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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

西園寺実氏と関係があるのだろうか? 源頼政邸の横に「実氏邸」と書かれているようにも見える。

2021-06-21 | 藤原氏

以前のブログから 京の古地図

https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/index_area.php?area=26kyoto

↑のどれかからの部分である。

源三位頼政の隣が(たぶん藤原)秀行卿のお宅で、藤原秀能の息が秀行であったと記憶している。

 

↑ こちらも上記と同様

 

 

↑ こちらは頼政となぜか藤原(多分、西園寺実氏)で、隣が畠山館とある。

 

以下はgooglebooksからだが、ココに関係すると思われる。

 

西園寺実氏の室となったのが四条貞子 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E5%AD%90

 

藤原秀能は歌人として「和歌所寄人」であったというので、二条院讃岐(源頼政娘)とのつながりもあったのかもしれない。

 

藤原秀能 コトバンクより

https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD-15082

乱後出家,如願と号し,『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。秀能は父母共に関東の有力御家人の家柄であり,秀能自身北条氏,三浦氏とも親密であった一方,後鳥羽上皇に近臣歌人として寵愛され,秀能は乱後も上皇を思慕し続けた。

 

歌を通じてのつながりでもあった西園寺家。

 

実氏の祖父が藤原実宗であり、その弟に実明がいる。

実明の孫「実任」のは「平盛連女」とあるが佐原盛連ではないだろうか。

矢部禅尼の娘となるのだろうか?

 

佐原盛連の母は、武田信光の娘であり、信光の父信義は加賀美遠光と兄弟である。(遠光の娘に大弐局がいて、富木常忍の母と共に実朝の乳母となっている)

さらに武田信光は新羅三郎義光の曾孫となる。

新羅三郎義光の娘は佐々木季定(為俊)の妻となっている。

 

蜘蛛の巣のように繋がっている。

 

 

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佐々木定綱の娘 と 八条実俊・息公世・猶父 洞院実雄

2020-04-25 | 佐々木氏

この部分、「従二公 母」 従二位を持った人物は、この周辺では「公世」となった。
しかも、藤原閑院流西園寺家の「洞院実雄」が猶父という。
西園寺家から洞院家の家祖となっている人物である。


閑院流には関係があるかもしれないと思って、調べていたが、藤原実明を中心に調べていた。
実明はこの洞院実雄の祖父の弟となる。
いろいろな藤原実明がいたが、どうやらこの西園寺家の実明に落ち着くのかもしれない。

だとすると、二位尼とも近い関係になる。
なぜならば、洞院実雄の母親は「平親宗」の娘であり、姉は「建春門院新中納言(?-1184) - 平維盛妾」であり、親宗の異母妹が「時子=二位尼」である。
実雄から見ると、祖父の妹である。

やはり、片岡経俊が冨城蓮忍の祖父となるのだろうか。
この経俊が経久にとって祖父なのかもしれない、と思うと嬉しいが、冷静に考えてみよう。

頭をリセットしてみよう!

再構築。

片岡経俊・公世の父「八条実俊」、母「佐々木定綱の娘」(春華門院大進)

公世の猶父が洞院実雄で、実雄の母方の祖父の妹が「二位尼」

二位尼が歿したという伝説と墓碑のある「因幡国の岡益」の近くに移り住み、在庁官人として仕えていた「冨城蓮忍」=中原太郎経久=九里の祖

岡益の石堂 ↓
https://japanmystery.com/tottori/okamasu.html

蓮忍は冨城郷の他にも丹波国御河守庄の地頭もしており、そこは八条院の所領であったとも考えられる。
八条実俊は、八条院御給を貰っており、妻であった佐々木定綱娘・春華門院大進は「昇子内親王」=春華門院(しゅんかもんいん)に仕えていた。昇子内親王は八条院の猶子となった女性である。

これも符合する。



蓮忍が地頭となっていた河守御荘の寄進先は室尾谷観音寺であった。

藤原実明の息に「慈信」改め「蓮乗」がいた。
(蓮乗の祖父が基仲帥。…孫に白川王家白川忠富王記を書いた伯王家)
その蓮乗が室尾谷の中興の祖と言われている人物で、河守御荘は大江にあり、ほど近い。
その観音寺に寄進したとなる。

