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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土肥実平の弟【土屋宗遠】から始まる 私的memo

2021-11-23 | 中原氏バラバラ情報

中原親能と共に京で活動を展開していた土肥実平。

その弟に【土屋宗遠】がおり、土屋氏となっていった。

wikipediaによると、↓

中村宗平(むねひら)の子。土肥実平(どひ-さねひら)の弟。相模(さがみ)(神奈川県)土屋郷の領主。源頼朝の挙兵にしたがい御家人となる。承元(じょうげん)3年私怨(しえん)で梶原家茂を殺して和田義盛(よしもり)にあずけられた。和田氏の乱で義盛に属し,建暦(けんりゃく)3年5月3日討ち死に。通称は三郎。

 

宗平の娘である桂御前は、同じく相模国の豪族である三浦党岡崎義実に嫁ぎ、義忠義清兄弟をもうけている。

義忠は佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり、土屋氏を称している。

 

もう一人の宗平の娘である満江御前伊豆国伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。

 

宗平の娘と祐親の間には、河津祐泰伊東祐清八重姫万劫御前らが生まれたが。

万劫御前は最初は工藤祐経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。

河津祐泰は曾我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。

 

 

伊東祐親娘で工藤祐経に嫁いだ女性『万劫御前』が、祐経が不在の時に祐親に引き戻されて、土肥実平の息であった土肥遠平に嫁ぐことになってしまう。そしてさらに、遠平娘が、今度は祐経の息祐時の室となる。

 

同じく伊東祐親娘は北条時政の前室でもある北条義時の母のようである。という事は、政子の母でもあるのだろうか? 同母だろうか??

(祐経の妻の姉妹となる人物だろうと思われる)

wikipediaには以下のようにある。

「八重姫」

頼朝の監視役であった伊東祐親の三女源頼朝の最初の妻とされる。

頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。

 

以上を繋げていくと、源頼朝の最初の妻が、実は政子の叔母であったことになるのではないだろうか?? (政子の母とは異母となるが…)

政子の母親の妹(年は離れていたかもしれない)

 

頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。

この比企尼の三女は「のち平賀義信室。平賀朝雅の母。頼朝の嫡男頼家の乳母。 」だそうである。

 

祐清の烏帽子親が時政であった事、比企尼三女が嫁いでいたことがわかり、ますます濃密な鎌倉の武士たちの関係が浮き彫りになる。

比企尼三女

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E5%B0%BC%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A5%B3

===*===

遡ってみると土肥氏・土屋氏の祖は「中村氏」であり、さらに遡ると桓武平氏となる。

その中村氏、中村宗平(土肥実平の父)のwikipediaを見ると、宗平娘が伊東祐親の室となっていた。実平の姉妹が、伊東氏とつながりを持っていたのだ。

 

この伊東祐親の養父ともいわれている工藤祐隆の工藤氏から河津氏が出てくる。

河津氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%B4%A5%E6%B0%8F

 

曽我氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E7%A5%90%E4%BF%A1

 

相良氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F

相良周頼には子がなく、親類の伊東祐時の孫(祐光の子)光頼を養子として家督を継がせた[6][1]。このために日向伊東氏とも近縁である[7]

===*===

 

上記のような工藤氏・土肥氏の関係の中に、頼朝の寵臣であった中原親能、中原久経、政経がいた。佐々木氏もまたしかりである。

三左衛門事件の三人が所領を没収される程度で済んだのは、中原親能の働きかけによるものと、どこかに書かれてあったこと、また、中原親能の年代と中原久経がほぼ一致していることから、義兄弟であったか、ごく近い間柄であったと思う。同じく波多野に関係もしている!

中原政経が事件後逼塞していたと思われる近江国伊香郡のこと(を考え合わせると、九里の祖である中原にごく近いと思われる。

 

そして、和歌山系図に載っている名前が九里助恒 と 助政 であり、その「スケ」が工藤・伊東氏の「祐(スケ)」を思わせる。

 

また、比企尼三女もまた源頼家の乳母を務めており、九里の祖である富木氏の富木常忍母と接点がある。

富木常忍の母が1182年のことであり、当時8歳くらいのことであり、乳母の手伝い程度ではあったと思うのだが、、、、同じ頼家の乳母として名が挙がっている。(この女性がイコール下総局であったとするならばだが。もしかすると二代にわたっての乳母であったのかもしれないが。)

 

摩々局源義朝の乳母。

「所領が早川庄内であることから、中村氏出身と見られる。」とある。

義朝は畔蒜荘で育ったと、鈴木かほるさんの本にあり!

