一昨日は、茨木のり子さんの「聞き星」を紹介させてもらいました。
今晩は『倚(ヨ)りかからず』を更新させてもらいます。
『倚(ヨ)りかからず』 茨木のり子
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚いかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底(シンソコ)学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目(ジモク)
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれ
茨木さんの『倚りかからず』を読むと、親鸞の言葉を重ねたくなる。
『歎異抄 第二章』おのおの十余か国の
「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」
さらに道元には次の言葉がある。
『正法眼蔵 光明』
「光明から疎遠になるように学ぶ臭い袋(のような修行者)が思うには。フ仏の光明も自己の光明も、赤、白、青、黄であり、火の光や水の光の如く、珠玉の光の如く、龍天の光の如く、日月の光の如くであると理解している。善知識に従い、経巻に従っても、光明の言葉や教えを聞いては、蛍の光のようなものであろうと思っており、さらに(光明が)眼睛や頭のてっぺんであるという学びをしていない。漢の時代から、随、唐、宋、及び今に至るまで、このような連中が多いだけである。(光明については)文字を学ぶだけの法師に習ってはならない、禅師による混乱した説を聞いてはならない」 (くりのみ会講師・Tenjin先生の現代語訳)
そして最後は、先師・五十嵐先生囲の言葉。(数人の座談で)
「お馬鹿な頭でも自分の頭で考えて、自分の言葉で話したいものです!」