「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

「押忍の心」~その3~

2005年05月31日 | 「武道の旅」

さて、話を青少年トーナメントに戻します。今大会のひとつの見所は、フィリピン支部のヘッドインストラクターを務めるビクター先生の息子ケビンとオロンガポ道場のイーグルの試合です。階級は11歳~12際の部。今までになんどか対戦していますが、いつも惜しい所でケビンに軍杯が上がっていました。

今回は最初からイーグルが押して行きます。しかし、決着はつかずに延長戦へ。手技のイーグル対足技のケビン。延長戦はイーグルがやや優勢ですが、引き分け。再延長戦へ。再延長戦になると、歓声も大きくなります。そして、ついに突きで攻め続けたイーグルの判定勝ち!番狂わせに観客は盛り上がります。

やはり、今回は勝ちたいという強い気持ちがイーグルを勝利に導いたのでしょう。そんな12歳のフィリピンのこがいる事をとても嬉しく思い、感動しました。自分が普段教えているこなのでなお更です。

オロンガポ道場から出場した女の子二人も大会ベストバウトに入るほどの戦いを見せ、アイザは惜しくも2位でしたが、準決勝、決勝とフルラウンド戦い抜き、特に決勝は体重判定でも差がつかず、再々延長を行うなど大会で一番盛り上がった試合になりました。

オロンガポ道場はイーグル準優勝(11歳~12歳の部)、レイア3位(13歳~14歳女子の部)、アイザ準優勝(15歳~16歳女子の部)と大会技能賞を受けました。出場者全員が入賞をし、オロンガポ道場にとっては良い結果となりました。アイザはお父さんお母さんそろって応援に来ていたので良いプレゼントになったでしょう。



勝っても負けても、大会が終わった後は同じ道場の仲間としてそれぞれ交流を深めていました。短気で負けず嫌いでしかもだめだとわかったら途中で投げ出してしまうフィリピン人達を多く見て来ましたが、この大会ではどんなに不利な状況でも決して投げ出すことなく最後までみんな戦っていました。



スティーブン支部長やビクター先生、エルシルをはじえとした人たちの空手に懸ける思いが実り始めているのでしょう。そんな一翼のお手伝いが少しはできれば嬉しいと思っています。未来の空手界を担うこどもたち、むしろ未来のフィリピンを担うこどもたちがこの活動を通して増えていけばよいなぁと大会の度に思っています。

さて、今回のタイトルでもある「押忍」。この言葉は空手や柔道を始めとした武道では良く使われています。しかし、実際の意味を知っている方はあまりいないかもしれません。「押忍」という言葉で連想されるのは、忍耐という言葉でしょう。厳しい練習を「押忍」の心で耐える。苦しいときでも「押忍」があれば大丈夫等。

もちろん、そういった意味もありますが、他にどのような意味があるのか。それは「押忍」という漢字を見ていただければわかります。

「忍」という漢字は「刃」と「心」から出来ています。人は誰しも心の中に刃の部分を持っています。心の上に刃があり、それが出てこないように「押」のです。人間が本来持っている凶暴な部分が出てこないように精神的な強さを身につけ、常に感情を冷静に保ち、コントロールをする。これこそが、「押忍」という意味なのです。

これって、空手に関係なく今の日本のこどもたちにも必要なのではないでしょうか。押忍!

「押忍の心」~その2~

2005年05月30日 | 「武道の旅」

フィリピンでは以前、フルコンタクトの空手道場がいくつかありましたが、トーナメントを開催して、人前でノックアウトされた場合、大会後に待ち伏せして襲撃するという事件があったそうです。人前で罵倒されたり、怒られたりするのをもっとも恥とするフィリピンの文化にはあまりそぐわなかったのかも知れません。

もちろん、空手で大切な武道の心や押忍の心もちゃんと伝わっていなかった面もあります。黒帯を取った途端に独立し、自分でどんどん段を上げていく先生にも多く会った事があります。20代後半で6段というのも珍しくありませんでしたし、先生が空手の本とブルースリーという人にも会った事があります。

