示すものがあったかも知れないが、時計の板面を見ることに気づかなかった。

 

 

 

 

               戦艦陸奥の模型

  

 

      上から大和、巡洋艦妙高、陸奥の模型 

 

 

            スクリュー 

 

 

 記念館の横の丘の上に、副砲、スクリュー、艦首部分など展示されていた。軍艦は鉄の塊という印象を改めて受けた。スクリューは艦の外だが、変形は何かの固形物との激しい衝突によるものだろうか。  

 

 

           桜と副砲

 

 桜はまだ開き初めだった。昔の軍隊は桜の花と縁が深かったが、戦後70年続いた平和な時代から見れば、桜と大砲は不似合のようにも思えた。

 

 

 

                

  

 

 

 


思い込み

2015-02-22 17:25:34 | Weblog

 最近、「誰にも死ぬという任務がある」(曽野綾子著、徳間書店)を読んでいると、著者がニュージーランドを訪れたとき、「ニュージーランドの家はどれも同じくらいの面積で表庭と裏庭があり、裏庭には果物の木などが植えてあったが、それ以上の豪邸はなかつた」という件があった。

 かつて、ニュージーランドを旅行した時、クライストチャーチ国際空港から町のホテルに向かう途中、走るタクシーの中から町の家並みが見えた。そこまでは少し距離があり、庭の様子などは分からなかったが、屋根の大きさから、日本の家と余り変わらないという印象を受けた。実際には、向こうの家の方が広いだろうと思うが、思っていたよりも大きくはなく、曽野さんの本にあるような町の雰囲気を感じたという記憶がある。

 当時、kuala Lumpurに住んでいて、週1回の英会話の個人レッスンを受けていた。先生は、アイルランドのダブリン出身の主婦で、年はまだ40前と思われた。

 ある時、日本のことが話題になり、日本の町の銭湯は男女混浴だろうと言うので驚いた。さらに、日本では、小さい家に家族がすし詰めになって住んでいると信じていた。「百人乗っても大丈夫」というCMの倉庫より狭い家に、家族がひしめき合って住んでいるというイメージのようだった。何事にもはっきりとした自分の考えを持ち、自己主張が強いだけに、一旦信じ込んだら、容易に人の言葉を受け入れようとはしなかった。

 ニュージーランド旅行から帰ってきた頃だったので、クライストチャーチ近郊で見た住宅地の家の大きさは、日本と余り変わらないようだとい話すと、妙な顔をして黙り込んでいた。

 結局、日本の町の写真を見せるのが、手っ取り早いと考えた。日本から持って行ったアルバムの中に、我が家の前で、小学生だった息子が、近所の友達と遊んでいる写真を見せることにした。我が家は写っていないが、道の両側にはご近所の家が写っている。ありふれた住宅地の写真だが、彼女のイメージにある日本の家とは違うことは確かだと思った。写真を見て「緑が多い」とつぶやいた。これが写真に対する彼女の感想だった。

 銭湯の男女混浴が、事実と異なることを理解させようとしたが、こちらの説明をてんで信じようとはしなかった。観光地のホテルのパンフレットがあれば、大浴場の入り口の写真を見せれば、済むのだかそれもなかった。今なら、インターネットでホテルの大浴場の写真を見せるのだが、当時はインターネットを余り利用していなかったので、思いつかなかった。

 「銭湯」の写真はなかったので、何冊か持っていた「サザエさん」の本の銭湯の場面を探してみた。ちょうど、銭湯の入り口の場面があった。「男湯」「女湯」と書かれたのれんが、入り口にかかっている。勿論、彼女は漢字は読めないが、のれんの字を説明すると、ようやく、入口が二つあって、銭湯が男女別であることが分かったようだった。

 間違って思いこんだ事柄を修正するのは一苦労だった。一体、誰から日本の話を聞いたのかと聞くと、友人の某国人から聞いたということだった。話を面白くするために、そう言ったのだろうというと、「確かに誇張している」とやっと認めたようだった。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


しまなみ海道を歩く(3)

