「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

ある戦艦大和乗組員の生き様

2006年07月26日 | 「Weblog」

~大和に関する追加です。mixiでは載せていたのですが、多くの方に知って頂きたいと思い、ブログにも載せることにしました~


4月29日に戦艦大和の乗組員だった方をお招きして講演会を開くという事を予定していましたが、残念な事にその方は先月中旬に亡くなられました。

講演会に来てくださるのをとても楽しみにして下さっていて、何度も手紙や電話のやりとりをして色々な事を勉強させて頂きました。その方は「男たちの大和」の舞台挨拶もされた方です。そんな気骨のある○○さんの事を少しでもみんなに知ってもらいたいと思い、以下に○○さんの葬儀で娘さんが述べた挨拶を引用したいと思います。

講演会に来てくださるのをとても楽しみにして下さっていて、何度も手紙や電話のやりとりをして色々な事を勉強させて頂きました。その方は「男たちの大和」の舞台挨拶もされた方です。そんな気骨のある○○さんの事を少しでもみんなに知ってもらいたいと思い、以下に○○さんの葬儀で娘さんが述べた挨拶を引用したいと思います。

戦闘経験者が自分の言葉で語れるのはあと数年。歴史の重みを私達も知らなければなりません。

~以下、挨拶文からの引用~

*個人情報に配慮して、個人名は○○とさせて頂きました。また組織名等割愛させて頂いています。

本日は、お忙しいなか、父の葬儀にお越しいただき、ありがとうございました。

父は、途中太平洋戦争による中断はありますが、市教育長を退職するまでの約50年間教職にありました。 その間、多くの生徒さん、同僚の先生方、PTAの親御さんたちと、ともに生きさせていただきました。

この期間のことについて、特にこのごろ、私は父とよく話をしました。太平洋戦争が終わり復員した時は、戦艦大和沈没時に多くの戦友が大和と共に亡くなった中で生き残ったことや、広島の原爆投下の翌日に広島駅の復旧に入った時にみた光景など、戦争の悲惨さに打ちのめされ、故郷に復員しても、「死んで帰ってくるはずであったのに、生きて家に帰ってきていいのか」「自分もみんなと一緒に戦死するべきであったのではないか」という思いとそれまでに持っていた価値観が崩壊したことで殺伐とした気持ちであったといいます。

その中で、昭和20年9月に、小学校に復職し初めて担任した生徒さんに会った時、敗戦でぼろぼろの洋服をきて、食べるものもまともにない時代なのに、子供たちの目は、きらきらと輝いていたそうです。父は、その子供たちの眼に助けられ、この子達に何を伝え、どうしてあげたらいいかを日々考えることで、自分の心が救われたと言っておりました。以来、生き残った命をかけて教育に取り組んだつもり
だとも言っておりました。

さらに、平成14年5月に、妻に先だたれたあと、自分も体調を崩し、病院に通院することになりましたが、そのような中でも、戦争の悲惨さを伝える仕事をライフワークとし、胸水があったり、腹水があったりするなどの、かなり体調が悪い中でも、私の制止をふりきり、愛車で遠方までひとりで出かけていくなどして、映画などでは、まだまだ描ききれなかった戦争の悲惨さを訴えるのが自分の使命だと申しておりました。

自分の子供や孫の世代、もっと若い人たちが、自分と同じような悲惨な戦争に巻き込まれるのを阻止できるのは、体験者だけだといい、来月4月29日には東京武蔵野市で次の講演の予定も入っておりました。

2月上旬から体調を崩し、総合病院で原因を調べながら治療中でした。3月13日は、日頃帰りの遅い私が、珍しくまだ明るい夕方のうちに、父の病室に行き、いつものようにいろんなことを話していましたが、8時ごろ症状急変し、スタッフの方に、ベストを尽くしていただきましたが、23時55分、私の手を握りながら逝ってしまいました。