そんな人たちがきちんと道場を構えて人に教えていたのだから驚きでした。7年前にシンガーポール人のスティーブン支部長がマニラのサンフアン市で極真空手の道場を開き、徐々に活動を広げて行きます。大会には多くの流派が集まり、上記にある先生たちも参加をします。



私がスティーブン支部長に会ったのは1999年、世界大会が東京で行われた時です。当時、ルーマニアでACTIONのプロジェクトをしていた関係から、ルーマニア支部と交流があり、夏季合宿等に参加をしていました。

そして、世界大会に出場するルーマニア選手がうちに泊まっていたため、受付会場のホテルへ連れて行ったところ、フィリピン選手団に出会ったのでした。その後、5年たって再開する事になるのですがその話はまたそのうち。

フルコンタクトの試合は、彼らが今まで行ってきた寸止めの空手ではないので、たとえ黒帯と言えども、極真空手の初心者や中級者にも負けてしまいます。それを見た観客たちは、帯の色ではなく、最後に立っていたものが強いのだと理解をし、自分もやってみたい!となるそうです。

こうして、現在はマニラに5つ、地方に7つの道場を持つまでに成長したのです。

さて、次回はトーナメントの続きです。

「押忍の心」~その1~

2005年05月29日 | 「武道の旅」

5月29日にマニラで極真会館フィリピン支部主催「第5回青少年トーナメント」が開催されました。



フィリピンに詳しい人の中には、フィリピン人と極真空手にピンと来ない方も多いかもしれません。極真空手は顔こそ殴らないものの、素手素足で相手と戦うとてもハードな武道です。

多くのフィリピン人は痛いことを嫌がりますし、空手はボクシングと違って、アマチュアのため、世界チャンピオンになったところでお金が入ってくるわけではありません。月謝を払ってまで痛い想いをすることを普通のフィリピン人ならする人はいませんが、トーナメントを見れば今までのフィリピン人の一般的な概念が変わると思います。

さて、今回のトーナメントは青少年トーナメントと言うことで、いつくかのカテゴリーに分かれています。8歳未満の部、9歳~10歳の部、11歳~12歳の部、13歳~14歳の部、15歳~16歳の部です。13歳~以降は男女別に行われ、12歳未満の部は男女混合で行われます。

通常行われるトーナメントでは素手素足で戦います。ルールはフルコンタクトルールと言い、素手による顔面攻撃を禁止している他はすべての箇所(金的を除く)を素手素足で攻撃することが許されています。勝敗は相手を倒す一本勝ち(KO)か技あり二つでの合わせ一本、もしくは判定で行われます。K-1のルールで顔を殴らないといったらわかり易いでしょうか。

今回、私は審判と昇級審査の指導、そして極真オロンガポ道場のコーチとして参加しました。オロンガポ道場はまだ3年前に出来たばかりの道場ですが、軽量級と中量級でフィリピンチャンピオンを輩出し、そのアグレッシブなファイトスタイルには定評があります。写真はオロンガポ道場の生徒達。



トーナメントに参加するのは3人。12歳の部にはイーグルという男の子。13~14歳の部にはレイアという女の子。14~15歳にアイザという女の子が出場します。イーグルの一番上のお兄さんであるエルシル(31歳)は中量級でチャンピオンになったことがありますし、最近はアジアカップにも参加したつわもので会場をいつも沸かせるファイトをしてくれます。

大会に先立ち白帯~茶帯の昇級審査が行われます。基本に続き、移動稽古、型、体力テストと進み、25人ほどの受験者全員が無事に昇級することが出来ました。そしていよいよ大会が始まります。私は最初審判ではなく本部でトーナメント表の管理をする役回りです。

最初は各階級の1回戦から。14歳未満の部では脛あてにグラブ、ヘッドギアを取り付けて試合を行います。日頃の成果を出すためにみんな頑張って戦っています。試合の本戦は2分。決着がつかなければ延長戦が1分間で、さらに再延長戦が1分。それでも引き分けの場合には体重が軽いほうが勝ちになります。

