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校舎の風景

昔々通った小学校が改築される


卒業制作


下駄箱


階段


チョーク入れ


教室


黒板





水飲


掃除当番


向日葵
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パルコ ザ・ラスト

渋谷のパルコが消える
(写真をクリックすると拡大します)

高校生の時に、友達を誘ってここの劇場に『モンティ・パイソン』を観に来た。
それ以来ハマった、と言えば感度良い感じだが、当時はさっぱりわからず「???」であった。
その後『未来世紀ブラジル』でようやくテリー・ギリアムを認識した。
練馬の田舎高校生にとっては渋谷はお洒落で先端な大都会。
池袋が「池西」の破竹の進撃で消費文化を牽引するようになる、そのちょっとだけ前の話だ。



今は映画館になっている『SPACE PART3』には、大学生の頃によく通った。
最初にビスコンティを見たのは池袋の文芸坐(『家族の肖像』と『イノセント』)
次は銀座の並木座で『山猫』、これは多分高校生の頃。
大学生になって、パルコの特集上映でかなりの数のビスコンティ作品を集中して観た。
若き日の野村萬斎のパフォーマンスもここで観た。



最近はたまに地下のギャラリーやブックセンターに来るくらい。
今日は本屋でバーゲンになっている洋書を買った。改めて良い本屋だと思った。
パルコで洋服を買った記憶はない。
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柳と柳田の「民」の交差するところ


神奈川近代文学館「「生誕140年 柳田國男展 日本人を戦慄せしめよ」」のつれづれに

民俗学の柳田國男(1875-1962)と民藝の柳宗悦(1989-1961)。

この二人の大思想家、昔、「民」と「柳」が同じと言うだけで、
自分の中では何となく同じジャンルに区分されていたことを白状しておきます(苦笑)。
と言いつつ、どちらも東京帝大出の文学青年だったり、
30代半ばで本格的に「民・・」の活動をスタートさせたり
(「遠野物語」柳田35歳、柳が「民藝」という言葉を創案したのは36歳)
と言った共通点も、ない訳ではない、のです、はい...。<無理矢理

その14歳違いの両者ですが、雑誌「月刊民藝」のための対談を1940年と言う微妙な時期に、
しかも式場隆三郎の司会で行っているそうだ(柳が対談に招いたということですね、式場は編集長)。
ところがこの対談、どうもあんまりいい雰囲気にならなかったらしい。、
そして、それ以降、ほぼ同じころに亡くなるまでの間、両者はついに接点を持たなかったようだ。
おなじ「民」の中にある「もの」や「こと」、「ことば」に着目し、
しかも国粋主義の盛んな戦中に伝統と言う危険なテーマを取り扱っていた両者が、
それぞれの学問が自由に羽ばたいた戦後に交流しなかったのは、何とも惜しい気がしますね。

*対談については、詳しくはリンク先のBLOG「田原書店外伝」の20070902の記事を参照。

ところで柳田が貴族院の書記官を辞めたのは44歳の時だそうだが、
柳も同じく貴族院の書記官だった、という記述をネットで見かけた。
であれば、結構な共通項があることになるが(我田引水?当時の帝大出なら当然の進路かも)、
日本民藝館のHPにある略歴などでは、役所勤めのことは書かれていない。
となると、卒業後、柳は宗教哲学の研究だけで御飯食べれていたのか知らん??
まぁ、柳田と違ってなかなかの資産家だったらしいから、働く必要はなかったのかもしれない。
(京都大学HPの記述によると、1919年に東洋大学教授に就任している。
 ただ、1923年の関東大震災で被災して京都に移転したそうなので(1924)、
 その時点で教授職は辞したのかもしれない)
そして一見なんだか貴族的なイメージの柳田、実は生家は知識階級でありながら貧しく、
苦労して勉学に励んだというのはちょっと意外。
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ナイススペース

丸の内+乃木坂 ナイススペース (2015.7.29.)


