「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~その4~

2005年05月17日 | 「台湾への旅」

3回に渡り、李登輝前総統の言葉を借りて八田與一氏の功績を紹介してきました。さて、実際に訪れた鳥山頭ダムはどのような場所だったのでしょうか。

台南から鳥山頭ダム行きのバスは一日2便。最初の便に乗り遅れ、次の便まで相当時間があったため、どうしようかバス停で迷っていたところ、陳さんという60歳の方が声をかけてきました。つたない日本語ですが、車で鳥山頭ダムまで連れて行ってくれるとの事。往復で1000元。高いのか安いのか分かりませんでしたが、お願いする事にしました。

てっきり陳さんはタクシーの運転手さんと思っていたのですが、車を見てビックリ。フィリピンで走ってそうな年季の入った車でした。台南から高速道路を経て50分、鳥山頭ダムに到着です。通常のカイドブックには載っていない場所なので、人も少なくひっそりと佇んでいる場所かと思いきや大きなゲートのある観光地でした。

八田與一氏の銅像はダム全体が見渡せる小高い丘の上にありました。訪れた時は5月8日に行われる八田夫妻の追悼式に向けて芝生の養成中で直接触れる事は出来ませんでしたが、訪問以前に八田氏に関する本を読んでいた私にとっては、それでも十分感動的でした。



写真でも分かるとおり、八田氏の銅像は通常の銅像とは違っています。そう、通常は立っている姿が多いのですが、八田氏の銅像は座っているのです。ダムの完成後、日本人、台湾人の関係者や労働者の方たちが八田氏の銅像を作りたいと願い出ました。

八田氏は「自分だけがこの事業を行ったのではない」として反対します。しかし、皆の熱意に押され、銅像を制作することを許しました。ただし、「立って皆が働いてきたダムを見下ろすほど自分は出来た人間ではない。座っている形で地面に直接置いて欲しい」というのが条件でした。

銅像の八田氏は頭の前部分の髪を右手の人差し指で触っています。髪をぐるぐるひねり回す癖があり、大きくゆっくり回している時は機嫌の良い時で、その時は見計らって仕事の相談をしたそうです。逆に小さく早くひねり回している時は、機嫌の悪い時で、声をかけるのを控えたそうです。

そういった姿を銅像にする八田氏の人間としての温かみと人間らしさを強く感じました。設置された当時はその通りに直接地面に置いてあったそうですが、今は台が付けられています。

銅像のある場所を下ったところには「八田技師記念室」という八田氏とダムに関する展示館があります。八田氏の幼少の頃の写真や、遺品、家族の様子や様々なエピソードが細かく紹介されています。訪れた時には多くの台湾人家族が記念室に訪れていましたし、年配の日本人の方も数名いらっしゃいました。



八田氏の功績はだれも疑う事はありません。現在台湾で使用されている「認識台湾」という歴史の教科書でも八田氏は大きく取り上げられています。八田氏の偉業もさることながら、私が感動したのは他の点にもあります。次回は「八田與一から学ぶ」のまとめをお伝えしたいと思います。

台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~その3~

2005年05月15日 | 「台湾への旅」

~八田與一のその後、李登輝前総統からのメッセージ~

八田氏は1942年3月、陸軍からの南方開発派遣要求として招聘されます。その年の5月7日、14,000トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年56歳でした。妻の八田外代樹は三年後、戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年46歳でした。

私の畏友、司馬遼太郎氏は「台湾紀行」で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつくしています。

私は八田與一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭になります。

第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い形而上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は教えてくれたと思います。

「公に奉ずる」精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければなりません。

第二は伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何にアウフヘーベン(止揚)すべきかを考えてみます。現在の若者はあまりにも物資的な面に傾いているため、皮相的進歩にばかり目を奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

前述した八田氏の嘉南大圳工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩を適当に調整しつつ工事を進めています。三年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中には伝統的な価値観、「公議」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些かも変わるところがありません。

まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に、この公議があればこそ国民的支柱になれるのです。

第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、まことを持って率先垂範、実践躬行する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはなりません。

いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、こんな大状況のなかで、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクターになってきます。