お父さん、お母さんや道場の仲間の応援で力を出し切った末、勝ったこどもも負けたこどもも最後は握手で試合を終えます。負けたこどもの中には悔し泣きするこも多く、フィリピンではあまり見られない光景です。

明日もトーナメントの続きをお伝えします。

台湾への旅 「私立紅十字育幼院で出会った洪さんと宣さん」~その2~

2005年05月25日 | 「台湾への旅」

昨日、今日はフィリピンからアップしています。孤児院に到着する直前に日が落ち、綺麗な夕日が見えたのでみなさんにご紹介します。こんな夕日は都市部ではなかなか見られないですね。



さて、宣さんのこどもとの活動から台湾の施設の歴史へと話は進んで行きます。

第2次大戦後、台湾では「救済院」という施設が作られます。障害者の方や孤児達を一緒に保護する施設で「かわいそうな人たちに恵みを与える」という感覚で運営されていたそうです。

その後、台湾の経済発展と比例して、地方から台北や高雄といった都市部に人口が流入してきます。その結果、仕事にありつけない人たちがスクウォッター(不法に土地を占拠した居住地)を形成し暮らし始めます。

宣さんがこどもたちと関わる仕事を始めたのはちょうどその頃の1960年。政府の社会福祉省の職員として働き始めます。それから10年ほどは貧困層でこどもたちを育てられない家庭のこどもたちを保護するのが施設の主な役割でした。

1970年代には、更なる経済発展に伴い貧困という理由から施設に入るこどもたちの割合が減っていき、その代わりに障害を持ったこどもや自閉症のこどもが増えてきます。しかし、台湾には自閉症のこどもたちに対応する経験が乏しかったため、宣さんは日本での自閉症のこどもに関する研修に参加するのです。

その時に宣さんが研修で訪れた場所が、日本でも自閉症児の教育校として有名な「武蔵野東学園」。この学校は早くから自閉症児と健常児がともに学ぶ仕組みを確立し、幼稚園から高校までを併設し。その教育方法はアメリカでも高く評価されアメリカにも分校を持つほどです。創立者は北原さんという方です。

そして、その武蔵野東学園はACTIONの事務所がある同じ武蔵野市内にあるのです。これだけでも驚きですが、なんと私は武蔵野東学園で全校生徒に対して授業を行った事があり、創立者の息子さんにあたる現学長ともお会いしていました。

たまたま台北経済文化代表処で紹介された施設でこのようなつながりがあるとは思いもしませんでした。もちろん、宣さんも「世の中は狭いですねぇー。」と言って、最近の学園の様子を興味深く聞いて下さいました。

当時、高雄に始めて出来た国立の育幼院の院長を務めていた宣さんは武蔵野東学園をはじめとした研修の成果もあって、1975年に台湾で初めて自閉症児に対する教育を始めたのです。児童福祉を学ぶ学生のボランティアも多く参加をし、10年間国立の施設で自閉症や障害児に対する教育を行っていきます。



さて、ここで意外な事実が判明。最初に声をかけてくれた品の良いおばあさんの洪さん。洪さんはどんな人なのだろうと思っていると、それを察してくれたのか「私たちは夫婦なのですよ。」とのこと。洪さんと宣さん。苗字が違います。

そう、台湾では結婚しても夫婦を同姓にする義務はなく、女性も自分の姓をそのまま使う事が認められているのです。こどもは父親の姓を名乗る事になっているようです。

さて、話を元に戻します。宣さんは台北の国立育幼院の院長に就任の要請を受けます。このとき、奥さんの洪さんは「私立紅十字育幼院」で働いていました。高雄から台北は電車で4時間。通える距離ではなく、夫婦が別居をしなくてはいけません。