 

 

比企尼が、伊東祐清の養子を連れ子として平賀に嫁いだ。

「生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となる)を引き取り、祐清と死別した後にその子を伴って平賀義信に再嫁している。」とある。(wikipedia)

 

良くはわからないのだが、ココで平賀氏と小早川氏が繋がっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%99%AF%E5%B9%B3

 

ぐちゃぐちゃなメモだが、きっと後で役に立つ!と思うので‥‥

 

上記の事項に、出雲・石見国との久利氏(吉川経安)(清原氏)の関係も絡めつつ調べていくと、そして「土屋」や「吉川」をたどると、何かわかってきそうな気がしている。

 

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0002/OS00020R089.pdf

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熊野国造  橘広方  鈴木重氏・重武 藤原実方 とのつながり

2021-05-16 | 九里バラバラ情報

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%9B%BD%E9%80%A0

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%BA%83%E6%96%B9

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%96%B9

 

===*===

さて、殿来連を探している時、大鳥郡の【和田氏】(ニギタ・ミギタ・ミキタ)と関係があるかどうかが不明の「橘につながる和田氏」が出てきた。

 

この熊野国造が気になり始めた。(以下 wikipediaの部分より)

「和田氏系図」によると、醍醐天皇の代に牟婁郡大領(従五位下右衛門尉熊野広方(橘広方)橘姓に改姓(橘良殖猶子となったか)、広方の娘は鈴木良氏に嫁いで鈴木重氏の生母となった。広方の 3代後の橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称した。

 

つまり、鈴木重氏の母は熊野氏の出という事になる。(鈴木良氏の妻)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%89%AF%E6%B0%8F

此処で熊野=橘=鈴木氏となる。

 

この鈴木氏と藤原定時・実方・源雅信の娘が繋がってくる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E6%99%82

 

藤原定時の妻:源雅信の娘

男子:実方

女子:鈴木重実

 

つまり、重氏の長男の重豊左近将監)の娘は、藤原実方に嫁いで熊野別当・泰救を生んだ。

さらに、重豊の弟重実実方の姉妹が嫁いだ‥‥という事になる。

 

重豊・重実の父が重氏であり、母が橘広方(熊野氏)である。

 

鈴木重豊と藤原定時の娘、二人の息が鈴木重武で中原成道に追随して上総にやって来ている。

長元元年(1028年)の6月に前上総介・平忠常が謀反を起こした際、追討のため中原成道に随行して東国に下向した。永承7年(1052年)9月15日に81歳で没した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%AD%A6

 

===*===

wikipediaの寄せ集めだが、つなげてみると大事な部分と思われる。

熊野から橘氏へ、そして鈴木氏と藤原氏‥‥ 

 

 

 

 

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1920~30年代 アメリカのピアノ 

2021-05-03 | 日記

つい最近の事。

『名編集者 パーキンス』A・スコット・バーグ  鈴木主税訳 草思社文庫

を読み始めた。映画を先に見て興味を持って本を購入。

 

偶然の重なりで我が家にやってきたBaldwinのピアノ。

もう新しいピアノにしたい…などと思いつつもいまだ我が家にある。

このパーキンスのアメリカの話を読んでいると、このピアノが出来た時代と重なっていて興味深い。

以前、調律師さんから聞いた話では1920年に出来たピアノ…という事であった。(本当かな?)