藤原実明の孫実任の妻は佐原盛連の娘で、後に真野氏となる系も出てくる
また、洞院実雄は、山階左大臣とも称し、乾氏のあった周辺が長浜市の山階町であったこととつながってくる。

また、経久の父と兄が義経と共に行動していたとすれば、南都衆徒となった乾氏とも連絡を取り合っていた可能性なども充分にあったのではないだろうか。

九里経久が片岡経久であったならば、長男の名前が全く違う点や、九里という名も見えてこない点に疑問がある。

佐々木定綱の娘の系という点では、今まで佐々木氏の中の九里が見えてこなかっただけに、あり得そうではある。系図での「女」は、註が少ない。
それに、片岡経俊に沙々貴宮にいた紀氏(江州中原氏)の娘が嫁いだとも…(妄想)
ともかく片岡経俊の母が佐々木定綱の娘と仮定してみる気分になってきた!

経久の父は、中原経任である。が、橘氏に改めている。(橘次)と註にはあった。
弘経(為春)は上野国の片岡郷。で、片岡を称し…
上野国で、名を改めて居たのかもしれない。

ともかく、「洞院実雄」が藤原公世の猶父であったことを見つけ、片岡氏が九里氏と関係があるかもしれないと、希望が持ててきたのである。

片岡桂嫩殿、ありがとうございました!!

景徐周麟は、赤松氏の出であったことも、今回知り、足利義澄の息「亀王丸」様を赤松氏に預けることとなった背景には、そのこともあったのではないかと思った。忘れぬうちにmemo。

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真野氏と三浦佐原氏、真野氏と深尾氏。

2019-12-09 | 浅小井深尾氏

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/mano1.htm


(1) 東大史料編纂所蔵の『幕府諸家系譜』第二九冊に平姓という真野氏の系図が見えており、鎮守府将軍平良兼の第十三代として真野豊後守をあげ、その二男が真野孫三郎重政であって近江人と記し、その子の新太郎重則は近江に生まれて鷹匠として大神君家康に召し出されたとして、その子の九兵衛重吉以下子孫の系譜を記載する。

ところが、『姓氏家系大辞典』では『寛政譜』などにより、この家は、三浦佐原義連三代真野五郎胤連の後であって、「金右衛門重政(尾張富塚の人、仕信長)-同重吉(元亀二卒)-同重家(寛政に孫三郎重政、仕家康)-惣右衛門重則(近江二百四十石)」と記載する。この辺にも、尾張と近江に大きな混乱が見られるが、解明が困難である。
なお、真野金右衛門重宗(重家同人か)の養子に女系親族の庄九郎重勝(正勝)もおり、もと野尻氏を称していたが、真野氏を名乗り秀吉・家康に仕えて鷹匠頭をつとめた。
 
 (2) 『姓氏家系大辞典』では、秀郷流藤原氏という民部丞正永が近江真野を領して家号とすると記し、『寛政譜』には正永の後裔の「太郎右衛門正俊(仕信長)-勘右衛門正次(近江百七十貫文)-勘兵衛正重」という「正」を通字とする真野氏をあげる。

これも近江真野に起こったというから、実態は古族真野臣の末流なのであろう。 そして、上記(1)の九兵衛重吉の子孫の女性がこの「正」流真野氏の男性(真野与惣兵衛正常)の妻となって通婚するから、(1)と(2)とは本来同族で真野臣末流なのではなかろうか。こうしてみると、幕臣となった真野氏の多くが近江出自であったことも考えられる。


===*===

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%AE%B6%E9%80%A3

ここからは変な想像かも知れないが、自分の記憶のためにと留めておきたい。

浅小井家連がもしかすると三浦佐原家連(肥前守)かもしれないとするのは危険だろうか。
年代は同時代と思われる。
藤原実明(下記の系図では洞院実明)の孫が盛連の娘を娶り「公名」が生まれている。