ちょうど、紅十字育幼院の院長が交代をする時期だったので、宣さんは国立育幼院の院長職をすぐに辞退し、1985年に現在の私立紅十字育幼院の院長に就任するのです。ここから夫婦二人三脚での活動が始まります。

次回は私立紅十字育幼院についてお伝えします。

台湾の旅 「私立紅十字育幼院で出会った洪さんと宣さん」~その1~

2005年05月24日 | 「台湾への旅」

台南で鄭成功廟や紅毛城を訪れた後、今回の台湾訪問で最後の場所となる台湾第2の都市高雄へ向かいました。台南から高雄は電車で30分程。台北から電車に乗り、台中、台南と来ましたが、これが最後の乗車です。窓から見える景色が次第に高層マンションやビルに変わって行きます。

日本も田舎から電車に乗って都会へ行くと、徐々に発展していく様子が眺められるのですが、九州ほどの大きさの島に2500万人が住む人口密度の高い台湾ではその光景もあっという間に過ぎ去って行きます。

高雄での目的は、台北経済文化代表処から紹介された3つの施設で最後の施設を訪れること。「私立紅十字育幼院」は日本語に直すと「私立赤十字育幼院」。台湾では日本で「赤」が「紅」になります。これが最後に訪れる施設の名前です。

高雄駅からタクシーに乗って15分ほど。運転手さんが急に「ここで降りてくれ」と言って来ました。どうやら施設の手前が通行止めになっていて車が入れない様子。歩いてすぐということで少し歩いて施設へ向かいました。後でわかったのですが、通行止めの理由は道路にテーブルや椅子を広げて結婚式の披露宴をする準備をしていたからだそうです。

施設の入り口をくぐると、重みのある建物がありました。少し、台湾総統府や東京駅に似た雰囲気の建物です。事務所に声をかけると、奥に通されて「座って待っていて下さい」というジェスチャー。しばらく待つことにします。



「お待たせしてすいませんねぇ」と流暢な日本語で品の良いおばあさんに声をかけられました。続いて、「思っていたよりも若い方ですね~」とおじいさん。このお二人がこの施設で私たちを案内してくださる方でした。おばあさんは洪さん。おじいさんは宣さんというお名前です。

事務所を出て食堂件会議室へ向かうと、そこに「歓迎 日本国際合作NGO団体 ACTION 代表横田御一行様」と書いてありました。二人なのに「御一行様」なんてちょっと恥ずかしかったですが。自己紹介をそこそこに済ませ、宣さんがこの施設の歴史について説明してくれます。宣さんは現在、この施設の顧問をされている方です。

「この建物は83年前に日本が作ったものですよ。」この一言で門をくぐった時に感じた雰囲気の理由がわかりました。この建物は1922年に出来た建物で「婦人会館」として愛国婦人会高雄支部が使用していました。



高雄駐在の日本人の奥様たちと地元の女性たちが地域での奉仕活動を目的として設立をし、多様な活動をしていたそうです。戦争が始まると、負傷して帰国した兵士の治療も行っていた場所です。建設当時から多少の改修はありましたが、戦火を逃れ、現在も当時のままの姿を残しています。

宣さんはこう続けます。

「当時はいろいろな良い話があったのですが、戦後話が伝えられていないため、忘れられてしまし残っていないのが残念です。日本が戦争で負けた後、日本の持ち物は国民党にすべて没収されてしまいました。それを私たちが借りているのです。だから今もこの建物は国のものです。」

そして話は実際の活動について広がって行きます。その話に偶然ではないものを感じるとは思ってもいませんでした。

明日からフィリピンへ行きます!