父の座右の銘に「なさざる罪」という言葉があります。責任のあるもの、するべきことがあるものは、全力でそれをすべきであると、余力というものはないはずであると、余力があるなら、まだ何か自分ができることを探すべきであるという意味だそうですが、その自分の信念をまげず、思い通りに生きて、思い残すことはなかったように思います。

あとは私たちがどう生きるのかを見ているぞと重いバトンを渡された気分です。

厳しい面もある父ではありますが、家族にはやさしい父でした。特に母を助手席に乗せての全国制覇のドライブが大好きでしたので、今は、先に行っている母との4年ぶりの次のドライブの計画を楽しみに立てていることと思います。

本当に多くの方にお世話になりました。父が今までに皆様から受けましたご厚情を感謝いたします。本日は、本当にありがとうございました。

~引用終わり~

私たちに渡されたバトンをどうするかは私たちしだいです。私は年の半分はフィリピンにおり、近くには特攻隊最初の出撃地があり当時を知る方に色々な話を聞いています。大和の話とも通じるものが多くあります。

大和の乗組員の考えていた事は昔の話ではなく、今も多くの戦場の兵士たちが同じような気持ちで戦っていることでしょう。(私の友人もフィリピンの内戦で亡くなっています。) レバノンでも戦闘が激化しています。遠い離れた国の事だとはいえ、私たちも関心を持たなければならないと思います。


男たちの大和 - YAMATO -

2005年12月25日 | 「Weblog」
久しぶりのブログです。忙しくて中々更新ができません。近々ACTIONスタッフのブログとして新たに開設しようと思っています。

さて、今日は映画の紹介です。

映画、「男たちの大和」を見ました。

通常の戦争映画と言えば、とにかく反戦イメージ一辺倒ですがこの映画はそうではありません。見る側にその判断が委ねられています。それまでの自分の生き方、社会や家族に対する考え方で映画の印象が違ってくると思います。

映画のストーリーは実話が元になっていて、戦闘シーンの描写もリアルでした。大和の艦長や第二艦隊司令長官の伊藤中将等、単体でも映画の主人公になりそうな人たちはあくまでもサポート役。

映画のメインは若い士官と下士官。映画を見る人は皆、大和の行く末を知っています。だからそこにはアメリカの戦争映画にあるようなスーパーヒーローはいません。

でも、彼らは現代の日本の礎のために若い命を捧げた英雄ということはこの映画を見て伝わってきました。特に高校生~大学生の世代に見て欲しい映画です。

多く書くとネタバレになるので書けないですが、この映画では戦争の悲惨さ、国を思う心、未来への希望等様々なものが見えてきます。日本の過去を振り返り、今の日本の礎に思いを馳せることは大切な事。

しかし、映画に出てくる若い兵士のように今も国を想い戦っている兵士が世界中にいます。少年兵もしかり。この話は過去のことではありません。現在もおなじ魂を持ったものが存在し、命をかけて戦っているのです。そして、戦争は悲惨です。

この事に思いを馳せなければ、この映画を見た意味が半減してしまう気がしました。

戦後60年。終戦時に20歳だった兵士は80歳になっています。日本の男性の平均年齢で行くと、兵士として戦った人たちはあと10年でほとんど日本からいなくなります。

「戦争体験」と「戦闘体験」は違います。空襲の記憶や、戦時下の生活の記憶を持っている方は65歳ぐらいからいるだろうと思います。しかし、実際に最前線で戦闘を体験した方は確実に減っています。

「戦争体験」を持っている方は、イラクの市民の気持ちがわかると思います。「戦闘体験」を持っている方は自衛隊員やアメリカ兵の気持ちがわかると思います。

しかし、その声は聞こえてきません。大きい声で言える社会状況ではないのかも知れません。今まで、日本はこれらの経験をきちんと次の世代に伝えないで来ました。その経験を風化させてはいけません。