この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思うのです。

 そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田與一氏のような方々をもう一度思いだし、勉強し、学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。

台湾では、この記事のように日本の新しい面を発見できる機会が多くありました。八田與一氏の功績を踏まえた上で、次回は実際に訪れた鳥山頭ダムの事や私が感じた八田與一氏の事について報告したいと思います。


台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~その2~

2005年05月14日 | 「台湾への旅」

~前回からの続き。八田與一の鳥山頭ダムの効果と人となり~

その成果には

(1)農民が被る洪水、干魃、塩害の三重苦が解消したこと

(2)三年輪作給水法によって全農民の稲作技術が向上したこと

(3)買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を招き、全体では9540万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった。

(4)農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた-ことがあげられます。

二、次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大圳の巨大な工事に対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰もてがけたことがなく、アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、それなりの理由がありました。

まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は六度以上もあります。この工法は粘土による中心羽金層を堰堤の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤に決壊を防ぐアースダム方式です。この工法を遂行するには、300トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域ではこれを供給する場所がありました。

この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。またコンクリートコアの高さと余水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず、設計どおりに構築しました。70年経過した今日でも、堰堤は一億トン以上の水を堰とめて、八田ダムの正確性を証明しています。



二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は400万円に達し、堰堤工事と烏山頭隧道工事費の25%にあたります。

八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては10年どころか20年かかってもできない。工期の遅れは15万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く金を生む。結果的には安い買い物になる-というものでした。

この考え方は当時としては偉大な見識と英断と見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮しました。

三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、職員用宿舎200戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコートといった設備まで建設しました。

それ以外にまたソフトウエアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

四つ目は三年輪作給水法の導入です。15万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、1億5千万トンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。

ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えていました。そのためには、十五万町歩の土地に住むすべての農民が、水の恩恵を受ける必要がある。

そしてそのためには、すべての土地を50町歩ずつ区画し、150町歩にまとめて一区域にして、水稲、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ、50町歩一単位として灌漑してきたのです。

最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えてみましょう。

八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間としても優れていました。肩書や人種、民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ金沢という土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかったと思います。

嘉南大圳の工事では10年間に134人もの人が犠牲になりました。嘉南大圳完成後に殉工碑が建てられ、134人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。

八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードがあります。

~次回はその後の八田與一と李登輝前総統のメッセージです~

上記のリストラのエピソードですが、リストラを弱者を切るのではなく弱者を救済するという八田氏の視点は現代の私たちに何を問いかけるのでしょうか。


台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~その1~

2005年05月13日 | 「台湾への旅」

台湾総統府の蔡さんが言っていた「八田與一(はったよいち)」。彼の事は李登輝前総統の本でも紹介されており、台湾に最も貢献した日本人として知られています。植民地=悪と教えられてきた戦後教育の中では、彼のような人が紹介されるはずもなく、日本ではあまり知られていないのが現状です。

彼は日本の台湾統治に合わせて、台湾近代化のために送られた専門家の一人でした。専門は土木。当時、作物がほとんど収穫できず苦しい生活をしていた台南の嘉義台南平野地方に東洋一と言われる鳥山頭ダムを作った方です。彼の業績は私の言葉ではあまりにも偉大で説明できません。



2002年に慶応大学の三田祭で来日講演する予定だった李登輝前総統が、中国の妨害により日本政府からビザが発行されないという事がありました。その時に講演する予定であった内容が11月19日付け産経新聞朝刊に全文掲載されました。

そこで、その中から八田與一氏に関する部分をここで今回から3回に渡って紹介したいと思います。この文章から八田與一氏の功績、そして人となりを読み取って頂ければと思います。

以下李登輝前総統「台湾の声」より ~11月19日付け産経新聞朝刊~

台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一について説明しましょう。

八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野15万町歩(一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地と60万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭ダムとともに永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称たたえられています。 

八田與一氏は1886年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て1910年に東大の土木工学科を卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、56歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