2005年05月23日 | 「Weblog」

明日からフィリピンに2週間の出張に出ます。今の時点で準備がぜんぜん出来ていません、、。載せる写真がないので、フィリピンの家のベランダで寝てた猫の写真です。



今回は孤児院のジャイラホーム、ピナトゥボ噴火被災者の再定住区、盲学校、ストリートチルドレン支援のNGOをまわります。28日にはジャイラホーム内に極真空手の道場をオープンするため、町役場前で演武を行います。29日には第5回極真フィリピンキッズ大会の審判をしにマニラに行きます。

その後、アンヘレス市で特攻隊関係の場所を周り、RYRCというフィリピンの少年院で空手教室、そしてマニラで仕事です。今回も色々な方と新しい出会いがあることを期待しています。

帰国は6月4日なのでしばし「台湾への旅」はお休みしますが、パソコンをフィリピンに持って行くので、現地のこどもの様子や、空手の様子などをアップしていきたいと思います。たまに覗いてみて下さいね。最後に猫をもう一枚。



台湾への旅 「鄭成功と日本人」

2005年05月21日 | 「台湾への旅」

さて、「八田與一から学ぶ」でお伝えした鳥頭山ダムを後にし、台南で一日を過ごしました。台南は日本で言うところの京都。台湾で最も古い町として知られています。台湾最古の孔子廟があるのも台南です。そしてここには道教の神として鄭成功という台湾の英雄と言われている方が祭られてもいます。今回は、その鄭成功についての話です。

鄭成功。この名前を知っている日本人は少ないでしょう。近松門左衛門の人形浄瑠璃『国姓爺合戦』なら聞いたことがある方もいるかもしれません。江戸時代に上演(1715年)されたこの浄瑠璃は17ヶ月連続上演という記録を作っています。そう、鄭成功とはこの浄瑠璃のモデルとなった人物です。

1644年、明朝が滅亡し女真族の清王朝が中国に誕生しました。鄭成功は明王朝の武将で、明の復権を目指して清と戦いを続けましたが敗退。1661年に台湾を「反清復明」の拠点として攻め、当時台湾を占領していたオランダを敗退させます。(*下の写真はオランダが拠点を置いていた紅毛城でのちに鄭成功が拠点とした。銅像は鄭成功に降伏するオランダ人)



鄭成功は台湾を占領したのち台南を首都として開拓を始めます。台南はその後も1885年までの224年間台湾の首都として政治・文化の中心となって行きます。しかし、鄭成功は台湾に渡った年の1661年に病に倒れ明復興の夢を見ながら、38歳の生涯を終えます。

鄭成功死後、オランダ人を駆逐し、孤立した状況下であくまでも明に忠誠を誓った鄭成功の功績及び精神に敬意を表すために廟を建立して鄭成功を祀り、この廟を「開山王廟」と名づけたそうです。下の写真は鄭成功像と開山王廟です。



その後、息子の鄭経がその後を継ぎます。鄭経は学校の設置や孔子廟の設置をはじめ政府の健全化を行います。これが台南の首都としての基盤を作ることになりました。台湾の京都といわれる所以です。

しかし、1681年に鄭経が死去し、その子が後を継ぎますが、幼少だったため政府は家臣達の思うままになり、1683年に家臣が清を手引きして台湾に攻め込ませ、20年の鄭政権は幕を閉じるのです。

その鄭成功。実は生まれは長崎県の平戸。父親は大海賊として名を馳せた鄭芝龍。母親は田川マツ。鄭成功の幼名は田川福松。父の鄭芝龍はその後、明朝に忠誠を近い福松が7歳のときに家族で大陸に渡り、明の武将として活躍するのです。

鄭成功の台湾への出兵は歴史上の大きな出来事で、鄭成功はアジアを白人の植民地から開放した最初の人だったという視点もあります。しかし、親子2世代に渡って大陸反攻を夢見たため、軍事政権として重い税を住民に課し、大きな抵抗を生んでいます。また、台湾に住んでいた人にとってはオランダと同じく外来政権だったことには違いありません。

そして、鄭成功も台湾を大陸反攻の拠点とする目的がなければ台湾にはやって来なかったでしょう。鄭成功と同じく「大陸反攻」を夢想した蒋介石が台湾を統治したのは歴史の皮肉ではないでしょうか。蒋介石は鄭成功と自分を重ね合わせ、より鄭成功の神格化を目指したと言われています。