この「男たちの大和」が若い世代が過去のことに興味を持ち、その経験を戦争世代から引き出してくれるきっかけになるかもしれないと思いました。

映画館で、私の前に戦争経験者の男性が座っており、時折涙を流されていました。私たちの世代が見て流す涙とは意味も質も違っているのだろう。それが何なのか。きちんと受け止める必要があると思います。

土曜学校~その5~「明治神宮へ行こう!」

2005年10月24日 | 「土曜学校」

本殿の入口の柱には無数の傷跡が付いています。長さ2センチほどの傷跡です。これは、初詣の時に用意される、巨大な賽銭箱(プールぐらいの大きさ)に向かって投げ込まれるお賽銭が勢い余って柱にぶつかった後だそうです。なので、柱の裏側には傷跡がまったくついていません。傷跡一つ一つに、投げた人の願いが込められている気がしました。

お参りが終わると、お昼ご飯。明治神宮の研修所でお弁当です。初めて知ったのですが、神道では頂きますとご馳走様をする前に1拝1拍をしてから言う台詞があるそうです。研修所の食堂にはそれが貼ってありました。興味深いですね。



お弁当の後には各自小さな鉢植えを受け取り、鉢に絵を描きます。そう、代々木の由来にもなった明治神宮の樫の木から落ちたドングリの実。そこから生えた苗を植えて、家に持ち帰るのです。この日の思い出として、鳥居やドングリ、玉砂利といった絵をそれぞれ描いていました。

今回は「響」の方が特別に許可をとってくれていたのですが、通常は明治神宮の樫の木の苗を外に持ち出すことは出来ませんのであしからず。「響」のみなさん、ありがとうございました。

苗を受け取り、明治神宮訪問は終了です。それぞれ、フィリピンの交流相手にどうやって明治神宮の事を伝えるのでしょうか。楽しみです。

~番外編~

さて、明治天皇と言えば、教育勅語が有名です。西洋化していく日本を憂いながら明治25年に日本人の教育の指針として発表されました。戦中はこれを教育の中心と据えた為、軍国主義教育の象徴として扱われ、戦後は排除されています。

しかし、一体実際の中身はどういうものだったでしょうか。当時の文体では難しいため、現代語に意訳したものを下記に載せますので目を通してみてください。私自身は、どこもおかしくないどころか、今の日本人に欠けているもの全てが書いてあると感じました。

教育勅語意訳

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~

土曜学校~その4~「明治神宮へ行こう!」

2005年10月22日 | 「土曜学校」

以前にお伝えした小学生向けの講座「土曜学校~世界を知る会~」の一環でこどもたちと明治神宮を訪れました。世界の事知るのも大切だけど、世界に発信できる日本の文化を知る事も大切だという主旨。朝8時半、武蔵野市役所に集合しバスにのって明治神宮へと向かいました。

明治神宮。ほとんどの人がその名前を聞いたことはあるでしょう。しかし、詳しいことを知っている人は少ないと思います。明治神宮に祀られているのは?問いに答えられたうちの学生はほとんどいません。神社の名前の通り、祀られているのは明治天皇と昭憲皇太后です。



と言う事は明治天皇の没後作られた神社と言う事であり、設立は大正9年11月1日。神社の歴史としては新しいものなのです。入口を飾る大鳥居は木造のものとしては日本最大で高さは12メートルで檜作り。この木は国産ではなく、当時の台湾総督府から献木されたものです。

今回は明治神宮をボランティアで案内している「響」というNPOの方々がこどもたちを案内してくれました。みなさん、20代前半の若い方でこどもとも和気あいあいと神宮内を案内してくれました。

神社の大鳥居をくぐると、丸い砂利が敷き詰めた参道があります。これは「玉砂利」といい、歩きながら足の裏をこすり付ける事によって、本殿に到着するまでに体や心の悪いものを綺麗にすると言われています。