 

http://www.baldwinpiano.com/history.html

https://antiquepianoshop.com/online-museum/baldwin/

https://denver.classicpianos.net/used_pianos/baldwin-hamilton-professional-studio/

 

 

       

 

 

 

1920年、日本では大正九年で「大恐慌」の年であった。

アメリカでは禁酒法が始まった年でもあり、狂騒の20年代と呼ばれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E9%A8%92%E3%81%AE20%E5%B9%B4%E4%BB%A3

https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3488/#jplist

 

Baldwin Piano Company

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC

 

私が調べたところ、そのように古いものではなく1978年あたりなのではないかと思う。(笑)

https://denver.classicpianos.net/used_pianos/baldwin-hamilton-professional-studio/

 

上のHPにそっくりで、お値段も安かったので、たぶんそう。

私自身は、この小学校や教会で使うのに大量生産されたタイプと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

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仁木七郎(仁木民部少輔) と 九里一党 

2021-04-25 | 九里バラバラ情報

以前から何度か見かけていた『仁木七郎』(仁木民部少輔)に関して少々分かったことを書き留めておく。(仁木義広の父か?)

wikipediaによると

仁木政長の子ヵ?

兄に仁木刑部大輔。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E7%BE%A9%E5%BA%83

 

この仁木七郎が「後法成寺関白記」に記載されていることがわかった。

大永4年に山城国相楽郡の笠置寺へ討ち入っている。

 

九里一党が仁木七郎の配下の者となって、笠置寺に夜討ちをかけている時と思われるので、調べてみると「東浅井郡志第二巻」にあった。

2018年にも調べていたので、ココに留めておこう。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/010199265ca6f97f5bc2b512961c12e8

 

鈴木かほる様の記事もこの周辺に触れてあるので、おいておこう。

http://www.yougakuji.org/archives/560

 

『清和源氏向系図』(以下『向系図』と略す)によれば、向井氏始祖は、源頼義流・仁木実国の後胤・仁木右京大夫義長(元応二年3/3生)の子、四郎尾張守長宗と伝える。


源頼義―義家―義国―義康(足利祖)―義清―義実―実国(仁木祖)―義俊―義継―師義―義勝―頼章。師義―義任。 
義勝―義長―満長。   『尊卑分詠』第三篇


仁木義長―満長。仁木義長(向祖)―長興②―長忠③―長春④―長勝⑤―忠綱⑥―正重⑦―正行(政勝)。正重⑦―正綱(徳川幕下初代)―忠勝②。
忠綱⑥―正利―正直―正吉(以下略)     『清和源氏向系図』

 

其の向井氏が、長谷川氏と密に繋がってくる。

http://www.yougakuji.org/archives/552

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ジローラモ・デ・アンジェリス 1.

2021-02-03 | コラム

何年か前にこの人物を調べることとなったのは、知り合いから「外国の人は蝦夷のことを何と呼んでいたの?」という質問があったためだ。
イタリア(ポルトガル語?)古文書にその名が書き記されていたのが、ジローラモ・デ・アンジェリスの「蝦夷国報告書に就いて」【RELATIONE del Iezo】 であった。最後の「Iezo」がイェーゾ、すなわち蝦夷のことである。

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ジローラモ・デ・アンジェリスは1567年にシチリア島カストロ・ジョバンニ生まれた。日本の永禄十年である。
18歳の時、兄弟であるピエトロと共に、法学を修めるためパレルモ市に移った。
1586年、1月16日 イエズス会の神父と出会い、入信を決めた。

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イエズス会とは、16世紀の宗教改革の時代に、1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志が始めた会である。イエズス会では、日本の歴史の教科書にも必ず出てくるフランシスコ・ザビエルが有名である。
ザビエルは1541年にインドのゴアへ赴いた。
ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要拠点地であった。
ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、偶然出会った日本人ヤジロー(アンジロー?)の話から日本文化に興味を覚えて1549年に来日し二年ほど滞在した。

16世紀のイエズス会士たちはその後、中国と日本への宣教の拠点としてマカオを利用した。

【天正遣欧少年使節】を計画したのも、イエズス会であり、アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。
この人物が、日本にキリスト教を大きく定着させたように見える。

信長が歿したのが1582年。

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デ・アンジェリスは1586年に入信してから約十年間の修行を積んで、その間に日本という国を知り、いつしか日本に渡って布教をしたいという気持ちが大きくなり、志すこととなった。

しかし、天正15年(1587年)日本では豊臣秀吉の時代となりwikipediaによると「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。」というような時代となっていた。