鄭政権を滅ぼしたのは家臣が大陸の清王朝と結託をして、清軍を台湾に手引きしたからでした。そして今、台湾の最大野党である国民党の連戦党首が中国を訪問し、他の野党の党首も中国を訪問しています。台湾は大きく揺れ動いています。台湾にいる間もテレビのニュースではこの話題で持ちきりでした。

歴史は繰り返すと言いますが、繰り返さないためにどうすれば良いのか。これから台湾の国民と政治の真価が問われるのではないでしょうか。

台湾への旅 「まんぷく!まんぞく!まんてん!」~その1~

2005年05月20日 | 「台湾への旅」

今日はちょっと一休みをして、妻が旅の食についてご報告します。食は台湾旅行の大きな目的の一つでした。台湾に行ったことがある人からは、ごはんがおいしい、と必ず聞きます。出発前はネットサーフィンをしていて気がつくと台湾の食について調べていました。期待は膨らみます。

必ず食べたいと思っていたのが小龍包です。台湾と言えば小龍包!という方は多いのではないでしょうか。まず向かったのは、最近日本にも支店が増えている鼎泰豊(ティンタイフォン)。ガイドブックには必ずと言ってよいほど載っている、名店中の名店。意外に混んでおらず、すぐに中に通されました。

お店は小ぎれいなファミリーレストランといった様子。早速小龍包を注文します。やってきたのは、蒸篭に10個並んだ小龍包。「おぉ!」心の中で叫びます。皮を破らないよう、丁寧に口に運び、一気に口に入れはふはふと噛むと、、、、肉汁が口中にあふれてきます。



おいしい、、、でもなんか汁がちょっと冷めているかも、、、。あっつあつの肉汁を期待していたので、ちょっと拍子抜け。でもやけどの心配がないから、まぁいっか、とおいしく頂きました。お店を出た時には行列が出来ており、お店の人気が窺えました。

次に楽しみにしていたのが、台湾のお茶です。お茶といえば緑茶やほうじ茶しか知りませんが、小さい容器で飲む「甘い」お茶とは一体どんな代物なのでしょう?鼎泰豊でいっぱいになったおなかを落ち着かせようと、のんびり散歩しながら紫藤廬(ツートンルー)に向かいました。



この茶館は渡辺満里奈さんの本に「日本統治時代に建てられた自宅を今は茶館として開放している。どこかハイカラな日本建築風で、とても落ち着く」と紹介されていました。その言葉のとおり、緑あふれる日本庭園風の落ち着いた庭の奥に、歴史を感じさせる日本風のお家が佇んでいます。

畳の部屋に通されると、そこはまさに戦前にタイムスリップしたような、不思議な感覚になる空間。そこにいる人たちも、流れている空気と一体のリズムで、思い思いに会話をしたり、本を読んだり、お茶を飲んでいます。そこでは鉄観音茶ともう一つお茶を頼みます。



台湾のお茶の淹れ方はちょっと変わっていて、小さい急須におちょこみたいな小さい茶碗で、1回の茶葉で数回お茶を淹れます。香りをかぐと、すぅっと鼻から抜けるようなさわやかさのあとに甘みが体中をまろやかにするよう、そして口に含むとふわぁっと深いコクが広がり甘さがしばらく残ります。お茶を飲んだ後の容器から沸いてくる香りはなんともいえず虜にされます。容器を鼻にくっつけて、くんくんと匂いを嗅いでは恍惚とします。紫藤廬は古い時代に想いを馳せながら、お茶の力に癒されるには最高の場所です。

お茶で幸せ気分まんてんになった後、台北から電車で30分ほどのところにある桃園の神社を訪れました。その様子は後日ご紹介します。

さて、まだまだ続きます。桃園からの帰りの電車では、夕飯に何を食べるか議論が白熱しました。その結論は「台湾に来たんだから、最高においしい小龍包を食べたい!」。つまり、鼎泰豊では満足できなかったのです。なんで肉汁がぬるいの?それは納得できない!鼎泰豊がある地区は小龍包の名店が多いらしく、再度向かいます。