1895年に日本の領土になったころ、台湾は人口約300万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、マラリアやコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台湾総督は抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って赴任した1898年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した1906年以降のことです。後藤新平時代に台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることになる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑する農業水路の桃園大圳(たいしゅう)の調査設計を行い1916年に着工、1921年に完成しましたが、灌漑面積は3万5千町歩でありました。これが今日の石門ダムの前身であります。

この工事の途中から旧台南州嘉南大圳水利組合が設立され、八田氏は総統府を退職して組合に入り、10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。

この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域15万町歩に毎年8万3千トンの米と甘蔗=サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。

その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、44歳の若さでありました。嘉南大圳の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大圳の父」として60万の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。

ひとつは嘉南大圳。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大圳を抜きにして八田氏は語れません。二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。

今日の日本人が持ち得なかった実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを教えてくれます。これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。

一、まず嘉南大圳の特徴についてみましょう。

(1)灌漑面積は15万町歩、水源は濁水渓系統2万2千町歩、烏山頭系9万8千町歩。灌漑方式は三年輪作給水法

(2)烏山頭ダムの規模、堰堤長1273メートル、高さ56メートル、給水量1億5千万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用

(3)水路の規模、給水路1万キロ、排水路6千キロ、防水護岸堤防228キロ。



このような巨大な土木工事をわずか32歳で設計に取りかかり、34歳で現場監督として指揮をした八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の10倍を超える事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。

そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。

しかし嘉南大圳が完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウエアは完成しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウエアが大切です。農民はその大地を使って農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大圳は生きたものになりません。

農民への技術指導が連日、組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって三年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貎を遂げたのです。

次回はその成果についてお届けします。

台湾への旅 「台中の育幼院で出会った陳さん」~その2~

2005年05月12日 | 「台湾への旅」

さて、陳さんが体験した日本統治時代はどのようなものだったのでしょうか。

「私が住んでいたのは台中港の近くだったから、港の建設や関係者の日本人が沢山住んでいました。日本人と台湾人は同じ学校には行けず、別々の学校に行っていました。それは少しおかしいと思いました。」

「でも、学校には沢山の日本人の先生がいました。私の兄は4歳年上なのですが、日本人の先生ととても仲が良かったのを覚えています。戦後、日本と台湾が20年以上分断されました。20年もたてば私たちも30才以上になっています。みんなそれぞれ頑張って働いて、それなりの地位につくようになりました。」

「ようやく戒厳令が解除され、日本と行き来が出来るようになると、私の兄を含めて沢山の生徒が日本へ日本人の先生を慕って会いに行きました。そして、先生たちを台湾に連れてきて当時を懐かしがっていたのを覚えています。」

「日本の植民地でしたが、先生に対する尊敬や感謝の気持ちはとてもありました。」

陳さんはこうして、その時の事を話してくれました。総統府の蔡さんがマクロ的な視点で日本との関係を話してくれたのに対し、陳さんは個人や兄の体験というミクロの視点から日本時代の事を話してくれたのがとても印象的でした。



決して、統治者である日本を賛美しているのではなく、あくまでも自分の先生という立場で日本人を語る。これって実は色々な国が友好を深めるのにとっても大切なことだと思います。日本は、中国は、韓国はではなく一人称で話ができる。もちろんその為には、相手の事を良くしっていなくてはいけませんし、知ろうとしなくてはならないと思います。

そんな基本的なことを改めて学ぶことができました。

そして「実は私は明日日本に行きます。」と、陳さんの唐突な一言。なんと、陳さんの娘さんはご主人が日本で仕事をしているため、現在埼玉県に住んでいるそうです。ご主人は台湾の方。孫がいるので早く会いたいと目をほころばせていました。そして、日本へ発つ前日にも関わらず私たちを案内してくれた事をとても嬉しく思いました。

案内をしてくれた陳さんや、とっても若くて素敵なソーシャルワーカーの方、そしてつかの間ではあったけれどでも、無邪気に接してくれたこどもたちに別れを告げようとした所、私たちは台湾元をほとんど持っていない事に気が付きました。陳さんに聞いたところ、今日は土曜で銀行は休み。もちろん明日も休みとのこと。