「西園寺公経と三浦惣領家は親密な関係を持っていたことが知られているが、庶流の佐原家もこの洞院流藤原氏と関係を持っていたことがうかがえる。」(千葉氏・三浦氏のページより)

https://chibasi.net/miurasoryo6.htm



この系図中にいる三浦佐原盛連の弟に家連がいて、ひょっとするとそこと浅小井深尾氏とつながっていれば…という想像である。



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後藤基清 播磨守

2019-07-30 | 後藤氏

頼朝の実の妹である「坊門姫」は、後藤実基に育てられたという。

後藤実基のwikipediaより

藤原北家秀郷流の流れを汲む北面武士・藤原実遠の子として誕生。

京において源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長男・義平に従軍する。乱の後の動向は明確ではないが、『平治物語』によると京において義朝の娘・坊門姫(後に一条能保室となる)を養育したとされる。

治承4年(1180年)に義朝の遺児・頼朝が挙兵すると、養子・基清と共にその麾下に参加。平家追討の戦いでは源義経軍に加わり、屋島の戦いに際しては、平家軍が海上に逃れた後にその城塞を焼き払い、反撃意欲を絶つという活躍を見せている。

その実基の養子が後藤基清となる。

後藤基清

生没年:1155?-1221
父:佐藤仲清
義父:後藤実基
通称:左衛門尉
従五位上
検非違使
左衛門少尉
1185 屋島の戦い
-1199 讃岐守護
播磨守護
1221 承久の乱
正室:
基成
1181-1256 基綱(美作後藤氏へ)
基重(播磨後藤氏へ)
太田基連

ここからずっと祖まで遡ると意外なことがわかった。

世界帝王事典からである。

後藤公則

生没年:
父:民部少輔 斎藤伊博
義父:河内守 源章経
駿河守
従四位下
正室:
公員
兼則
忠念
則経


斎藤氏。

藤原公則のことと思われる。つまり藤原利仁流となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%89%87

後藤氏の系図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F#cite_ref-1

章経は、佐々木氏となった人物だろうか?
章経の父は源兼宣となっているので、別人のようであるが。。。

そこで、章経の別名である佐々木義経の Weblio辞書より
(源扶義の成頼の息にあたる)
佐々木 義経(ささき のりつね、長保2年(1000年) - 天喜6年(1058年))は、平安時代後期の武将。初名は章経(あきつね)。宇多源氏佐々木氏の祖。下級貴族である兵庫助・源成頼の子。官位は従五位下・兵部丞。兵部大夫と号す。

===*===

後藤氏は中原氏と共に一条家の家司のような仕事についていた。同僚だったと思われる。
三左衛門事件となった「対源通親」に共に立ち上がった仲間でもある。

その藤原実遠の後室として入ったのが真野宗連の先妻でもあった「妙勝」。
つまり上記の後藤実基の母か、継母となる人物が、真野氏に嫁いでいたことがある女性であった、という事になる。

妙勝の所領は、巡り巡って真野宗明が譲り受けることとなる。

この真野氏は三浦氏流で、佐原氏でもある。
藤原実明の孫公雅の妻が三浦(佐原)盛連の娘となっている。(息は公名)
さらに矢部禅尼が妻として入ったのも盛連である。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%9B%9B%E9%80%A3

矢部禅尼
建久5年(1194年)2月に13歳の泰時が元服した際、源頼朝の命により三浦義澄の孫から良い娘を選んで泰時と娶せる事が決められる。この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、義澄の嫡男義村の娘(のちの矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年長男の時氏が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男時実を建暦2年(1212年)に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでも無く、理由は不明である。

その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。

嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。

北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。

康元元年(1256年)4月10日、不食の所労により70歳で死去。時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。

再婚相手の盛連は時氏との血縁を利用して側近になって上洛しているが(『明月記』嘉禄2年正月24日条)、盛連は乱行で京都中に知られており、在京でも乱暴行為で知られており時氏を悩ませたと伝わる。

