博多からバスツアーで佐賀関へ行って来た。 天気予報は、午前中は曇り、午後は晴れであったが、鳥栖から別府に向かう大分自動車道の山間地帯では雪が降り続いていた。別府を過ぎ、大分に近くなると、空は晴れ、日が射すようになったが、風は一日中、強かった。
佐賀関港
尖った形の佐賀関半島の先の方は、半島の両側に湾が入り込んで、くびれている。その狭くなった所に、佐賀関の町がある。別府湾に面した方の湾に、佐賀関港があり、四国に渡るフェリーが出ている。フェリーの所要時間は70分とあった。佐賀関港と反対側、豊後水道に面した湾には、佐賀関漁港がある。そこの水産加工工場が、今日のバスツアーの目的地の一つである。
精錬所の煙突
佐賀関港に沿う国道から、湾は入江のように見えた。対岸の丘に佐賀関精錬所の建物と赤い煙突が見えていた。その右側に、かつては東洋一の高さを誇った煙突が解体中だった。土地が狭いから、解体した部分は、煙突の中に落とし込んでいくとのことであった。
波止場の生簀
佐賀関の漁法は、漁網は使わず、魚を傷めないように、すべて一本釣りだそうだ。 獲った魚は、一日生簀に入れた後、作業場へ運ばれる。生簀に魚を入れるのは、魚のストレスを除くためと説明があった。生簀の海水は、きれいに澄んで透明であった。海水の汚れを除去し、水質を良好に保っているという説明があった。
魚を生簀から作業場へ運ぶローラー
作業場での説明
普段、見学者が作業場へ入るときには、専用の履物に履き替えるそうだが、この日は、そのまま中へ入れて貰えた。作業場は清潔で、床も掃除が行き届いていた。
鰤
たまに、大きな魚市場へ行くこともあるが、普段、魚はスーパーで見るぐらいである。テーブルの上に展示された鰤を見て、魚とは本来、こんなに綺麗なものかと感心した。写真より実物がもっとよく見えた。長さは60センチ以上はあるようだった。魚の値段は、よく聞こえなかった。鰤の体を傷つけないように、薄い透明なフィルムで覆われ、冷凍用の氷も、小さな粒の海水の氷が使われていた。
「関アジ」、「関サバ」のブランドを確立するまでに10年かかったという。 係の人は、「1年に1度は食べてください」というが、なかなか口にする機会はない。
勝海舟、坂本竜馬 上陸地点
幕末、英・仏・蘭・米の四カ国連合艦隊の長州攻撃を中止させようと、長崎で交渉を行うため、勝海舟の一行が、軍艦で神戸から佐賀関に来た。 ここから、徒歩で九州を横断して、熊本へ出、長崎に行った。一行の中には、海舟の塾生だった若い坂本竜馬もいた。現在、当時の船着き場は埋立てられ、市民センターや広い駐車場になっている。その駐車場の近くにこの標識があった。
町の散策
昼食には、「関さば」の刺身が出た。午後は、グループに分かれて、地元ボランティアのガイドさんから、町の歴史の話を聞きながら、街並みを散策した。参加者は高齢者が多いので、万一に備えて、グループの後からは、地元のボランティアの人が運転する車がついてきた。きめの細かい、周到な配慮がなされていた。
海舟・竜馬止宿の寺
佐賀関は、 町の規模に比べて、寺の数が多いとの話であった。交通の要所であるので、寺が宿泊施設として用いられたそうである。海舟の一行は、徳応寺に宿泊している。坂道を上がっていくと、石段の横に「海舟・竜馬 止宿の寺」と書かれた標識があった。
徳応寺本堂
一行が泊った徳応寺の本堂は、当時のまま残っている。
寺の本堂
海舟ら三人の幹部は、この広間に宿泊したという。随行した若い塾生たちは、別棟の建物に宿泊したが、その建物は、現存しないそうである。 バスツアーは、一月下旬の寒い時期だったが、広間には、五、六台の石油ストーブが置かれていて、結構暖かった。二月の寒い時期に着いた海舟の一行は、ずいぶん寒かったに違いない。
住職が、海舟一行に関連した話題について、30分程話をされた。住職の講話だから、堅苦しい内容かと思っていたが、興味ある話題を取り上げて、巧みに話されたので、30分はすぐに経った。当時の住職の日記が残されており、それをスライドを使って、説明をされた。日記には、海舟が乗ってきた軍艦の絵が描かれていて、名前が「長崎丸」であることや、「坂本竜馬」と記されている名簿をスライドで見せてもらった。
徳応寺から見える精錬所、背後は豊後水道。
徳応寺からは、佐賀関港と豊後水道の両方が見えた。寺は、砦の役割も持っていたらしく、見通しのきく、見晴らしのいい場所に設けられたらしい。
海舟一行が、神戸から長崎へ行くために、佐賀関に上陸し、徒歩で往復十五日かかって、長崎へ行った理由が分からない。直接、軍艦で長崎へ行くより、陸上を行った方が早かったのか、あるいは、軍艦で、長州藩の関門海峡を通ることに、何か支障があったのだろうかとも思う。