困った私たちは明日日本に行く陳さんに、日本円と台湾元を交換して貰おうと思いました。その旨を陳さんに説明すると、陳さんはおもむろに財布から2,000元を取り出し「これはあなたの団体へ寄付だから、とりあえずこれを使っておいて、銀行が開いたら両替してください。」と言ってくれたのです。

2,000元と言えば日本円で6,600円。物価が日本の3分の一程度の台湾では大金です。もちろん、最初は遠慮しましたが、陳さんの「あなたみたいに頑張っている日本の若者がいて嬉しいし、フィリピンのこどもたちの為にも使って下さい。」との言葉に、ありがたく頂くことにしました。

こういう方がいるので、私がしているような活動が続けていけるのだと強く思いましたし、それが陳さんだったのでとっても嬉しく思いました。あの時にお金を受け取った感触を忘れる事はないと思います。そんな陳さんは今頃、日本で孫とのんびりお風呂に入っているのでしょうか。



次回は台北から台南へ。総統府の蔡さんが先生と呼んでいた「八田興一」さんを取り上げたいと思います。

台湾への旅 「台中の育幼院で出会った陳さん」~その1~

2005年05月11日 | 「台湾への旅」

台北から台中は電車で2時間半。「自強」(日本でいう特急という意味らしいです)に揺られ台中に向かいます。電車は中央本線の「あずさ」を思わせるような作りとスピードでとても快適でした。

窓からは台湾の山々と、時折近代的なマンションに紛れて瓦屋根の日本家屋が目に付きます。その光景を懐かしくも思い、不思議にも思いました。



台中の訪問先は「台中光音育幼院」。台中駅からタクシーで10分ほどの場所にあるその施設は、とても広い敷地を持ち、台北の施設とはうってかわりのんびりした感じの雰囲気です。門を抜けると、遠くの方から年配の方がニコニコしながら近づいて来てくれました。

今回、この施設を案内してくれる陳さんです。70歳の陳さんは、日本統治時代に小学校5年生まで日本語教育を受けたため、日本語が堪能です。お互いに簡単な自己紹介をしたあと、施設の説明をしてもらいました。

「台中光音育幼院」は1950年に設立された施設で、60人のこどもたちが12人づつ年令別・性別に5つのコテージに分かれて生活をしています。この施設は「財団法人向上児童福利基金会」という基金会が母体となっており、育幼院とは違う場所で、育嬰院という18歳以下の身体障害児を養育・リハビリする施設も運営しているそうです。

児童養護施設にはいくつかの形態があります。大人数で生活する大舎制。人数的にはひとつの建物に30人程度でしょうか。そして15人~20人程度で生活する中舎制。最後にこの施設のように少人数で生活する小舎制があります。また、これらとは別に家族単位に近い形で生活をするグループホーム等があります。

私が1994年から活動をしているフィリピンの孤児院では、当初大舎制だった施設を、より少人数で家族に近い形態で暮らしたほうが、こどもたちの為に良いという方針から、コテージを建設して中舎制に変更した経験があります。

この育幼院は台湾の中でももっとも古い小舎制の施設でここを卒業したこどもたちは700名を数えるそうです。最初に訪れた台北の育幼院はこどもたち全員が一つの建物に住んでいたので大舎制と言えるでしょう。



台北の施設で、台湾のこどもたちを取り巻く現状についてはある程度話を聞いていたので、私の興味は陳さんがどういう方で、今回、私たちを案内してくれる事になった経緯等を知りたいという事に移っていました。

現在70歳の陳さんは、60歳まで中学校で先生をしていたそうです。退職前は教頭先生をしており、退職後にこの育幼院で働くようになりました。5年間、育幼院で働きながらこどもたちの成長を見守ってきた陳さんは65歳の時に退職。今は週に2回ほどボランティアとしてこの施設を訪れ、こどもたちと作業をして汗を流し、勉強の面倒を見ているそうです。

陳さんになんで退職してまでボランティアとして関わっているのかを訪ねると、「最初に来たときに出会ったこどもたちが、今は中学生になっています。彼らがかわいいし、中学を出るまではしっかり責任を持って見届けたい。」とおっしゃいました。定期的にこどもたちが通っている中学校を訪ね、先生たちと連携してこどもたちと関わっているそうです。