明治神宮は代々木という場所にあります。この地は昔から代々木と呼ばれており、代々樫の木が生えていた事から代々木という地名が付いたそうです。樫の木からはドングリの実が落ち、その実から芽が出てまた木になる。代々、木が続いていくという意味でもあるそうです。

明治神宮の中には御苑があり、そこにはお茶室があります。こどもたちはそこでお茶を頂くのですが、お茶の先生の凛とした厳しさに、いつになく真剣な表情。お茶とお菓子を頂いたあと、二人一組になってお茶を点てる役と客人役に別れて体験をします。

頂きますやどうぞと言った言葉を言う時にお辞儀をするのですが、その仕方がみんなぎこちなく、それでも一生懸命している姿がとても微笑ましい光景でした。御苑を一回りした後、お参りをしました。

2礼2拍1礼が神道式のお参りです。神官の方から作法を教わって、各自神妙な面持ちでお参りをしていました。中には結構長い時間お祈りをしていたこもいました。一体、どんな事をお願いしていたのでしょうか。

~番外編~

10月は神無月と呼ばれます。神がいない月ですね。それはなぜかというと、八百万の神全てが、神道の大元である天照大御神のところ、出雲大社に集うからだそうです。よって、出雲大社では神無月ではなく神在月と呼ばれるそうです。

一つ便利になると、人が出会う場所が一つ減る

2005年10月20日 | 「Weblog」

ブログを始めてから3ヶ月間は順調だったものの、2ヶ月間のフィリピン出張を機に3ヶ月もの間更新が止まってしまいました。これからは少しずつですが普段感じた事などを書き留めて行きたいと思います。

事務所で仕事をしていると、色々な方からメールが来ます。同じ国際協力業界の方が多いのですが、学校の先生、行政職員の方、フィリピンの友人。この時期に多いのは2月・3月に予定されているワークキャンプに対する資料請求や問い合わせ。最近はこんなメールを目にします。

「資料欲しいんですけど。」

これだけ。名前も何も書いていません。団体の資料かワークキャンプの資料かも分かりません。ここまで酷くなくても「資料欲しいです!どうすればいいですか(^_^)」っていうのは良くあります。思わず、「俺は友達かい!」と突っ込みを入れたくなるものばかり。書いている本人は何も考えてないと思うのですが。

最初の頃は、きちんとお名前を書いてくださいとか返信していたんですがそのうち面倒くさくなってしまっていまは特にリアクションを起こしていません。名前を書くとか、1行ではなく挨拶を書くという最低限の事ができないのかを考えてみました。

上にあるようなメールを分析してみると、いくつかの共通点がありました。

1.携帯電話のメールアドレス
2.表示名がニックネーム
3.件名が書いていない
4.言葉使いが友達調

なんか、最近良くある迷惑メールみたいです。

携帯電話には友達の名前がお互いに登録してあるので、名前を名乗らなくても相手には自分の名前が表示されます。件名を入力する事も稀ですね。それによって1~3は説明できると思いますが、4はどうでしょうか。

若年層の携帯電話の普及。これに尽きると思っています。

良く思い出してみてください。私は今29歳です。携帯電話を初めて持ったのは20歳の時。それでも早いほうでした。それまでは家の電話です。例えば、小学校や中学校の時。好きな子や彼女がいたとして、連絡を取りたい時には家に電話するしかありません。そうすると電話に出るのは、怖いお父さんや愛想の悪いお兄さん、優しいお姉さん。彼女が出るとは限りません。

誰が出ても良い様に、失礼な言葉使いをして家族に嫌われない為に、思いつく最高の敬語・丁寧語を頭に入れてから電話します。これってめちゃくちゃ緊張しますよね。でも今は直接携帯に電話すればそれでおしまい。

こんな経験が今の中学生~大学生にはあまりないのではないでしょうか。電話で緊張して丁寧語・敬語を使う。これって社会の縦関係を知るためにもとっても重要だった気がします。