2013-12-23 10:57:50 | Weblog

第3回しまなみ海道ウォークは、生口島を半周して約16.5キロを歩いた。

ゴールは多々羅しまなみ公園で、そのあと多々羅温泉に入ることになっている。

旅行会社のパンフレットには、所要時間が約4時間とある。

これが正味の歩く時間であれば、時速約4キロ強だから、何とか歩けるが、

食事と休憩時間を含んでの4時間だと、ちょっと無理のようである。

天気がいい日には、自宅から往復約7キロの道を1時間約4.5キロのペースで

歩いている。この速さで、7キロをもう1回続けて歩いても、歩けそうなので、

参加することにした。

寒い時期だから、1時間に1回のトイレ休憩が必要と思っていたが、

昼食の場所から次の休憩地まで2時間近く歩いた。

 

 

            出発地から生口橋を見る(11時33分撮影)

 今日は、前回のゴール地点である渡船場と橋を挟んで反対側の所から出発した。

博多駅を出発するときは雨だったが、新幹線で東へ移動して来ると、

空は次第に明るくなり、しまなみ海道では晴天になった。

 

 対岸に因島の工場群が見える。前回は、工場の向こう側の道を歩いた。

写真の道を左へ歩き、左折して西に進む。この辺は人家がなく、

道沿いに茂みが所どころにある。こういう所が、続いていたらと思いながら歩いた。

 

                ドルチェ(12:48、 食事後撮影)

風が強い海沿いの道を40分くらい歩いて、この店に着いた。

店で弁当とお茶、それにサービスのオレンジジュースを受け取った。

風が強いので駐車場のバスの中で弁当を食べた。水分を控えるため、

缶入りお茶は残し、ジュースだけ飲んだ。少し休憩して、12時50分頃出発した。 

 

 

                    造船所(13:10撮影)

 定期検査のためか、津軽海峡フェリーが、ここまで来ているのには少し驚いた。  

    

               平山郁夫美術館(13:29 撮影)

海沿いの道を歩いて、瀬戸田の町に入る。この町には、平山郁夫美術館や耕三寺博物館がある。

何年か前に、福山から観光バスでここに来て、そのあと大三島へ行った。

町の記憶は余りない。美術館の前を通ったが、建物の外観に覚えがなかった。

   

 

                  耕三寺博物館(13:30 撮影)

門の前はツアーの人たちである。この山門には見覚えがあった。

時間がないので、中を少し覗くだけにした。

 

  

                      耕三寺の境内

この境内を散策して、写真を撮った覚えがあるが、今回は写真を撮るとすぐに出発した。

 

              しおまち商店街(13:34撮影)

最後から出発すると、信号で待たされ、集団とは離れてしまった。

ガイドさんによると、西瀬戸自動車道が建設されるまでは、

尾道からフェリーで来た参拝者は、この商店街を通って耕三寺に行ったので、

通りは賑やかだったそうだ。

自動車道路が開通して、尾道からのフェリーが廃止されると、

商店街の人通りはめっきり減ってしまったという話だった。

 

                瀬戸田のフェリー乗り場(13:42 撮影)

しおまち商店街を通り抜けると、フェリー乗り場があり、瀬戸田と三原を30分で結ぶ

フェリーが運航されている。瀬戸田水道の向こうに見えるのが高根島。

三原からフェリーでここに来て、瀬戸田の町を散策するのもいいと思う。

 

  

                     向上寺三重塔遠景(13:45 撮影)

ガイドさんが、丘の上に見える向上寺の三重塔について説明してくれた。

話を聞いて、後でパンフレットを見ると、1432年建立の古い塔であることを知った。

振り返って写真を撮ったが、最後尾なので誰もいなかった。

 

 

                橋の見える道を歩く(14:11撮影)