アンジェリスが憧れていた時代、はじめに耳に入ったようなバテレン好きの信長の時代はすでに終わりを告げていた。

アンジェリスは1596年4月10日、インドのゴアへ向かう船に乗船した。(この時に同じ船に乗っていたイタリア人宣教師のカルロ・スピノラは1622年に長崎で火刑に処された。)

途中、台風、船の修理、新たな台風に遭遇、等々あった。さらにその後イギリス海軍に拿捕され、ロンドンに連行されかかった
が、ピエトロとジローラモはイタリア人ということもあり、解放された。…という数々の受難に合いながらも、その志は堅かった。

この頃、日本ではサン・フェリペ号と下記にwikipediaから引いてきた【二十六聖人の処刑】という事件が起こっていた。

「翌慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。」

======

アンジェリスに話を戻そう。
1598年、ポルトガルのリスボンに到着し、リスボンで神父となった。

1599年3月、アジアに向かって出航。この船旅にも数々の困難が襲いかかった。

1600年、マカオに到着。
マカオにて一年足らずだが、日本語の勉強をした。

1602年、長崎に到着。
上司より京都の伏見に行くことを命じられる。
伏見で8年間布教活動をし、次に、静岡の駿府行きを命じられた。

======

家康の時代となった始りは「鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その目的はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、スペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し、西洋事情に詳しいウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問としたという。」とある様に西洋の知識を吸収するために積極的にスペインとの交渉を行っていたようである。

ところが、その蜜月は長くは続かず、一転して宗教を日本に入れないという約束のオランダと手を結ぶこととなったのだ。
1613年 伴天連追放之令 となった。

===*===

1614年1月27日、駿府にいたデ・アンジェリスは、将軍からの禁教令により、長崎に逃れた。
目立たぬように宣教師の服を捨て、日本人と同様の服をまとって生活していたという。


そして、同じ1614年、ヨハネ原主水胤信にもその迫害の手が伸びていた。

===*===

ヨハネ原主水胤信 の話に続く。





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頂きましたコメントに関しての返答です!(長岡藩・加賀藩)

2020-08-22 | 日記

屋代様
コメントありがとうございます。
ここに返答を兼ねて、記事にしたいと思います。
勝手にですが、お許しください! 
九里氏に関して、興味を持ってくださる方を増やしたい!と思っております。

コメント欄、ある程度以上はさらに先に「コメントをもっと見る」をクリックしないと見えてこないので、是非、読者様方にもみていただきたく思っております。

屋代様、あっという間にここまでお調べになって、この道のプロの方なのでしょうか?
九里が見事に復活してくるようで嬉しいです。
私は自分の系が近江国と関係があるのかどうかに気を取られていて、まだ長岡藩・加賀藩は手付かずでありました。というか、鎌倉時代から動けないまま、になっていて。(笑)


===*===

私の意見や、アバウトながら知っていることは青で書きます。

九里姓は珍しい (屋代) 
2020-08-22 06:55:30
九里(くのり)姓は珍しいですね。

管見に入る所によると、どうも、近江国九里邑に住居した人物が地名を名乗ったと思われます。
近江九里は東西交流の重要な地で、九里街道には関所まで設けられていたとか?

では九里の本姓は何かが問題となる。
(加賀藩は系図に源姓と書かれています。)


九里姓が古文書として残るのは、「加賀藩侍帳」と
「長岡藩分限帳」に見出すことができます。

この中で本姓に言及するのは長岡藩九里氏であり、こちらは本姓を藤原とします。家紋は織田信長家と同じ五瓜唐花を使用します。

織田家も当初藤原家末裔を名乗り、後、平家姓としますので、長岡九里氏は本姓藤原、家紋織田家紋を使用していますので、室町末期には一門意識があったのかもしれません。

「金沢古蹟誌」は金沢藩士、九里甚左衛門は初め、織田信長に仕え、後、金沢藩前田利家に仕えます。
対偶も650石の御大少将となります。この時の当主は
九里幸左衛門善禮ですが、家紋は七寶内十文字で織田家のとは違いますが。家紋は結構変更する家もありますのでなんとも言えませんね。

茶人でもあった九里某は、妻の家紋が良く見え、変更したとの伝承があります。
確認しましたら、七宝紋(七宝輪違い紋)は私の覚え違いでした。たしかに七宝内十ノ字とありました。どのような紋なのでしょうね?)


