「つくつく日記」

NGO代表、空手家、学校の講師とちょっと変わってる私の日々の雑感をお届けします。

台湾への旅 「台湾総統府で出会った蔡さん」~その1~

2005年05月07日 | 「台湾への旅」

成田から台湾の台北までは飛行機で3時間。台北の蒋介石国際空港に着いたのは午後6時。市内行きのリムジンバスに乗りホテル近くの台北駅へ。日本で予約をしておいた南国大飯店という宿へチェックインをしました。

この宿の隣はファミリーマートで、売っているものはほとんど日本と同じ、そしてこの地域は補習班と呼ばれる、日本でいう所の塾が多くある場所で、夜遅くになっても多くの中高校生で賑わっていました。日本よりも学歴重視の台湾らしい光景です。

次の日は台湾で流行っている「素食」というベジタブル食専門の定食屋さんで朝食を摂り、一路台湾総統府へ。



台湾総統府は日本統治時代の1919年に台湾総督府として建てられたもので、台湾統治の拠点として使用されたものです。当時としては類を見ない近代的な建物で、総鉄筋作りの5階建て+中央の塔が11階建て、当時は台北市内のどの場所からも塔が見えたそうです。

総統府に近づくとなにやら物々しい警備。この日は陳水扁総統が総統府内で執務にあたっていた為、厳重な警備をしていました。台湾はほとんど英語が通じませんし、私たちは北京語も台湾語も話せません。

入り口でオロオロしていた所、一人の年配の方が「日本人ですか?」と日本語で話しかけて来てくれました。彼は蔡さんと言い、総統府を訪ねる日本人に対してボランティアでカイドをしている方でした。

通常は2階も見学できるそうなのですが、総統が執務中のため今日は1階の展示室のみ。蔡さんの案内にしたがって中に進みます。そこで一番最初に目に入って来たのは歴代の総督と総統の写真でした。もちろん総督は全員日本人で、全部で19人。

児玉源太郎や明石元二郎、乃木希典といった面々が名前を連ねます。総督ではないですが、後藤新平という明治維新の立役者も台湾統治に貢献していました。蔡さんはこの総督がこういう事業をしてくれた、こういう政策をしてくれたと丁寧に説明をしてくれます。台湾統治後すぐに、台湾を近代化する為に建設や保健衛生、農業といったあらゆる分野の専門家延べ3千人が、日本から派遣されたそうです。

総督府の建物についても、1919年当時としては珍しく喫煙室が用意されていたこと、総督府の鉄筋は日本の鉄道のレールを再利用したもので今でも耐震に優れていること。塔にはエレベーターがあったこと等、驚くことばかりを教えてくれました。

その後、歴代総統(総督ではなくて総統です)の蒋介石や蒋経国、李登輝、陳水扁現総統の説明が続きます。日本が台湾から撤退した後、中国大陸で毛沢東率いる共産党に敗北した、蒋介石率いる国民党が台湾にやってきて台湾を統治します。

大陸からやってきた人たちは外省人と呼ばれ、それ以前から台湾に住んでいた人たちは内省人と呼ばれ区別されています。現在、外省人は約15%、内省人は85%を占めています。蒋介石は台湾で国民党・外省人による専制・独裁政治を続け、息子の蒋経国に引き継がれます。そして蒋経国死後、副総統だった李登輝が内省人として初の総統となり、任期終了後これも初となる総統選挙を実施して正式に総統となりました。

蔡さんは熱を入れてこの蒋介石から李登輝に至るまでの歴史を話してくれました。台湾訪問前に台湾の歴史の本や李登輝の「武士道」という本を読んでおいたので、私たちは良く想いが理解できたのですが、一緒に説明を受けていた他の日本人はあまり理解していない様子でした。

話はこの後、現在の日本に対する蔡さんの考え方と、靖国問題に対する見方へと進んで行きます。この続きはまた次回に、、、。



~まめ知識~

*以下、台湾の方が書かれた、日本統治時代に関する事からの抜粋です。

一八九八年(明治三一年)の日本の国家予算が約二億二千万円だったところへ、台湾総督府から台湾開拓・整備予算として全国家予算の1/4以上にあたる六千万円というとてつもない額が要求されている。

日本のこうした統治政策は、世界にその類例を見ない。同じ頃、アジアに植民地を保有していたイギリスやオランダは、植民地を自国の産業発展のための一次産品(工業原料や鉱物資源等)の供給地として位置付け、プランテーション経営や鉱物の採掘のために現地労働力を奴隷のごとく酷使した。

そんな彼らにとって、当地の近代化や地元民への医療対策など考えも及ばなかったであろう。それを証拠に、イギリスなどは、アヘンを持ち込んでまで植民地の富を根こそぎ搾取していたことはあまりにも有名である。

内地の国家予算から膨大な金をつぎ込み、台湾を本国と同等水準に引き上げようとした日本と、植民地から搾取のみを行っていた当時の欧米諸国の違いがよくわかる。


とある、ブログに下記の記事がありましたので、トラックバックさせて頂きました。

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