「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

ある戦艦大和乗組員の生き様

2006年07月26日 | 「Weblog」

~大和に関する追加です。mixiでは載せていたのですが、多くの方に知って頂きたいと思い、ブログにも載せることにしました~


4月29日に戦艦大和の乗組員だった方をお招きして講演会を開くという事を予定していましたが、残念な事にその方は先月中旬に亡くなられました。

講演会に来てくださるのをとても楽しみにして下さっていて、何度も手紙や電話のやりとりをして色々な事を勉強させて頂きました。その方は「男たちの大和」の舞台挨拶もされた方です。そんな気骨のある○○さんの事を少しでもみんなに知ってもらいたいと思い、以下に○○さんの葬儀で娘さんが述べた挨拶を引用したいと思います。

講演会に来てくださるのをとても楽しみにして下さっていて、何度も手紙や電話のやりとりをして色々な事を勉強させて頂きました。その方は「男たちの大和」の舞台挨拶もされた方です。そんな気骨のある○○さんの事を少しでもみんなに知ってもらいたいと思い、以下に○○さんの葬儀で娘さんが述べた挨拶を引用したいと思います。

戦闘経験者が自分の言葉で語れるのはあと数年。歴史の重みを私達も知らなければなりません。

~以下、挨拶文からの引用~

*個人情報に配慮して、個人名は○○とさせて頂きました。また組織名等割愛させて頂いています。

本日は、お忙しいなか、父の葬儀にお越しいただき、ありがとうございました。

父は、途中太平洋戦争による中断はありますが、市教育長を退職するまでの約50年間教職にありました。 その間、多くの生徒さん、同僚の先生方、PTAの親御さんたちと、ともに生きさせていただきました。

この期間のことについて、特にこのごろ、私は父とよく話をしました。太平洋戦争が終わり復員した時は、戦艦大和沈没時に多くの戦友が大和と共に亡くなった中で生き残ったことや、広島の原爆投下の翌日に広島駅の復旧に入った時にみた光景など、戦争の悲惨さに打ちのめされ、故郷に復員しても、「死んで帰ってくるはずであったのに、生きて家に帰ってきていいのか」「自分もみんなと一緒に戦死するべきであったのではないか」という思いとそれまでに持っていた価値観が崩壊したことで殺伐とした気持ちであったといいます。

その中で、昭和20年9月に、小学校に復職し初めて担任した生徒さんに会った時、敗戦でぼろぼろの洋服をきて、食べるものもまともにない時代なのに、子供たちの目は、きらきらと輝いていたそうです。父は、その子供たちの眼に助けられ、この子達に何を伝え、どうしてあげたらいいかを日々考えることで、自分の心が救われたと言っておりました。以来、生き残った命をかけて教育に取り組んだつもり
だとも言っておりました。

さらに、平成14年5月に、妻に先だたれたあと、自分も体調を崩し、病院に通院することになりましたが、そのような中でも、戦争の悲惨さを伝える仕事をライフワークとし、胸水があったり、腹水があったりするなどの、かなり体調が悪い中でも、私の制止をふりきり、愛車で遠方までひとりで出かけていくなどして、映画などでは、まだまだ描ききれなかった戦争の悲惨さを訴えるのが自分の使命だと申しておりました。

自分の子供や孫の世代、もっと若い人たちが、自分と同じような悲惨な戦争に巻き込まれるのを阻止できるのは、体験者だけだといい、来月4月29日には東京武蔵野市で次の講演の予定も入っておりました。

2月上旬から体調を崩し、総合病院で原因を調べながら治療中でした。3月13日は、日頃帰りの遅い私が、珍しくまだ明るい夕方のうちに、父の病室に行き、いつものようにいろんなことを話していましたが、8時ごろ症状急変し、スタッフの方に、ベストを尽くしていただきましたが、23時55分、私の手を握りながら逝ってしまいました。

父の座右の銘に「なさざる罪」という言葉があります。責任のあるもの、するべきことがあるものは、全力でそれをすべきであると、余力というものはないはずであると、余力があるなら、まだ何か自分ができることを探すべきであるという意味だそうですが、その自分の信念をまげず、思い通りに生きて、思い残すことはなかったように思います。

あとは私たちがどう生きるのかを見ているぞと重いバトンを渡された気分です。

厳しい面もある父ではありますが、家族にはやさしい父でした。特に母を助手席に乗せての全国制覇のドライブが大好きでしたので、今は、先に行っている母との4年ぶりの次のドライブの計画を楽しみに立てていることと思います。

本当に多くの方にお世話になりました。父が今までに皆様から受けましたご厚情を感謝いたします。本日は、本当にありがとうございました。

~引用終わり~

私たちに渡されたバトンをどうするかは私たちしだいです。私は年の半分はフィリピンにおり、近くには特攻隊最初の出撃地があり当時を知る方に色々な話を聞いています。大和の話とも通じるものが多くあります。

大和の乗組員の考えていた事は昔の話ではなく、今も多くの戦場の兵士たちが同じような気持ちで戦っていることでしょう。(私の友人もフィリピンの内戦で亡くなっています。) レバノンでも戦闘が激化しています。遠い離れた国の事だとはいえ、私たちも関心を持たなければならないと思います。