ホテルでもらった情報誌に載っていた、鼎泰豊からほんの100メートル程度しか離れていないお店に入ります。庶民的な雰囲気のお店で、お客さんは私たちの他に日本人の団体がいるだけです。早速小龍包を注文。

ドキドキしながら待っていると、やってきたのは湯気がほかほかの蒸篭です。今度こそは!と丁寧に口に運ぶと、、、はふっ、あっつっ、はっ、ほっ、おいしい~!これこそ私たちが求めていた小龍包だ!夢中で食べ、おかわりまでしてしまいました。あぁ、また食べたい。(お店の名前を忘れてしまったのが悔やまれます)

その日のシメに選んだのは、Ice Monsterというお店のおっきなマンゴーカキ氷。写真にあるとおり、まさにマンゴー尽くし!マンゴー好きにはたまりません。マンゴーの実と、マンゴーアイスと、黒砂糖がかかった氷の絶妙なコンビネーション。これフィリピンでもやったら人気でると思います。



あぁ、台湾の食って素晴らしい。初日から虜になったのでした。でもこれはほんの序奏だったのです。さらなる感動的な食との出会いが私たちを待っていました。

食についてはまた、一休みの際にお届けします。

もし3億円が当たったら、、、。

2005年05月19日 | 「Weblog」

「台湾への旅」は今回お休みです。次回から「台湾の食」「高雄の紅十字育幼院」をお伝えしようと思います。

現在ドリームジャンボ発売中!と言う事で、買ってもいないのに3億円当たったらどういう事をしようか考えてみました。結構リアルに。みなさんも一度は考えてみた事があると思います。

もし、3億円当たったら。私はNPO若手職員向け「社宅」を始めたいと思います。NPOって職員住宅はおろか、住宅手当もないところがほとんどです。そして、以下の条件で社宅を運営したいと思います。最近の若い方は分からないかと思いますが、NGO版「トキワ荘」に近い形ですね。手塚治虫や藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎等多くの有名マンガ家を輩出したアパートが「トキワ荘」です。

・ 若手職員に限る(年齢ではなく独身者という形です。)
・ 入居時に働いているNGOをやめる時には住宅を出る
・ 月1の定例ワークショップに参加をする。(国内にいる時のみ)
・ 風呂は共同。
・ 家賃は3万円(7畳)で場所は三鷹
・ 30人定員
・ 入居者は日本国内で活動しているNPOと海外で活動しているNPOの半々
・ 積極的に地元の地域活動や町作りにも参加する
・ 1団体からは1名のみ

これにより、給与が他の業界に比べて少ない職員の支援をするとともに、様々な団体との情報・経験の交流。国内支援団体と海外協力団体との連携、若手職員全体のスキルアップ等に役立つのではないかと思います。

そして、ここで出会った若手職員同士が意気投合して新しいNPOを立ち上げる。その初動資金もある程度支援する。もし、こんな取り組みが出来たら日本のNPOを担う将来のリーダーが多く育つのではないでしょうか。

NPO職員は平均3年ぐらいで離職します。それに伴い、住居を出る事になれば常に新しい人達が集い、新たな情報の発信源になっていくのではないでしょうか。土地で1億円、建物で2億円の計3億円。ACTIONのメンバーにはハーレーダビッドソンのお店の設計を手がけた建築士さんもいます。

日本のNPOの人材育成、国内支援と海外支援団体との連携、地域のコミュニティセンターとしてのNPO版「トキワ荘」。もしこれを読んででくださっている企業の社長さんがいらっしゃいましたらぜひ投資してみませんか?