一つ便利になると、人間が触れ合う場所が一つ減る。これが私の持論ですが、それを再確認した出来事でした。

1996年に大学広報誌に連載していた紀行文を発見!~その2~

2005年07月21日 | 「Weblog」

ケニヤの次はルワンダ編でした。これらの詳細はブログでそのうち写真と共に書きたいと思います。

5月上旬にケニアを出発しルワンダへと向かった。目的はルワンダ大学の空手部を訪ねること、内戦についての調査、そして孤児院の訪問である。

ルワンダはビクトリア湖を挟んでケニアと隣国で、飛行機で1時間と意外に近い。ベルギーの植民地だったので、公用語はフランス語。飛行機からみるルワンダは「アフリカのスイス」と言われるように山と緑の多い国で、この国で大虐殺が起こったとはとても信じられない。

首都のキガリには現在も多くの国連の車が走っていて、町には日本人どころかアジア系の人はほとんどいない。

最初の目的地であるルワンダ大学はブルンジとの国境の町ブタレにある。町の人々は、とても明るく陽気だが、町のいたるところに内戦の傷跡がある。町の街灯は壊れたままで、夜はとても暗い。

やっと大学にたどり着いたが、銃を持った守衛が、いくら説明しても言葉が通じず、中にいれてくれない。途方に暮れていたところ、偶然にも空手部の人が通りかかり、彼に通訳してもらいようやく中に入る事ができた。
 
その人の名はシンジー、空手部の師範であった。彼が学長と交渉してくれて、滞在費は大学側が持ってくれることとなり、そしてその日から空手部での練習が始まった。空手部の部員達は、毎晩のように私の部屋に来て、いろいろなことを話してくれた。

最初は空手などの話が主だったが、日がたつにつれて内戦のことも話してくれた。話によると、この大学には当時4000人の学生がいたのだが、内戦で他部族の学生同士が戦い、およそ600人が亡くなったとのこと。

またシンジーには当時奥さんと1歳になる子どもがいたが虐殺で亡くなった。中には家族18人の内15人が虐殺された人もいたそうだ。

この話を聞いて、確かに驚きと悲しみはあったが、正直なところ、一体それがどういうことであるのか理解できなかった。日本で生まれ育った私には同じ大学内で殺し合うということが想像できなかったのである。

それとともに彼らの体験したことをただ言葉でしか理解できない自分が、すごく腹立たしかった。私にできることは、同じ地球上でそのようなこと、そして今も苦しんでいるということをきちんと認識し、できるだけ多くの人に伝えることだと思った。

現在、大学の正門には学生たちの共同墓地があり、毎日絶えず花が置かれている。

大学には2週間滞在した。大学が長期休暇に入るので、シンジーやその仲間たちとルワンダを回った。ルワンダ軍将校の家に滞在したときは内戦当時の貴重な映像を見せてもらい、そのすさまじさを今度は目であらためて感じた。

今、ルワンダの人々は新しい国を作ろうと部族の壁を超えて手を取り合っている。人々はルワンダの未来を笑顔で語ってくれた。

内戦後、孤児がたくさん生まれ、多くの学校が孤児院へと変わった。これらの子どもたちが、これからこの国がどう変わるかを見て生きていくのだろう。

1ヶ月のルワンダ滞在で、ここには書ききれないほどのことを学んだ。この体験がこれからの私の人生に大きな影響を与えると思う。最後に、ルワンダの人々そして出会った仲間たちに、平和が訪れるように祈りつつ筆を置く。