他に加賀藩には九里橘次郎知貫ががいますがこちらの家紋は蛇の目となっています。
(平安時代後期ですが、九里の祖の前代が「中原橘次経任」橘氏とは関係があるのかもしれません。和歌山九里氏は折敷に橘紋でしたし、我が家にある「別紙」と言っている手紙にも丸に橘が書かれています。)



藤原氏を本姓とする、長岡九里氏は分限帳によれば九家ありますが、どうも一門のようですが、明治以降の歴史家はよく分からないと解説しています。
同姓が同藩にいるのはよくあることですが、鈴木、山本のようなポピュラーな姓ではなく希少な九里姓はそう多くはありません。
長岡藩の九里氏は17世紀前後に牧野の殿様に仕官した家であるが、着座家となり好待遇であることが、明治以降の郷土史家には不思議に移るので出所の分からない不思議な一族であるとコメントしています。

戦国時代に近江九里家が尾張織田家と親族関係であったとするなら、加賀前田家の対偶と言い、長岡牧野家の好待遇もうなずけます。

この辺りも歴史的には面白そうですね。

織田信長の先祖の出身地でもある「近江国津田」、其の津田荘の代官であったのが「九里浄椿」です。足利義澄を匿った時代の人物です。
が、織田家と同族とは考えたことがありませんでした。
確かに津田家は考えられるのです。… 
私の系の九里のいた柏原藩藩主が代々織田家で、移封前の大和宇陀松山藩では始め織田信雄(常真)のもとにいました。と考えると、織田と近い?のでしょうかね?



私の田舎にも織田の一族が本能寺の変の後、流れてき建立した寺がありますので、織田家一門は相当数あるのだと思います。

九里家が織田家と関係するなら「信長公記」を見直す必要がありそうですね。

九里三郎左衛門は織田信長にスパイ容疑を掛けられ全て没収され、それらは信長の意向で、親族である(一族かもしれない)永田景弘に渡されることになります。
九里三郎左衛門、その後浅井氏の許に逃げこんだのか、誅されたのか、足取りは見えません。

その兄弟(永田景弘の舎兄が九里となっている)であった永田は織田信長のお気に入りで、相撲行司になって、最後に相撲力士として登場し優勝します。信長公記)

信長公記は全ては読んでいないので、全部読んで…が必要なのでしょうね。


因みに、長岡藩の九里氏に「牧野殿は良いぞ…」と勧められて「永田氏」も長岡藩へ入ったとの伝承があるそうです。

九里一族には、藤原姓・橘姓・平姓・源姓・中原姓…とあります。
古い家系の証拠かな?とも思っております。



九里邑の九里の城(久里城・本郷城)のある場所は、ちょうど「○条九里」にあるとのことでした。(近江の案内をしてくださった方の談)

(今、久々に加賀藩の系図を出してみて、越前一乗谷にいた事がわかりました。これは、足利義政が一乗谷に赴いた際に朝倉家の門番をしていた九里十左衛門の裔かもしれない!と思います。)




岸本良信氏 HPより 長岡藩士名 https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%97%A9/
九里惣右衛門(四五〇石・五郎太夫嫡子) 
九里源左衞門(一五〇石・孫左衛門次男) 
九里五郎太夫(一三〇石) 
九里孫四郎(八〇石・孫左衛門次男) 
九里八左衞門(五〇石・五郎太夫三男) 
九里藤右衛門(五〇石・五郎太夫四男) 
九里彦太夫(七〇石・五郎左衛門弟) 
九里角之允(四〇石・番右衛門弟) 九里市左衞門(三〇石・金三郎弟) 
九里義太夫(一四〇石・雨宮新兵衛正房弟)

===*===
屋代様、
非常に勉強になっています!!

で、信長公記にとりかかります。

ありがとうございました。

コメント (2)
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2020年 本日ブログ開始より2020日目 なり。  九里氏のまとめも含みます。

2020-07-30 | 九里【只今の状況・まとめ】

皆様、いつも読みにいらして下さりありがとうございます!
早いもので、五年以上も粘っていたことになります。五年と五カ月。

お陰様で今まで読んできた歴史の本にはないことを私なりに見つけ、怪しげな説ではありますが上手く繋がってきました。
ここは、繋がるブログ です!