===*===

三浦義明ー佐原十郎左衛門尉義連ー太郎左衛門尉景連ー真野五郎左衛門尉胤連…その子孫 真野宗明

…の部分に、真野時連(新宮時連)が入るようなのであるが。。。
時連は矢部禅尼と盛連の息である。

さらに上記の系図の胤連はwikipediaでは胤義の息となっているのだが…

複雑ではあるが、三浦氏が西園寺家とも一条家とも何等かのつながりがあったことになろうと思う。

一条家にも、藤原秀郷流の後藤実基の父にも「実遠」がいるので、ちょっと混乱している。
年代を確かめる必要があると思うが、上記は後藤実基の父のことと思われるが。。。

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三浦一族研究会 第十七号 p.173

2019-04-25 | 雑記

三浦一族研究会の第十七号に「三浦党矢部一族の調査」という報告書の中の表を見て、ハッと気が付いたことがあったので書き留めておこうと思う。

矢部姓の居住地と寺社等
ダントツにその姓が多かったのが【千葉県茂原市】であった。
平安末から鎌倉初期とある。これは居住し始めたのが…という事ではないだろうか。

富木常忍も晩年は茂原に戻った…と何かに書いてあったと思う。
そこで、なぜそこに‥‥を私なりに調べてみた。

まず、三浦義澄の息である義村の女性達を見て見ると矢部禅尼は北条泰時に嫁いだ後に佐原盛連に嫁いでいる。次に土岐光定の室、毛利(大江)季光の室、千葉秀胤の室、となっている。

富木氏は、中原(大江)氏の出であり、土岐光定にも何ら関係があり、佐原盛連やその後裔の真野宗明とのつながりもありそうである。さらに、毛利季光は大江氏である。最後に千葉氏の被官となり、頼胤の補佐していたのが、この千葉秀胤である。




さらに千葉秀胤を詳しく見て行くと、(wikipedia)

幼少の千葉氏宗家当主・千葉亀若丸[千葉頼胤]を補佐する一方で、対外的には一族の代表者として行動し、北条光時・藤原定員・後藤基綱・三浦光村・藤原為佐三善康持らとともに九条頼経を押し立てて執権北条経時と対抗した。寛元4年(1246年)に執権経時が死去し、弟の時頼が執権を継承したのを機に勃発した政変(宮騒動)によって名越光時・藤原定員が失脚すると、6月7日には千葉秀胤・後藤基綱・藤原為佐・三善康持の4名の評定衆が更迭、更に6月13日秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を奪われ(金沢実時所領となる)、上総国に放逐された(『吾妻鏡』)。ただし上総は秀胤の本国であり、寛大な処分とも言える。これは執権になったばかりの時頼が決定的な対立を避けて事態を早く収束させようとしたと見られている。

宝治元年(1247年)6月の宝治合戦によって、三浦泰村・光村兄弟が攻め滅ぼされると、6月6日に三浦氏の娘婿である秀胤に対しても追討命令が発せられ、翌7日には千葉氏一族の大須賀胤氏・東胤行(素暹、秀胤の3男・泰秀の義父)らが秀胤の本拠である上総国玉崎荘大柳館(現在の千葉県睦沢町)を攻撃した。追い詰められた秀胤は屋敷の四方に薪炭を積み上げて火を放ち、4人の息子をはじめとする一族郎党163名とともに自害した。また、秀胤一族以外にも討死したり、所領を失った千葉氏一族が多数いたと言われている