最後尾は4人、少し前が女性二人組で、これらのメンバーは固定してきた。

左から添乗員さん、ガイドさんそして参加者の男性である。

今回は、歩く距離が長いためか、最後尾にもガイドさんがついている。

途中で故障者が出た場合、食事をした店ドルチェから応援の車が来て、

目的地に待機しているバスまで、送ってくれる手筈になっているという。

その時は、どちらかが、しんがり役として一人残るのだろう。

今日は、歩くペースが速く、目的地に向かってひたすら歩いているようだ。

この男性も、写真を撮りながら歩いている。

「ウォーキング大会ではないから、もう少しゆっくり歩いたら、どうか」

と言っていたが、同感である。

到着した後、温泉に1時間、土産物店に30分を予定しているというから、

少しペースが速いのも仕方がないのかも知れない。

 

                サンセットビーチ(14:14 撮影)

きれいな砂浜だが、人口砂浜だそうである。

海水浴客が利用する2階建ての建物があるが、改修中だつた。

ここで、トイレ休憩の予定だったそうであるが、先へ行く。 

 

                 ひょうたん島(14:40 撮影)

 NHKの子供番組「ひょっこりひょうたん島」のモデルとなった、

ひょうたん島が見えた。地図を見ても、ひょうたんの形である。

沖合、約2キロにあり、大三島と生口島の中間に近い。

風が強いので、海面も少し波立っている。 

 

                   垂水港(14:41撮影)

ここには、しまなみ海道をサイクリングする人たちの休憩所らしい店があり、昼食後

初めてのトイレ休憩をとった。テーブル席で添乗員さんと話していると、

隣のテーブルのおばさんが、飴を勧めてくれたので、貰って口に入れた。

板チョコを持ってくる積りだったが、最近、尿から糖分が検出されたので、

チョコレートはやめた。昼食からゴールまで、口に入れたのは、

貰った飴玉1個だけだった。

 

 

               休憩後、再び出発 (14:41撮影)     

  

                          (14:52撮影)

 橋全体の姿が見えるようになったが、まだ、だいぶ距離がありそうだ。

 

                   紫色の草(15:02撮影)

 道端に紫色の知らない植物があった。自生ではなさそうなので写真を撮った。

 

                   多々羅大橋 (15:15撮影)

 ここまで、海抜0メートルに近い道を歩いて来て、最後は一気に橋の高さまで登る。

 昨年、福山から高速バスで大三島へ行った。多々羅大橋の手前のバス停で、

「橋を歩いて渡る人は、ここで降りて下さい」というアナウンスがあった。

この橋を歩いて渡れることを初めて知った。対岸が大三島である。 

 

                   みかん畑 (15:15撮影)

海岸から橋へ登る道は、結構距離がある。途中みかん畑が多い。

いろいろな品種のみかんが植えてあるようだが、違いは分からない。

手を少し伸ばせば、届くところに実が沢山なっている。  

 

                  鳴き龍(15:24撮影)

橋の上は風がかなり強い。帽子はポケットにねじ込み、

コートのフードも、風にはためいて煩わしいので、これも頭から外した。

橋の主塔の所に、多々羅鳴き龍と書かれた説明版があった。

拍子木があり、これを叩くと、塔が高いので残響が生じる。

拍子木を叩いて試してみた。説明版は、もう一つの主塔の所にもあった。 

 

                     これより愛媛県(15:32撮影) 

主塔の中間地点に県境を示す表示板があった。海も県境があるのか、知りたいところだ。

橋の上の県境の標識を見たのは、多分初めてである。  

                多々羅大橋と観音山(15:44撮影) 

 橋の長さは約1.5キロ。

渡り終えて生口島を振り返ると、橋の向こうに、標高472.3メートルの観音山がある。

  

               目的地に到着(15:55撮影)

添乗員さんは、3時45分頃までには着きたいと話していたが、約10分遅れて、

最後に到着した。10分程度の遅れは、許容範囲と勝手に決め込んでいた。 

デジカメを持ってきたが、一眼レフより扱い難く、写真を撮っていると遅れがちになった。

11時30分ごろから歩き始め、食事とトイレ休憩を30分乃至40分とみなすと、

約4時間歩いたことなり、平均して時速4キロ程度の速さになる。

第一回の向島大橋の時には、橋の上で追い越していったが、今回は、

終始マイペースで歩き、追いつき、追い越すことは考えなかった。

春頃から体重が4キロ増え、急ぐと膝の痛みが出るかも知れないこと、

距離が長く、前半はかなりの向かい風であったこと等を考えると、

適当な速さで歩いたので、故障もなく到着できたと思う。帰りの広島駅で、

足を引きずっていた人もいたから、少し、ペースが速かったように思った。

 