佐々木経方が因幡国の長田氏につながるのではないか? 高庭介と能美の関係。
冨城蓮忍は因幡国の在庁官人で「岡益石碑」の近くの平氏の隠れた安徳天皇陵を守るという役目も負っていたのではないだろうか?
冨城蓮忍は江州中原氏なのだが、藤原黒麻呂の系とどこかで交錯しているのではないだろうか?
藻原という土地でつながりがあり、蓮忍入道の父経任が橘次となっている事(黒麻呂の妻は県犬養で、娘は橘諸兄に嫁いでいる)
和歌山の系図に橘逸勢が見えた事…

黒麻呂の系春継の妻は坂上氏で、中原氏とのつながりも感じること。

源雅信の妻に藤原元方(黒麻呂の裔・菅根の息)の娘が嫁いでおり、其の四男が源扶義(951-998)とwikipediaに書かれていること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E4%BF%A1

そして、その源雅信と藤原元方女の娘(=源扶義と姉妹)は藤原実方の母となる。
実方は熊野と縁が深く鈴木氏の娘をもらい、熊野別当となる泰救・長快を産む。
そのため近江国の佐々木氏に熊野別当の系が入り込むのではないだろうか?
佐々木行範は熊野別当家の行範なのではないか?

===*===

今、この辺りにいると思います。
他にもいろいろとぶつかっては砕け…を繰り返しておりましたが、点が線になってきました!

いつも浮かんできたことをそのまま書いているのでアチラコチラと落ち着かず、古代から現代まで瞬間移動しますが、それも良かったように思います。
過去あっての現在なので、繋がっているのですから!

やけに読みにくい意味不明の文章もあり反省は多々ありますが、スキルアップ目指して「九里を探し」続けたいと思っております。

これからもどうぞ遊びにいらしてください!!
パワー+刺激になっております!

いつもありがとうございます!!




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藤原実方は、源雅信の外孫である! もう、この時代から熊野とはつながっていたのだ。

2020-07-25 | 雑記

源雅信の娘 ー 藤原実方 ー 熊野別当家 泰救 実方の妻は鈴木重豊娘
男子:泰救- 母は鈴木重豊の娘
男子:長快
女子:少将内侍- 母は大中臣輔親の娘、白河院女房

長快 ー 長範 ー 行範

経方の跡に入ってきてもおかしくはないような気がする。
しかし、其の経方の不在の系図がいくつかある。

経方自身も、どこからか入ってきた人物なのだろうか?
それが長田氏なのだろうか?

さらに鈴木重豊の鈴木は「熊野発祥の物部氏系穂積氏流の鈴木氏」である。
義経の仲介で鈴木三郎重家と亀井六郎重清(佐々木)の二人は義兄弟


・・・となると、為義と佐々木氏の関係にまでもつながってくる。
鳥居禅尼が熊野に嫁いでいる事と源雅信の娘が熊野と縁があったことが共通項となり、より強固な関係となったのではないだろうか?





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物部氏と尾張氏・尾張氏と伊福部氏

2020-07-16 | 古代からのつながり

尾張氏と伊福部氏のどちらにも『長田氏』が存在する。

さらに、尾張氏は中原氏に養子に入り、中原氏は大江氏・大中臣氏・清原氏と部分的に重なりがある。(私が系図で確認したのは平安~鎌倉時代だが)

さらに物部氏が中原姓を賜わっている例もある様に、中原氏の中には物部氏もいるし、物部氏の中に中原氏もいることになると思う。


例えば、
興原敏久(おきはらのみにく:生没年不詳)
平安時代前期の官吏。はじめ物部氏。三河の出身。名は「としひさ」ともよむ。
弘仁4年(813年)物部中原宿禰の氏姓をあたえられ、天長年間(824~834)に興原宿禰を賜姓。
明法(みょうぼう)博士から大判事となり、「弘仁格式」「令義解(りょうのぎげ)」の撰修にかかわった。