明治生命館ラウンジ


丸の内マイプラザ


三菱一号館


丸の内ブリックスクエア


ギャラリー間(「フィールドオフィス・アーキクテクツ」展)
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正対

撮影:2015年6月19-20日



















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某レコード屋さんのショッピングサイトに関する不満。わんわん。

在庫を確認して注文します(クリックで拡大)。

当然他のCDも在庫を確認します。
すぐ届くやつとしばらく待つものは分けて注文しておきたいですからね。

ところが注文履歴を確認すると、一部のCDが「在庫あり商品」でなく「ご注文受付」になっていて、
出荷目安が2週間も先になっていました。

よく見ると、最新情報はカートに入れた時に表示されるとの注意書きが。
で、試に再度カートに入れて見ました。




カートに表示できるのに他のページには表示できないっておかしくないですかね。
こういうのって優良誤認っていうんじゃないの?システム直して欲しいです。
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裏切られようとも、、、

『日本会議』という保守系団体のことを知りたくて読んだ本ですが、それを超えて面白かった。

村上正邦氏は「生長の家」をバックに参議院議員に当選、右派、民族派の自民党議員として活動し、
一時は参院のドンとまで呼ばれましたが、KSD事件で失脚した政治家です(有罪で服役、刑期満了で釈放)。

自分に都合が悪いことは語っていない節もありますが、それを超えて、戦後政治を生きてきた政治家として、
また、一人の人間としてなかなか魅力的な方だと思わされました、思想信条は違うけど。

証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも証言 村上正邦 我、国に裏切られようとも
魚住 昭
講談社
2007-10-10
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その村上氏、今話題の(?)村山談話の前段にあった衆院国会決議を自虐的と批判しつつも、
当の村山さんと里山の会をやったり、元国会議員の同僚的繋がりというのは面白いものです。
BLOGなんかも目茶苦茶辛口で、首肯できることも多い。
まぁ、意地悪く言えば、引退したからこそ言える内容で、
言ってることトータルで考えると、政策体系として成立していないのかもしれないけれど。
(そこが自民党的とも言えるのかもしれない)

因みに「生長の家」は、昔は民族派のバックボーンとして積極的に政治活動にコミットしていて、
かの一水会の鈴木邦男氏も生長の家の活動家だったそうです。
件の「日本会議」の創設にも深く関わっていたらしい。
ただ、現在は方針転換しているようで、村上氏も支持母体の生長の家が政治から手を引いたことから
新たな支持母体としてKSDを求めた、という経緯があったようです。

しかしKSD事件で問題になったのは「ものづくり大学」だったんだよねぇ。うーむ。
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八重洲ふらふら

変わりゆく八重洲を歩く


路地から建替え中の鉄鋼会館が見える


路地の花屋さん


旧・川崎定徳本館。1年程度前に不動産会社のスターツが購入したが、使っているのだろうか?


重要文化財になった高島屋。代償として後ろに超高層が建つ。現在は更地


更地側から。時代を重ねたファサード全体が見渡せるのは今だけ


村野藤吾設計の増築部も美しい


友人がキューレションしたグループ展へ


八重洲の街。除外されたことへの勝利宣言、あるいは苦情


路地をダクトが飛ぶ


ビルに囲まれる中央区立城東小学校。再開発ビルに入る、と軽く書いた新聞記者がいた


校舎は旧京橋昭和小のもので、関東大震災の復興小学校のひとつ。歴史的建造物である


保存された明治屋の廻りで進む再開発


八重洲ダイビル。こちらも設計は村野藤吾


戸田建設。建設会社らしい堅実なデザインのビルだが、この一帯も同社主導で再開発するらしい


ブリジストン美術館も入居している旧本社ビル建替えにつき、しばらく休館の由
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三春まで滝桜を見に

福島県三春町・天然記念物の滝桜、満開なり(2015.4.18)
斜面に咲いているので、ぐるっと色々な角度から楽しめます。空が広くて気持ちが良い!








*正面の人物はTV撮影のため許可を得て立ち入っているカメラマンさんです





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郡山なう

久々に開成館
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