単純ですが、こういうお爺ちゃんっていいなぁと思いました。こうやって、仕事を離れても真剣にこどもと向き合えるのはとっても素敵です。

施設を一回りしたあと、小さいこどもたちが住んでいるコテージへ向かいました。すると、ちょうどお散歩の時間。12人が手をつないで出てきて突然、キャッキャッと叫びながら妻を見ていました。なんと言っているのだろうと思い、陳さんに聞いてみるとこどもちは「ハイヒール!ハイヒール!」と言ってるようなのです。こどもたちの中でブームなのでしょうか、、。

さて、台湾総統府で蔡さんから色々話を聞いたので、同じく陳さんにも日本の統治時代の話を聞いてみることにしました。

次回は陳さんの日本統治時代のお話です。

台湾への旅 「台北市私立伯大尼育幼院」~その2~

2005年05月10日 | 「台湾への旅」

彼女に案内してもらった施設内の設備に、私たちはただただ感心するばかりでした。まずは子どもの部屋です。ユニットごとに台所兼リビングとお風呂があり、1ユニットには子どもの部屋が2つあります。小学生以上の子どもは1部屋に2人まで、小学生以上の子ども6人につきスタッフは1人といったような政府の規則があり、この施設は規則をきちんと満たしています。



子どもたちの部屋の綺麗さに驚いたのはまだ序の口でした。普通の小学校のものよりも少し小さい程度の立派な図書館、コンピュータールーム、これまた普通の小学校のものと比べても遜色のない大きいプール、遊ぶのに十分な広い庭などなど。

施設を訪れ「自分の家よりすごい」という人が多いことも頷けます。子どもたちには友達を施設に呼ぶことを推奨しているそうですが、この施設であれば子どもたちも恥ずかしく思うことはないでしょう。



この施設には幼稚園も併設されており、外からもたくさんの子どもが通っています。地域とのつながりを密にするという効果は大きく、この日は幼稚園による母の日イベントが開かれ、多くの方が訪れていました。楽団による演奏が流れており、「ん?どこかで聞いた曲」と思ったら、踊るポンポコリンやドラえもんなどの懐かしい曲でした。

天気が良かったせいか、イベントで賑やかだったせいか、設備が素晴らしかったせいか、この施設には明るい雰囲気が満ちていました。もちろん大変なことは多いと思いますが、さすが「私立の中では一番」と自信を持っている施設だと感じました。



夫はこの施設を訪問して、今までの活動の中で、施設の充実度と子どもの充足度は比例しないと思っていましたが、ここまで立派な施設だと決してそうとも言えないのでは、と考えさせらたようでした。

台北の施設を後にし、この日の午後には台中の施設への訪問が予定されていたので、一路台中へと急ぎました。台中ではまた一味違った施設を訪問することになります。

台湾への旅 「台北市私立伯大尼育幼院」~その1~

2005年05月09日 | 「台湾への旅」

今回と次回は私に代わり、妻が台北の育幼院の報告をします。

今回の旅は台北から始まり、台中、台南、高雄と少しずつ南下していきます。それに合わせて、台北駐日経済文化代表処の方は、台北、台中、高雄で一つずつ育幼院を紹介してくださいました。施設を一つ訪れるだけでは多くは知ることができないと思っていた私たちは、色々な施設を訪問することを楽しみにしていました。



最初の施設は台北市の郊外にある「台北市私立伯大尼育幼院」です。到着した施設の立派な門をくぐると、何やら他にもお客さんが訪ねてきている様子。私たちは職員の方に案内され、院長室に通されました。院長さんはやさしそうな女性です。

私たちが自己紹介をし、今回3つの育幼院を訪ねることを伝えると、院長さんが「ここは台湾で私立では一番良い育幼院だと自信を持っています」とおっしゃいました。その言葉にこれから納得することになります。