さて、これからドリームじゃんぼ宝くじでも買いに行ってきます。夢を買うぞー!皆さんも、もし3億円あったらこんな事がしたい!っていうのをぜひコメントに書いてみて下さいね。個人的なものでも、公共性があるものでも構いませんので。

余談ですが、6月18日~24日まで三宅島帰島支援ボランティア事業に参加するための研修を昨日受けてきました。まだまだガスも出ていて、立ち入り禁止区域も多くあります。その活動報告はまたこのブログで紹介したいと思います。

台湾への旅 「八田與一から学ぶ」~最終回~

2005年05月18日 | 「台湾への旅」



3回かけてお伝えした李登輝前総統の「台湾の声」の中で以下のような一文があります。

その時分では東洋一の灌漑土木工事として、10年の歳月と(当時のお金で)5千4百万円の予算で1930年にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、44歳の若さでありました。嘉南大圳の完成は世界の土木界に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大圳の父」として60万の農民から畏敬の念に満ちた言葉で称えられました。

八田氏は25歳で東京帝国大学工学部土木科を卒業すると同時に台湾に渡り、台湾総督府の土木技手として勤務し、28歳の時には灌漑面積3万3千ヘクタールの桃園大圳水路工事設計の責任者として活躍し、時の政府もその功績を認めて技師に昇進させます。そして、この鳥山頭ダムの大任をゆだねられたのは30歳を越えたばかり。

八田氏の功績は誰も疑う事はありません。しかし、当時としては独創的であり、若年であり、成功不可能にも思える計画を信じ中央政府と交渉をし、きちんと予算を持ってきた上司や周囲の存在抜きにしてはこの事業の実施はあり得ませんでした。

八田氏のような才能を活かす周囲の人的なサポートがあったからこそ、成功した事業だと思います。それだけの大きな事業をもし失敗したら、その責任は上司や周囲にも及ぶ事は想像に難くないでしょう。

そのリスクを負っても、住民の気持ちを考え、八田氏の才能を信じた上司・周囲の存在。私はこの点が特に現代人が学ぶ所だと思いました。この事は今の学校教育や企業、すべてに当てはまる事ではないでしょうか。

私たち全員が八田氏のようにはなれるわけではありません。しかし、八田氏のような人を活かす事は努力をすれば誰もができる可能性があります。人と周りを信じること。独裁者は1人で国を作りますが、英雄は1人でなく多くの英雄に支えられて国を作ると言う事を学んだ気がします。

八田氏は恐らく、その点を実感していた為、日本人と台湾人を平等に扱い、銅像にも見られるように常に謙虚な姿勢でいたのかもしれません。そして、ダムの建設に関わった人の多くが自分も必要とされていたという気持ちがあったからこそ、現在も八田氏に対する感謝の念が強いのでしょう。

現在、鳥山頭ダムはダムとして使われている他、公園として整備され多くの台湾人で賑わっています。バーベキューやキャンプ場、プールもあります。そんな台湾の人達の笑い声はきっと銅像を通して、天国にいる八田氏にも届いていることでしょう。

「八田與一から学ぶ」終わり

*最後に、二つのエピソードを紹介します。「八田技師記念室」配布資料より一部引用。

八田氏の銅像は、ダムの完成後の昭和6年7月に安置されましたが、第二次世界大戦の末期に金属類はことごとく回収され、八田氏の銅像も免れませんでしたが、回収を逃れるために、八田氏を慕う人が銅像を隠します。

終戦早々に偶然に倉庫で発見しされましたが、国民党政権が日本統治時代のものを破壊していた為、そのまま隠され、そして、昭和56年1月1日に再びもとの位置に安置したのでした。

昭和20年8月31日の夜、八田氏の次男泰雄さんが、学徒動員から帰って来られました。その9月1日の未明に八田夫人は八田家の家紋入りの和服に、裾が乱れないようにと、モンペを身に付けて、遺書を残して夫が作ったダムの放水口の渦巻く水の中へ身を投げます。

戦争で負けた日本人は台湾を去らなければならなくなりました。台湾を愛し、夫が埋まる台湾に永住しようと思っていた夫人は台湾を去りたくなかったのかもしれません。丁度、25年間前の嘉南大圳工事の起工日と同じ日でした。