1996年に大学広報誌に連載していた紀行文を発見!~その1~

2005年07月19日 | 「Weblog」

最近、仕事が忙しくてブログの更新が出来ません。なんかネタにならないかなーと探していたら、休学中に大学の広報誌に連載をしていたアフリカ紀行を見つけました。

文章が今よりもシンプルに書かれていて、若さを感じます。確か、1996年に書いたものです。今こうして読んでみると、その時の記憶が甦ってきます。


昨年の3月中旬にケニアへ向かった。ケニアは熱いというイメージが強かったが、首都であるナイロビは高度3,000メートルに位置する都市で、セーターが必要なほど冷えこんでいたのには驚いた。空港から市内へ向かう風景は、広大なサバンナや活気ある人々が目に入ってきて、子どものころ写真で見たアフリカそのものだった。
   
ケニアを訪れた目的は孤児院を訪ねること。日本で入手した情報を基に孤児院を探した。私が向かった孤児院は、ナイロビからバスで40分ほど行ったソエトという電気も水道もないスラム地区にあった。ここでおよそ2万人が生活をしていた。

孤児院の名前はBETHLEHEM(ベツレヘム)。もともとは学校だったが、親の離婚や虐待などで、家に帰らない子どもが出てきた。そのため近所の家を借り、子どもたちをそこに住まわせたことから孤児院が始まったそうだ。現在この学校には(小、中、高合わせて)500人の子どもが学んでおり、そのうち130人が孤児院の子どもである。

孤児院と連絡が取れたとき、院長のメリー氏は「孤児院で何をしてくれるのか?」と言った。ケニアでは孤児院に対する政府からの援助はなく、ほとんどの孤児院は寄付(主に外国から)によって運営されている。したがって食事などに余裕がないため、飛び込みでスタッフになることは難しい。

体力に自信があること、大学の全沖縄拳法空手道部に所属しているので空手を教えられることを話すと、メリー氏は「ケニアでは空手の人気は非常に高く、子どもたちの良い経験になる」と快く受け入れてくれた。

簡単な作業や空手教室をしながら、5月上旬までの1ヶ月半ほど滞在した。途中、体調を崩したり、電気・水道がないので多少不便さを感じたが、いつも子どもたちに励まされた。

子どもはどこの国でも同じだと思う。本当に人なつこくて笑顔がきれいだ。そして、歌が大好きで、子どもたちは毎日いろいろなケニアの歌を聞かせてくれた。夜は教会での礼拝があるが、その前にダンスの時間があり、ノリのいい歌と手拍子に合わせて元気いっぱいに踊っていた。

そんな子どもたちが孤児院に来る理由はさまざまだ。大半の子どもは両親がおらずストリートチルドレンとして生活をしていた。残りは片親などの経済的な理由である。ストリート出身である彼らは、タバコやシンナーの癖が抜けなくて、先生にたびたび罰を受けている子どももいた。

孤児院に来る理由は国によっても異なり、フィリピンでは経済的な理由が8割を占め、ルワンダでは内戦孤児が多くを占めている。これは、ある意味で孤児院がその国の一面を反映していると思う。

ケニア全体を見ると貧困やAIDS、犯罪率の高さなどさまざまな問題が残っている。日本に生活していると、これらの事はあまり感じないが、現実として彼らに接してみると、生きていく事のたいへんさ、またその中で精一杯生きる事のたいせつさを感じさせられた。

社会化見学「靖国神社へ行こう!」~その13~

2005年07月13日 | 「靖国神社へ行こう!」

最後に、特攻隊員だった植村大尉の遺書をここで紹介し、終わりにします。戦争を肯定するわけではなく、自分のこどもと妻の為に戦う。故郷という「クニ」のために戦うというのがどういう事なのかを考えさせられます。そして今も同じ気持ちで戦っている兵士が世界中の内戦・紛争地にいるのでしょう。

「愛児へ」

素子、素子は私の顔を見てよく笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたことも ありました。素子が大きくなつて私のことが知りたいときは、お前のお母さん、佳代叔母様に私の事を よくお聴きなさい。

私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになつて、仕合わせになつたのを見届けたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまま死んでしまつても、決して悲しんではなりません。

