札幌建設の第4弾
明治2年以降札幌の地図を探すと1873年(明治6)に遡ります
このころは開拓使判官は島義勇から岩村通俊之に代わっておりました
島の基本的な構想を引継ぎ札幌の街は道路を南北に交叉させる碁盤の目状とし
中央部に東西に引かれた道路、大通 幅58間(約105m)を作りました
1871年までに火防線となる「大通」を境に北を官庁、南を商業地としました
1873北海道石狩州札幌地形見取図 1873(明6) 北海道札幌之図
ところがその頃の札幌は野火が多く、せっかく建てた住居が類焼してしまいます。
そこでお手軽に笹小屋を建てて、次の火事まで住みつくことが続きました。
開拓使では、新しい住宅を作るときに、笹小屋をやめるよう指導しましたが、
住民のほうは燃えても燃えても、手近の笹を刈って家を作ってしまいます。
当時の開拓小屋を再現(北海道開拓の村)
岩村判官は、こんなことでは札幌本府建設がスムーズに進まないと考え、
「八尺ぐらいの白もめんに御用火事と書いた旗をたてて、
札幌中の笹小屋を全部焼き払った」とのこと(明治5年5月3日)
つまり放火ですので本人も辞職覚悟だったと言われています
民家への延焼を防ぐ目的で生まれたのが、開拓使御用請負人の中川源左衛門
率いる中川組でした。(札幌市の消防の開祖)
私設消防組の「中川組」 明治10年撮影
明治5(1871)年2月に札幌市街の町名をつける際、東創成(そうせい)町以下33町に本道の郡国名にちなんだ命名をし、 通りにもそれぞれ郡国名をつけました。
北海道の郡国名は以前の
「札幌建設 2008/7/23 6:10」の北海道地図を参照下さい
また、このときに大友(おおとも)堀が創成川(S)と改称されました。
北海道札幌之図に加筆
旧名称 現名称 旧名称 現名称
A:雨龍通・・・・東2丁目北部 ア:空知通・・・・北6条
B:東創成通・・東1丁目 イ:樺戸通・・・・北5条
C:西創成通・・西1丁目 ウ:石狩通・・・・北4条
D:夕張通・・・・西2丁目北部 エ:札幌通・・・・北3条
E:上川通・・・・西3丁目北部 オ:厚田通・・・・北2条
F:小樽通・・・・西4丁目北部 カ:浜益通・・・・北1条
G:様似通・・・・東3丁目 キ:渡島通・・・・南1条西部
H:浦河通・・・・東2丁目南部 ク:爾志通・・・・南2条西部
I:胆振通・・・・・西2丁目南部 ケ:檜山通・・・・南3条西部
J:山越通・・・・西3丁目南部 コ:津軽通・・・・南4条西部
K:虻田通・・・・西4丁目南部 サ:福島通・・・・南5条西部
L:有珠通・・・・西5丁目 シ:上磯通・・・・南6条
M:室蘭通・・・・西6丁目 ス:日高通・・・・南1条東部
N:幌別通・・・・西7丁目 セ:沙流通・・・・南2条東部
O:白老通・・・・西8丁目 ソ:新冠通・・・・南3条東部
P:勇払通・・・・西9丁目 タ:静内通・・・・南4条東部
Q:千歳通・・・・西10丁目 チ::三石通・・・南5条東部
R:薄野遊郭
明治4年に就任した黒田次官は開拓顧問に多くの外国人技師たちを雇い入れて
、先進国の農業工業の知識や経験、専門技術の導入や機械など近代的なものを
受け入れています。
これは建設中の札幌の町並みにも影響を表しています
それは次回とします
明治6年