「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

台湾への旅 「鄭成功と日本人」

2005年05月21日 | 「台湾への旅」

さて、「八田與一から学ぶ」でお伝えした鳥頭山ダムを後にし、台南で一日を過ごしました。台南は日本で言うところの京都。台湾で最も古い町として知られています。台湾最古の孔子廟があるのも台南です。そしてここには道教の神として鄭成功という台湾の英雄と言われている方が祭られてもいます。今回は、その鄭成功についての話です。

鄭成功。この名前を知っている日本人は少ないでしょう。近松門左衛門の人形浄瑠璃『国姓爺合戦』なら聞いたことがある方もいるかもしれません。江戸時代に上演(1715年)されたこの浄瑠璃は17ヶ月連続上演という記録を作っています。そう、鄭成功とはこの浄瑠璃のモデルとなった人物です。

1644年、明朝が滅亡し女真族の清王朝が中国に誕生しました。鄭成功は明王朝の武将で、明の復権を目指して清と戦いを続けましたが敗退。1661年に台湾を「反清復明」の拠点として攻め、当時台湾を占領していたオランダを敗退させます。(*下の写真はオランダが拠点を置いていた紅毛城でのちに鄭成功が拠点とした。銅像は鄭成功に降伏するオランダ人)



鄭成功は台湾を占領したのち台南を首都として開拓を始めます。台南はその後も1885年までの224年間台湾の首都として政治・文化の中心となって行きます。しかし、鄭成功は台湾に渡った年の1661年に病に倒れ明復興の夢を見ながら、38歳の生涯を終えます。

鄭成功死後、オランダ人を駆逐し、孤立した状況下であくまでも明に忠誠を誓った鄭成功の功績及び精神に敬意を表すために廟を建立して鄭成功を祀り、この廟を「開山王廟」と名づけたそうです。下の写真は鄭成功像と開山王廟です。



その後、息子の鄭経がその後を継ぎます。鄭経は学校の設置や孔子廟の設置をはじめ政府の健全化を行います。これが台南の首都としての基盤を作ることになりました。台湾の京都といわれる所以です。

しかし、1681年に鄭経が死去し、その子が後を継ぎますが、幼少だったため政府は家臣達の思うままになり、1683年に家臣が清を手引きして台湾に攻め込ませ、20年の鄭政権は幕を閉じるのです。

その鄭成功。実は生まれは長崎県の平戸。父親は大海賊として名を馳せた鄭芝龍。母親は田川マツ。鄭成功の幼名は田川福松。父の鄭芝龍はその後、明朝に忠誠を近い福松が7歳のときに家族で大陸に渡り、明の武将として活躍するのです。

鄭成功の台湾への出兵は歴史上の大きな出来事で、鄭成功はアジアを白人の植民地から開放した最初の人だったという視点もあります。しかし、親子2世代に渡って大陸反攻を夢見たため、軍事政権として重い税を住民に課し、大きな抵抗を生んでいます。また、台湾に住んでいた人にとってはオランダと同じく外来政権だったことには違いありません。

そして、鄭成功も台湾を大陸反攻の拠点とする目的がなければ台湾にはやって来なかったでしょう。鄭成功と同じく「大陸反攻」を夢想した蒋介石が台湾を統治したのは歴史の皮肉ではないでしょうか。蒋介石は鄭成功と自分を重ね合わせ、より鄭成功の神格化を目指したと言われています。

鄭政権を滅ぼしたのは家臣が大陸の清王朝と結託をして、清軍を台湾に手引きしたからでした。そして今、台湾の最大野党である国民党の連戦党首が中国を訪問し、他の野党の党首も中国を訪問しています。台湾は大きく揺れ動いています。台湾にいる間もテレビのニュースではこの話題で持ちきりでした。

歴史は繰り返すと言いますが、繰り返さないためにどうすれば良いのか。これから台湾の国民と政治の真価が問われるのではないでしょうか。