さらにコトバンクには
「延暦(えんりゃく)末年から明法家(みょうぼうか)として頭角を現し、808年(大同3)外従五位下(げじゅごいのげ)、この頃に明法博士、813年大判事に任。『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』および『令義解(りょうのぎげ)』の撰修にもあずかる。830年正(しょう)五位上を叙位。その明法勘文(かんもん)は『法曹類林(ほっそうるいりん)』『政事要略(せいじようりゃく)』などにみえ、また『令集解(りょうのしゅうげ)』に引かれる「物記(ものき)」「興大夫云(おきのだいぶいわく)」「原(はら)大夫云」「物云(ものいわく)」などは敏久の学説をさしているといわれている。[柴田博子]」とある。

「原大夫云」・・・気になる「原」がここにも登場している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%8E%9F%E6%95%8F%E4%B9%85



素晴らしい情報がここにも。↓
http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo90.htm

『先代旧事本紀』の編纂者は、明法博士(みょうぼう:法律学についての博士)の 興原敏久(おきはらのみにく)で、成立年代は、西暦820年代の末、827年-829年前後であろうことを、考証したことである。

幕末から明治時代の国学者で、系譜についての彪大な研究業績を示した人に、鈴木真年(すずきまとし:1831~1897)がいる。
鈴木真年のあらわした『諸系譜』(国立国会図書館蔵)に、興原敏久(物部中原宿彌ともいう)を、参河(三河の国:現在の愛知県の東部)の人で、嘉祥2年(849年)年7月20日に、年62二歳で死去したと記され ている。むかしは、年齢を数え年で数えたから、この記述が正しいとすれば、興原敏久は、788年に生ま れたことになる。そして、『先代旧事本紀』を編纂したのは、興原敏久が、40歳前後のころのこととなる。

鈴木真年の記述が、かならず正しいとはいいきれないが、鈴木真年の編纂態度からみて、興原の敏久につ いての没年も、しかるべき資料によったものとみられる。

『諸系譜』によれば、興原敏久は、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ:物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫である。 このことは『先代旧事本紀』が、つぎのように記していることと、関係があるとみられる。

===*===

この物部氏の裔である「興原氏」の「興」は佐々木氏と関係のある「散位源行真申詞記」の「興定三郎」にも通じていくのかもしれない。

===*===

物部氏と伊福部氏の関係(wikipedia)
『因幡国伊福部臣古志』(延暦3年ごろ成立)によると、物部氏の祖である伊香色雄の息子、武牟口命を祖先としている。日本武尊による征西の途中で、吉備津彦命、橘入来宿禰らとともに、稲葉夷住山の荒海という賊を征伐するために因幡国に立ち寄った、とある。息子の意布美宿禰の時、初めて「伊福部」を名乗る。その後、稲葉国造も兼任した、とも言われており、允恭天皇に仕えた若子臣が、気を飄風にかえたという伝承も残されている。

飄風=つむじ風

===*===

物部氏と尾張氏は

物部氏の祖
ニギハヤヒノミコト 饒速日命 / 邇芸速日命
日本神話で、天孫降臨に先だち、天磐船(あまのいわふね)に乗って天下ったという神。物部氏の祖神と伝える

因幡の伊福部氏
饒速日命を始祖とする(関裕二説)
オオナムチノカミ 大己貴命を始祖とする(森公章説)

尾張氏の祖
アマノカゴヤマノミコト 天香語山命

『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。

宇摩志摩治命
邇芸速日命が那賀須泥毘古の妹である登美夜須毘売を娶って生んだ子で、『先代旧事本紀』では天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であり、彦湯支命の父であると伝える。

===*===

何だか、出雲族と物部氏の関係が思っていた様子と違い、物部が出雲いじめ…をしていたようなので、わからなくなってしまった。。私は今、迷子である。

===*===

http://houki.yonago-kodaisi.com/H-Reikai-Kuroda1.html
罵城(とき)という地名も載っている! 冨城氏の拠点である。
コメント (4)
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空の話題 

2020-06-22 | 日記

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200622-00000005-ovo-life.view-000

https://news.yahoo.co.jp/articles/85ed2f1149478dc48128553ed94cde773f9bbd85

地球温暖化に関連があるとされ、緯度が高い地域で夏に見られる「夜光雲」を、明治大学理工学部鈴木秀彦准教授らが北海道で3日連続で観測した。

美しいが、不気味でもある。
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