  

                     道の駅(15:55撮影)

 多々羅温泉はここからバスで直ぐだった。

ウォーキングのたびに温泉に入れたらいいなと思いながら、湯につかっていたが、

しまなみ海道では、温泉はここだけらしい。

「宝船」という土産物屋に立ち寄った後、バスは広島駅に直行した。

バスの外は真っ暗で、疲れていた体が温泉で温まり、すぐに眠ってしまった。

目が覚めた時には、バスは広島市内を走っていた。

これまでは、駅のレストラン街で食事をする時間は十分にあったが、今回は

改札口前に集合して打ち合わせると、発車時刻まで30分位しかなかった。

新幹線の「こだま」では、車内販売がないので、駅弁とお茶を買って、

車内で食べることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 


田染荘と中津城(2)

2013-12-13 11:16:33 | Weblog

30年くらい前になるが、日田から中津へ経て、国東半島めぐりをしたことがある。

途中、福沢諭吉の生家を訪れた。そのあと、中津城へ行くことも考えたが、

城の場所を知らず、離れた場所かも知れないので、宇佐神宮へ向かった。

しかし、生家である藩士の武家屋敷は城に近いから、

尋ねたらすぐに分かった筈だが、その時は全然思いつかなかった。

次の機会にと思っていた中津城だが、30年近く経って、行くことになった。

                   中津城天守閣  

  一層と二層の屋根が同じ大きさなので、堂々とした安定感を感じる。 

                  

城主が黒田・細川・小笠原・奥平と変わったので、構造が異なる石垣があり、

継ぎ目がはっきり分かる所がある。左は黒田時代、右は細川時代のものと説明があった。

 

                   独立自尊の塔

 

                  奥平家歴史資料館

石垣を見た後は、歴史資料館となっている天守閣を見学した。歴代藩主の

甲冑、刀槍などが展示されている。

最も印象に残ったのは、馬上の武将が、敵の首級を突き刺した槍を担ぎ、

腰のまわりに、いくつもの首級をぶらさげている掛け軸だった。

絵には前田利家と題してあった。戦場ではこういう光景が、

日常茶飯事だったのか、知りたいところである。

 

 

                      中津川

中津川が城の西側を流れている。中津川は、少し上流で山国川から分かれた短い川である。

二つの川に挟まれた中洲が、対岸に見える町である。 

城の西側は二つの川があって、防備は強大であるが、川の反対側の防備は、

堀だけでは頼りない気がする。

観光パンフレットによると、外堀の役割をする「おかこい山」が城を取り囲み、

高さ約5メートルの土塁の一部が残存、あるいは復元されている。地図を見ると、

北東の方向の「おかこい山」に沿って沢山の寺がある。いずれも、

城の歴史に関連した由緒ある寺なので、一度、訪ねて見たい。

 

            天守閣から見た城内の一部

橋の向こうで山国川と中津川が、分岐しているようであるが、よくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


田染荘と中津城(1)

2013-12-08 10:08:38 | Weblog

 世界農業遺産に指定された国東半島宇佐地域にある田染(たしぶ)と中津城を

訪ねるバスツアーに参加した。

 ツアーのタイトルは「未来へ残したい風景と中津の官兵衛」であった。

中津の官兵衛は分かるが、残したい風景がどこなのかは分からなかった。 

参加者は、女性限定で夫婦も可ということだったが、夫婦は我々一組だけだった。

福岡市から南下して、大分自動車道に入り、日出から豊後高田市に向かった。

日出から先は、最近、車で行ったことがないので、道順は分からなかったが、

豊後高田市に近い田染(たしぶ)が目的地だった。

 