その時、先ほど門で会ったお客さんが入ってきました。綺麗に着飾った50代前半くらいの女性で、話を聞いてみると、なんと育幼院を懇意にしている台北市議会議員の方でした。それから15分程度、まるで私たちがその場にいないかのように、院長さんと議員さんの間でにぎやかなおしゃべりが繰り広げられました。

時折思い出したように、「あなたたちはどういうことを日本ではしているの?」などと15秒ほど話を振ってくれます。二人の雰囲気から、今後の支援や育幼院に対する政策の話などをしているのだろうと思い、気長に待ちます。

フィリピンでも同じような状況になることはよくあります(タガログ語であれば話に加わることもできますが)。また、このようなやり手で活発な女性が多いこともフィリピンと似ています。そんなことを考えているうちに、議員さんは次の用事があるからと去って行きました。さて、ようやく院長さんとのお話です。

台湾には43の育幼院があるそうです。そのうち公立は3つだけ、あとはすべて私立です。台湾では私立の育幼院に対しての政府の補助金が運営費の4割程度で、残りはすべて寄付でまかなっています。

フィリピンでは私立の孤児院に対する政府からの補助金はゼロである一方で、日本の私立の児童養護施設に対しては運営費の9割が政府からの補助金です。台湾はその中間にあるようです。

キリスト教系のネットワークによる寄付や、民間会社などからの寄付が多く、スポンサーのほとんどは台湾人だそうです。スポンサーに対する立派な報告書も見せてもらいました。この育幼院はこうした点に長けているようで、安定した寄付により子どもたちへ十分なケアを行い、またその成果をもとに安定したスポンサーを維持するといった好循環による良好な経営が行われているようです。充実したアカウンタビリティといったところでしょうか。

この育幼院には3歳から21歳まで62人の子どもが保護されており、男女比は半々。子どもたちは政府や教会に保護され、各育幼院に送られてきます。背景としては、両親が亡くなり身寄りがない子どもが一番多く、両親が病気や服役中というケースもあります。また、ここ10年で虐待や育児放棄が原因であるケースが増えています。

経済発展により核家族化が進み、親戚や近所付き合いが希薄になっている社会の変化が、子どもの状況に大きく影響しているようです。日本の児童養護施設でも同じような影響があります。

ここでおもむろに、院長さんが「私の英語では上手く説明できないから、英語の話せる人を呼ぶわ」と内線電話をかけ始めました。代わって現れた女性は40代前半くらいのイギリス人の女性。流暢な台湾語で院長と話したあと、私たちの質問に親切に答えてくれました。

なんと彼女は教会ボランティアとして台湾に19年前にやってきて、この施設では12年間も働いているそうです。台湾語が流暢なのも頷けます。この19年間で台湾は大きく変わったことでしょう、と問いかけると、彼女は「本当に大きく変わった、いい意味でも悪い意味でも」と答えました。もっとその話を聞きたかったですが、本来の目的である施設の見学に移ります。

さて施設はどんな様子なのでしょうか。次回に報告します。

台湾への旅 「台湾総統府で出会った蔡さん」~その2~

2005年05月08日 | 「台湾への旅」

蔡さんの話は、現在の日本に対する想いや、靖国問題について進んでいきます。

「現在の日本は大切なものを見失っている。経済発展をしたのは良いが、日本人らしい誠実さ、勤勉さを失っている。もっと胸をはって堂々として欲しい。中国に対してもなぜあんなに弱腰なのか?韓国に対しても同じ。今起こっている反日運動なんていうのは台湾ではありえない。」

「中国政府と韓国政府がやっていることは内政干渉であり、もし日本が同じように教科書修正を中国に要求したら絶対に聞き入れないでしょう。内政干渉と言って脅してくるはず。日本は政治家が弱い。昔の日本人は誇りを持って、しっかりと自分の意見を言える政治家が沢山いた。」

「もちろん、植民地だから悪いこともあったけど、台湾にも台湾の開発に尽くした日本人が多くいた。今の台湾の基礎は日本が作ったんだよ。八田興一先生(鳥山頭ダムを作った方)は台湾人すべてに感謝されているし、尊敬をされている。そういう人たちを忘れてはならない。」

