「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

台湾への旅 「台中の育幼院で出会った陳さん」~その2~

2005年05月12日 | 「台湾への旅」

さて、陳さんが体験した日本統治時代はどのようなものだったのでしょうか。

「私が住んでいたのは台中港の近くだったから、港の建設や関係者の日本人が沢山住んでいました。日本人と台湾人は同じ学校には行けず、別々の学校に行っていました。それは少しおかしいと思いました。」

「でも、学校には沢山の日本人の先生がいました。私の兄は4歳年上なのですが、日本人の先生ととても仲が良かったのを覚えています。戦後、日本と台湾が20年以上分断されました。20年もたてば私たちも30才以上になっています。みんなそれぞれ頑張って働いて、それなりの地位につくようになりました。」

「ようやく戒厳令が解除され、日本と行き来が出来るようになると、私の兄を含めて沢山の生徒が日本へ日本人の先生を慕って会いに行きました。そして、先生たちを台湾に連れてきて当時を懐かしがっていたのを覚えています。」

「日本の植民地でしたが、先生に対する尊敬や感謝の気持ちはとてもありました。」

陳さんはこうして、その時の事を話してくれました。総統府の蔡さんがマクロ的な視点で日本との関係を話してくれたのに対し、陳さんは個人や兄の体験というミクロの視点から日本時代の事を話してくれたのがとても印象的でした。



決して、統治者である日本を賛美しているのではなく、あくまでも自分の先生という立場で日本人を語る。これって実は色々な国が友好を深めるのにとっても大切なことだと思います。日本は、中国は、韓国はではなく一人称で話ができる。もちろんその為には、相手の事を良くしっていなくてはいけませんし、知ろうとしなくてはならないと思います。

そんな基本的なことを改めて学ぶことができました。

そして「実は私は明日日本に行きます。」と、陳さんの唐突な一言。なんと、陳さんの娘さんはご主人が日本で仕事をしているため、現在埼玉県に住んでいるそうです。ご主人は台湾の方。孫がいるので早く会いたいと目をほころばせていました。そして、日本へ発つ前日にも関わらず私たちを案内してくれた事をとても嬉しく思いました。

案内をしてくれた陳さんや、とっても若くて素敵なソーシャルワーカーの方、そしてつかの間ではあったけれどでも、無邪気に接してくれたこどもたちに別れを告げようとした所、私たちは台湾元をほとんど持っていない事に気が付きました。陳さんに聞いたところ、今日は土曜で銀行は休み。もちろん明日も休みとのこと。

困った私たちは明日日本に行く陳さんに、日本円と台湾元を交換して貰おうと思いました。その旨を陳さんに説明すると、陳さんはおもむろに財布から2,000元を取り出し「これはあなたの団体へ寄付だから、とりあえずこれを使っておいて、銀行が開いたら両替してください。」と言ってくれたのです。

2,000元と言えば日本円で6,600円。物価が日本の3分の一程度の台湾では大金です。もちろん、最初は遠慮しましたが、陳さんの「あなたみたいに頑張っている日本の若者がいて嬉しいし、フィリピンのこどもたちの為にも使って下さい。」との言葉に、ありがたく頂くことにしました。

こういう方がいるので、私がしているような活動が続けていけるのだと強く思いましたし、それが陳さんだったのでとっても嬉しく思いました。あの時にお金を受け取った感触を忘れる事はないと思います。そんな陳さんは今頃、日本で孫とのんびりお風呂に入っているのでしょうか。



次回は台北から台南へ。総統府の蔡さんが先生と呼んでいた「八田興一」さんを取り上げたいと思います。

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