ロープウェイ山頂駅から「文学のこみち」を下り、中村健吉旧居、「おのみち文学の館」の一つである文学記念室を訪ねた。
歌人中村健吉は、病気療養のため千光寺公園下の別荘を借り、広島からここに転地したが、昭和九年に亡くなられた。その別荘が中村健吉旧居として残されている。すぐ近くに歌碑がある。
「おのみち文学の館」の碑
この碑文には、志賀直哉旧居、中村健吉旧居、文学公園および文学記念室をおのみち文学の館とする旨の説明がある。
文学記念室には林芙美子の書斎が復元され、尾道に縁があった作家、歌人達の資料が展示されていた。文芸に疎い私が知っているのは林芙美子、高垣眸くらいである。
戦時中、少年雑誌に掲載された林芙美子の連載物語を毎月読むのを楽しみにしていた。子供が一人で東海道線の汽車旅をする話であった。絶筆となった「めし」は文庫本でも読んだが、「放浪記」をはじめ他の小説は読んでいない。
高垣眸の「怪傑黒頭巾」は講談社から文庫本が復刊されている。この作家が尾道出身であることは知らなかった。記念室でいろいろ説明して下さった人の名刺に「高垣」とあったので、尋ねてみると作家と同じ高垣家の人であった。
記念室での話は楽しかった。私達は帰りに、記念室の前で記念写真を撮ってもらった。
坂道を下りていく途中、三月下旬であったが、お寺の庭の桜が少し咲いていた。
歌人中村健吉は、病気療養のため千光寺公園下の別荘を借り、広島からここに転地したが、昭和九年に亡くなられた。その別荘が中村健吉旧居として残されている。すぐ近くに歌碑がある。
「おのみち文学の館」の碑
この碑文には、志賀直哉旧居、中村健吉旧居、文学公園および文学記念室をおのみち文学の館とする旨の説明がある。
文学記念室には林芙美子の書斎が復元され、尾道に縁があった作家、歌人達の資料が展示されていた。文芸に疎い私が知っているのは林芙美子、高垣眸くらいである。
戦時中、少年雑誌に掲載された林芙美子の連載物語を毎月読むのを楽しみにしていた。子供が一人で東海道線の汽車旅をする話であった。絶筆となった「めし」は文庫本でも読んだが、「放浪記」をはじめ他の小説は読んでいない。
高垣眸の「怪傑黒頭巾」は講談社から文庫本が復刊されている。この作家が尾道出身であることは知らなかった。記念室でいろいろ説明して下さった人の名刺に「高垣」とあったので、尋ねてみると作家と同じ高垣家の人であった。
記念室での話は楽しかった。私達は帰りに、記念室の前で記念写真を撮ってもらった。
坂道を下りていく途中、三月下旬であったが、お寺の庭の桜が少し咲いていた。