「靖国問題もそう。あんなのは外国に批判される事ではない。内省人の政治家が靖国神社に御参りに行くと批難する外省人が沢山いる。靖国神社には台湾人25,000人が日本兵として戦って祭られているんだ。その時は台湾は日本だったんだから靖国に祭られているんだし、御参りしたっていいじゃない。」

話を要約するとこのような感じでした。これをもし日本人が言っていたら「右翼」というレッテルを貼られ、植民地の正当化をするな!等批判されると思いますが、統治を受けた台湾の方が言っているので重みが違います。そして、日本にもこうあって欲しいという例として、李登輝前総統のあるエピソードを紹介してくれました。

台湾には国民党と民進党という二つの大きな政党があります。国民党=外省人系、民進党=内省人系として言われていますが、蒋介石率いる国民党が独裁政治を行っていました。この、いわゆる外省人たちは、傍若無人な振る舞いを繰り返したそうです。

これに対し、日本統治時代を懐かしむ声や国民党へ対する本省人の怒りが、1947年2月28日に爆発。台湾全土で民衆が蜂起し、蒋介石はこれを武力により鎮圧しました。これが2.28事件と言われるもので、2万8千人に上る犠牲者が認定されています。

そして、この弾圧によって特に親日の知識階級は徹底して弾圧された為、現在の台湾では80歳以上の学者が極端に少ないそうです。

李登輝前総統は内省人でしたが、国民党に所属し、中から国民党を変えようとしてきました。そして総統に就任後一番最初に行ったことは台湾国民に対する2.28事件に関する謝罪でした。この行動は多くの台湾人に受け入れられ、国民党に対する見方を変えるとともに、李登輝前総統に対する支持を絶大なものにしたのです。

蔡さんはこの李登輝前総統のエピソードを通して、政治家としてのあるべき姿、トップとしての責任を伝えたかったのではないでしょうか。そして押すべきときは押し、引くべき時は引く、時勢を見極める能力も必要だと言う事が言いたかったのだと思います。

今の日本の政治家にその力が備わっているのかとどうか、、。

そして、蔡さんは最後に日本人へのメッセージとしてこのような事を投げかけてくれました。 

「日本の統治を50年間受けたにも関わらず、台湾には親日家が多く、当時の日本人の先生と台湾人の生徒は今も深い交流が続いている。いわば、台湾は世界で一番の親日国家。日本の文化も台湾にしっかりと根付いている。しかし、戦後の日本は中国共産党と国交を樹立し、台湾は日本に見捨てられた。」

「反日で共産国家の中国と国交を結び、親日で民主国家の台湾は日本から国として認められていない。それが私は一番悲しい。多くの台湾人もそう思っています。日本のみなさんにはこの事についてもっと良く考えて欲しい。」

中国で台湾を武力制圧するための「反国家分裂法」が制定され、反日運動が広がる今、そんな蔡さんの問いかけを私たちはどう考えていけば良いのでしょうか。

多くの問題提起と新たな日本・台湾の歴史を知り、もっと両国の関係について勉強し、考えてみたいと思いながら蔡さんに別れを告げ、台湾総統府をあとにしました。

次回は台北の「私立伯大尼育幼院」訪問について報告します。

台湾関連記事 「国民新聞」 より

台湾への旅 「台湾総統府で出会った蔡さん」~その1~

2005年05月07日 | 「台湾への旅」

成田から台湾の台北までは飛行機で3時間。台北の蒋介石国際空港に着いたのは午後6時。市内行きのリムジンバスに乗りホテル近くの台北駅へ。日本で予約をしておいた南国大飯店という宿へチェックインをしました。

この宿の隣はファミリーマートで、売っているものはほとんど日本と同じ、そしてこの地域は補習班と呼ばれる、日本でいう所の塾が多くある場所で、夜遅くになっても多くの中高校生で賑わっていました。日本よりも学歴重視の台湾らしい光景です。

次の日は台湾で流行っている「素食」というベジタブル食専門の定食屋さんで朝食を摂り、一路台湾総統府へ。



台湾総統府は日本統治時代の1919年に台湾総督府として建てられたもので、台湾統治の拠点として使用されたものです。当時としては類を見ない近代的な建物で、総鉄筋作りの5階建て+中央の塔が11階建て、当時は台北市内のどの場所からも塔が見えたそうです。