お前が大きくなつて、父に会ひたい時は九段へいらつしゃい。そして心に深く念ずれば、必ず お父様の顔がお前の心の中に浮かびますよ。父はお前は幸福者と思ひます。生まれながらにして父に 生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会つている様な気がするとよく申 されていた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 ご自身の生涯をかけて只々素子の幸福のみを念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことが あつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人 に可愛がられる人になつて下さい。

お前が大きくなつて私の事を考へ始めたときに、この手紙を読んで貰ひなさい。

追伸、素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして おります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて あげます。



植村眞久
神風特別攻撃隊大和隊 昭和19年10月26日 比島海域にて出撃、戦死
東京都出身 立教大学卒 25歳


社会化見学「靖国神社へ行こう!」~その12~

2005年07月12日 | 「靖国神社へ行こう!」

以上、4つの感想を紹介しました。参加した人は他にもぜひぜひ感想を送って下さいね。さて、今回の参加者の学生には

「今回の経験を踏まえて、ぜひみんなの周りに靖国神社に行ってみることを勧めて下さい。その時に、靖国は良いとか悪いとか言わずに(先入観を持たせずに)自分の目で見て考える事を勧めて下さい。」

「この議論はあと5年後、10年後も恐らく続いていくと思います。その時にしっかりと自分の考えで議論出来る日本人が増えていないと、同じ事の繰り返しだと思います。」

と結びました。

私自身の意見としては、靖国神社は日本のために戦った軍人・軍属の慰霊施設であり、そこに疑問の余地はありません。この事から、民間人が祀ってないとか、日本人だけなのはおかしいという意見には賛成できません。もともと、そのような主旨で設立されたものではないと思うからです。

逆に、軍人・軍属を祀る施設である以上、遊就館という博物館が軍人から見た歴史の視点の展示になることは容易に想像がつきます。恐らく、このあたりがあまり理解されていないのではないでしょうか。

もともと、戊辰戦争の頃から、軍人・軍属の慰霊を目的にしています。日本の戦没者に祈りを捧げる場合、それは様々な場所があると思います。広島原爆犠牲者の方の慰霊には「広島平和都市記念慰霊碑」へ、長崎原爆犠牲者の方の慰霊には「平和公園祈念像」へ。無名戦士のへの祈りは「千鳥が淵千鳥ケ淵戦没者墓苑」へ。

それぞれ、慰霊対象・目的を別にした施設があります。民間人戦没者(空襲などの被害者も含む)を慰霊する慰霊碑は地域ごとにはありますが、統合した形の特別な施設はありませんので、これは考える必要があると思います。

これらの事を考えると、やはり軍人・軍属を慰霊するためには靖国神社へ行くのが妥当ではないかと思えます。もちろん、祀られていない軍人の方の慰霊は千鳥が淵だと思います。今後、民間人戦没者を国立で作ることはあっても、やはり軍人・軍属の慰霊は靖国神社となる気がします。

靖国神社を語る時に、まず、軍人・軍属を祀り、慰霊するための神社だと言う認識を広げないと、議論が進まないのではないでしょうか。これが今回のツアーで学んだ事でした。

今回はあえて小泉さんの参拝是非や中国や韓国の抗議について私は触れません。みなさんもご自身で考えて見て下さい。

この靖国ツアーは毎年続けていきたいと思います。毎年行く靖国神社は同じでも、靖国を取り巻く状況は毎年変わっていく事でしょう。その中で私自身も靖国神社の意味を考えて行きたいと思います。

社会化見学「靖国神社へ行こう!」~その11~

2005年07月11日 | 「靖国神社へ行こう!」

3)大学生・男性の感想

「・・・あるところに、あまり裕福ではない村がありました。村びとたちは自分たちの土地の中でお互いに助け合い、また時には対立をすることもありましたがおおよそ平和で不自由のない暮らしをしていました。