                  ほたるの館

到着した「ほたるの館」の前には、田染の田園風景が広がっている。 

近くには、夏になると沢山のほたるが見られる場所があるそうである。

            

                   田染の田園風景 

田染が十五世紀頃から宇佐神宮の荘園であり、目の前に広がる田園風景は、

四、五百年前の姿のままであると聞いて、ここに来た理由が分かった。

左の山麓の森のところから右の方へ、田圃は緩やかに低くなってきている。

 

 

                 重要文化的景観の石碑

 

 

                皇太子殿下行啓記念碑

平成20年、皇太子殿下がこの地を訪問された。そのときの写真が、

「ほたるの館」の中に展示されていて、広場には行啓記念碑が建てられている。

 

 

広場の入口近くに、いろいろなかかしが置かれていた。

最近、かかしのコンクールがあって、終わったばかりだという話だった。

記念碑に置かれているかかしは、優秀作品の一つかもしれない。

   

 

荘園は細長い地形に思えた。右の方の山麓までが昔の荘園だったらしい。

区画整理をしていない田圃の畦道は、昔のままに曲がりくねっている。

その畦に沿って、用水路が設けられたが、そのほかは、昔と変わらぬ景観だという。

 

 

昔の景観を残すために、道は幅だけ広げて、二車線の舗装道路にしている。

そのせいで、真っ直ぐではなく、曲がりくねった道になっている。

山稜に見える突起した大きい岩には、釣鐘岩、徳利岩、障子岩などの

名前がついている。

真ん中の幟の上は、地下足袋岩というから、古い名前ばかりとは限らぬようだ。

 

 

                 しいたけ栽培場

田染荘の説明を聞き、景観を眺めた後、杉木立の中のしいたけ栽培場に

案内された。しいたけ栽培場に来たのは初めてだ。周囲は鹿除けの壁で囲まれている。

     

 

 参加者は一人2個のシイタケを採らせてもらった。

茎の根本をつまんでねじって採る。原木に生えたシイタケを初めて採取した。

傘の上に白い割れ目の模様があり、傘の裏側に薄い膜がないシイタケを

採ってほしいと言われた。 

            

 

採ったシイタケは集められ、「ほたるの館」に持ち帰って、

昼食の時に食べることになっている。

 

 

 

              栽培所の入口に置かれたかかし

 鹿を追い払うために、入口の所にかかしが置かれていた。

昔の田圃のかかしより手がこんで、着せている服も上等である。

鹿には、結構、効果があるという話だった。

道路脇に、金網を設置している場所が多く目についた。

猿はいないが、鹿と猪の被害があるという話だった。

鹿はシイタケの茎の根元まできれいに食べ、猪は利口で、囲いの下を掘って、

中に入ることがあるという。

 

                      ため池

国東半島のこの地域は、年間降雨量がほかの地域より少ないので、

昔から農業用のため池が多く作られ、降った雨水を効率的に使う工夫がなされてきたという。

ため池の補修工事は昔は人力だが、今はブルドーザーを使って、

なされているのを見た。

 

 

                    昼食の弁当

 ツアーの昼食は、地元の食材を使った弁当ではないかと期待していたが、やはり、

地区の女性達の手作りの弁当だった。

ご飯は地元の「荘園米」、シイタケの天ぷらや鶏のから揚げなどが入っていた。

鶏と根菜の吸い物で体が温まり、採取したシイタケを炭火で焼いて貰って、

カボスの汁をかけて食べた。おいしい弁当で、十分に満足した。

「荘園米」は「ほたるの館」で売られていて、買って帰る人もいた。

  

 

 

     くぬぎ林に積まれているシイタケの原木( 中央に黒く見える)

  シイタケの原木はくぬぎの木が使われる。くぬぎを伐ると、

切り株から新芽が出て、15年経つと原木に使える程の大きさに成長するという。

このサイクルを利用すると、植林の必要はない。

シイタケの原木に穴をあけ、菌を埋め込むと、翌年、菌が原木全体に拡がり、

シイタケが発生するという。

バスの中から、くぬぎ林を見学して、この後、中津城に向かった。