総統府に近づくとなにやら物々しい警備。この日は陳水扁総統が総統府内で執務にあたっていた為、厳重な警備をしていました。台湾はほとんど英語が通じませんし、私たちは北京語も台湾語も話せません。

入り口でオロオロしていた所、一人の年配の方が「日本人ですか?」と日本語で話しかけて来てくれました。彼は蔡さんと言い、総統府を訪ねる日本人に対してボランティアでカイドをしている方でした。

通常は2階も見学できるそうなのですが、総統が執務中のため今日は1階の展示室のみ。蔡さんの案内にしたがって中に進みます。そこで一番最初に目に入って来たのは歴代の総督と総統の写真でした。もちろん総督は全員日本人で、全部で19人。

児玉源太郎や明石元二郎、乃木希典といった面々が名前を連ねます。総督ではないですが、後藤新平という明治維新の立役者も台湾統治に貢献していました。蔡さんはこの総督がこういう事業をしてくれた、こういう政策をしてくれたと丁寧に説明をしてくれます。台湾統治後すぐに、台湾を近代化する為に建設や保健衛生、農業といったあらゆる分野の専門家延べ3千人が、日本から派遣されたそうです。

総督府の建物についても、1919年当時としては珍しく喫煙室が用意されていたこと、総督府の鉄筋は日本の鉄道のレールを再利用したもので今でも耐震に優れていること。塔にはエレベーターがあったこと等、驚くことばかりを教えてくれました。

その後、歴代総統(総督ではなくて総統です)の蒋介石や蒋経国、李登輝、陳水扁現総統の説明が続きます。日本が台湾から撤退した後、中国大陸で毛沢東率いる共産党に敗北した、蒋介石率いる国民党が台湾にやってきて台湾を統治します。

大陸からやってきた人たちは外省人と呼ばれ、それ以前から台湾に住んでいた人たちは内省人と呼ばれ区別されています。現在、外省人は約15%、内省人は85%を占めています。蒋介石は台湾で国民党・外省人による専制・独裁政治を続け、息子の蒋経国に引き継がれます。そして蒋経国死後、副総統だった李登輝が内省人として初の総統となり、任期終了後これも初となる総統選挙を実施して正式に総統となりました。

蔡さんは熱を入れてこの蒋介石から李登輝に至るまでの歴史を話してくれました。台湾訪問前に台湾の歴史の本や李登輝の「武士道」という本を読んでおいたので、私たちは良く想いが理解できたのですが、一緒に説明を受けていた他の日本人はあまり理解していない様子でした。

話はこの後、現在の日本に対する蔡さんの考え方と、靖国問題に対する見方へと進んで行きます。この続きはまた次回に、、、。



~まめ知識~

*以下、台湾の方が書かれた、日本統治時代に関する事からの抜粋です。

一八九八年(明治三一年)の日本の国家予算が約二億二千万円だったところへ、台湾総督府から台湾開拓・整備予算として全国家予算の1/4以上にあたる六千万円というとてつもない額が要求されている。

日本のこうした統治政策は、世界にその類例を見ない。同じ頃、アジアに植民地を保有していたイギリスやオランダは、植民地を自国の産業発展のための一次産品(工業原料や鉱物資源等)の供給地として位置付け、プランテーション経営や鉱物の採掘のために現地労働力を奴隷のごとく酷使した。

そんな彼らにとって、当地の近代化や地元民への医療対策など考えも及ばなかったであろう。それを証拠に、イギリスなどは、アヘンを持ち込んでまで植民地の富を根こそぎ搾取していたことはあまりにも有名である。

内地の国家予算から膨大な金をつぎ込み、台湾を本国と同等水準に引き上げようとした日本と、植民地から搾取のみを行っていた当時の欧米諸国の違いがよくわかる。


とある、ブログに下記の記事がありましたので、トラックバックさせて頂きました。

韓日歴史共同研究委で意見の食い違い続出 会議録すら存在せず