しかし、そんな村の暮らしを脅かす王国が次々と勢力を伸ばし、周辺にあった村を滅ぼしその魔の手は村のすぐそこまで迫ってきました。

村長は、「このままでは、わが村もすぐに滅ぼされてしまう。われわれの存続のために、何もしないわけにはいかない」と考え、村びとの数名に王国へ行って、戦いに勝つための技術、すなわち人を殺すための技術を会得してくるように命じました。

見よう見まねで体得した技術に磨きをかけるためには、ものをつくるための人手・資源などたくさんのものが必要でした。そこでついに村人たちは周辺の村を襲い始めます。見事に村の土地を広げ、ついに王国と張り合うほどの力を手に入れました。

力を握った村人たちはやがて、自分たちの力を過信し王国をも手に入れようとたくらみ始めます。しかし、あくまで技術の先端は王国が抑えていました。村人たちはたちまち、戦いに敗れてしまったのです。

この村にはもちろんいろんな世代の人がいました。お年寄りもおじさんも。また、言葉すらまだまともに話せないような小さな子供も。やがて時が経ち、小さかった子供たちも大人になって村を支えるようになりました。・・・」

こんな話を考えました。この村は明治維新からの日本をあらわし、子供たちは現代の我々を意味しています。軍国主義に走り、周辺諸国を侵略し富国強兵を行わなければ日本はその存続さえ危ぶまれていた。

明治から終戦までを生きた大人たちは必死になって、国を繁栄させ子孫へと渡そうとした。その一方で周辺諸国には言葉では言い表せないほどの怒りと苦痛を与えてしまった。それは深く責任を感じて、謝罪すべきことである。

しかしながら、われわれがすくすくと育ってこれたのは侵略した国々から奪った富のおかげだけではない。そこには国家、国民のために罪を犯した上の世代の血のにじむような努力があった。

もし、あの村の子供たちが過去を忘れ、ただただ自分たちの私利私欲の事ばかり考え、親の世代の人々にも、犠牲となった他の村の人々にも感謝せずにいたらどうだろう・・・。

きっと、これが今の私でありまた、多くの日本人に当てはまるのではないかと感じました。世論では極端な意見になりやすい。「軍人を神としてあがめる」 = 「戦争を美化する」といった具合に。

私は、“戦死した軍人に対する感謝の気持ち”と“侵略したことへの謝罪”の両方が多くの日本人に不足している気がする。この気持ちを自分の中でなんらかのアクションへとつなげていくつもりです。このたびは貴重な機会を与えていただき、どうもありがとうございました。

4)大学生・女性の感想

ニュースや新聞で靖国神社の話が多く取り上げられ、私もその問題について考えて知っているつもりだった。でも、はじめ氏の「行ったことありますか?」の質問に少しドッキリした。そのとき初めて行ったこともないのに、思い込みや世論に影響された意見を持っていただけなのかも知れないということに気づいた。

境内に足を踏み入れたとき、人がたくさんいることに驚いた。神聖なとこだと思っていたが、にぎわっていて開かれたところだと思った。それに施設が充実していて、お金持ってるな、とも思った。でもそれだけ、人が訪れていて、興味を持っているということだと思った。

私が戦没者が祀られているいるというのは、慰霊碑があるだけかと思っていたけど、戦没者が神様として祀られているということに驚いた。日本人は自然などを何でも神様として拝んでいるので、そこまで違和感を感じないが、他の文化や価値観を持つ人からみれば、あまりいい気持ちがしないというのも、わかる気がした。

また、軍人ばかりが祀られているのも、なんか変な気がした。小泉首相が東京裁判の違法性を訴えるのではなく、戦没者への「慰霊」を目的とするならば、一般戦没者の祭られていない靖国神社だけを参拝するのはやはりおかしいと思う。

私たち一般人が自国の歴史を認識するために靖国神社を参拝する(行ってみる)のはもっともっとするべきだと思う。