毛利季光も亡くなっている。
毛利季光の一族はこの時に大半が果てているが、越後にいた四男毛利経光のみが生き残り、後に戦国大名となる安芸毛利氏へと続いている。

北条泰時の前妻だった矢部禅尼の再婚後の子供達である三浦氏佐原流は生き残り、のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興している。

~~~*~~~

つまり、この周辺の一族であるが、鎌倉を不在にしていた「蓮忍」(「常忍」は因幡生まれ)が千葉氏によばれて因幡国から戻ってきたのが1249年前後であったと思う。蓮忍は1251年には没しているようなのだ。

さらに矢部禅尼の名乗りである「矢部氏」が、後々ではあるが富木蓮忍の所領であった(管理下であった)因幡国富城庄が矢部氏のものとなっている。

矢部氏の矢部は山内庄であった‥‥という記事もあり、そこで首藤山内氏とのつながりもできていたのかもしれない。



また、足利泰氏の妻にも「北條泰時娘」がなっている。(後日関連してくると思う。)

後藤基綱の父「後藤基清」は佐藤義清(西行)の兄弟・佐藤仲清の子で後藤実基の養子であった。



気になる部分も見つかった。↓岩手史学研究

後藤基康の六代前の先祖
基綱の弟基連は先に鎌倉幕府問注所執事三善康信の猶子となって式目評定衆となり、
康信の子太田康連と義兄弟となっている。

後藤基綱の弟は「太田基連」となっていたのだ。
ひょっとしてこの人が日蓮の弟子「乗明」では?
後藤基綱は評定衆としては1225-1246年に、引付衆としては1252-1256年となっている。




ちなみに常忍も太田乗明の姉を妻にしていた。しかし、その妻は早くに亡くなってしまった。

太田康連が問注所執事をしていたのが1246-1256年。
太田康宗が問注所執事をしていたのが1256-1262年
この辺りの太田氏とつながりがあったようである。

太田とつながっているという事は、三善氏とも繋がっているという事である。

同じく評定衆であった「斎藤長定」=浄円も、清原氏でもある。

「斉藤九郎兵衛尉基連」という名も見られ、ひょっとすると斎藤氏と後藤氏(太田氏)も繋がっていたのかもしれない。
たが、建武二年となっており別人となる。

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佐原宗明(真野氏)から杉本氏(三浦義明息の杉本と)

2018-11-21 | 九里【まとめ】

桓武平氏三浦氏流

本姓は平氏。家系は桓武天皇の流れを汲む桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の庶流である。三浦義明の長男義宗が起源で鎌倉の杉本城(現在の杉本寺)を拠点としたことから杉本(椙本とも)を称した。杉本氏からは、初代鎌倉幕府侍所別当和田義盛にはじまる和田氏が別れた他、杉浦氏、鮎川氏、走水氏などの庶流が別れた。

また、義宗の弟で三浦本宗家を相続した義澄の次男佐原義連の家系からも杉本氏が別れ、義連の子横須賀時連に宗明という子がおり、以後杉本氏として存続した。

宗明(下野守)-時明(安芸守)-貞連(因幡守)-貞清-駒石丸-久連-連秀-義清-義定

と続いた。

なお、宗明の次男貞宗が三浦姓に復して美作三浦氏を起こし戦国大名として栄えた。


杉本と佐原、佐原と真野、これらの三浦氏と西園寺氏が関係する。


西園寺実明の孫と佐原盛連女・佐原盛連の六男が佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏)となり、近江国船木に移住し、船木氏となり、後には若狭国へと移住。

この佐原氏に通じるのだ。

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西園寺家(実明の系)・佐原氏(三浦氏)・真野氏・船木氏・間宮氏・熊野別当家(新宮氏)・鈴木氏が一列に

2017-11-08 | 日記

今まで、途切れていた糸が繋がってきました。

嬉しいデス。

~~~*~~~

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2

西園寺実明の孫とと佐原盛連女・佐原盛連の六男が佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏)となり、近江国船木に移住し、船木氏となり、後には若狭国へと移住。

この若狭国でのことは、これから調べるのだが、中原氏(稲庭氏や永田氏)そして本郷氏ともつながりが出てくるのではと思われる。


~~~*~~~

熊野という線は、あながち荒唐無稽でもなかったようで、良かったです!


詳しくは、こちらに書きましたので、よろしくお願いいたします。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2



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米沢 九里氏 戦国時代と戦国以前

2016-10-04 | 米沢 九里氏周辺情報

米沢の九里氏は、いつの時代から米沢に住んでいたのだろうか?

その前に、米沢の歴史を知ることが必要なので、調べてみた。(米沢市HPより)

鎌倉時代には、置賜地方を領した地頭・長井氏が米沢に本拠を置いたと伝えられます。
その後、長井氏に代わり伊達氏が置賜を領し米沢城下が整備されました。
「独眼竜政宗」として戦国の世に名を馳せた伊達政宗も米沢城に生まれ、25歳までの青年期を過ごしました。

 江戸時代には、上杉景勝(戦国の名将・上杉謙信の後継者)が越後から会津を経て米沢に入封、重臣・直江兼続の指揮で城下が拡張され、現在の米沢市街の基盤が築かれました。以後、米沢は上杉氏(米沢藩)の城下町として発展し明治維新を迎えました。その中で、第9台藩主上杉治憲(号・鷹山)による藩政改革が有名です。

財政が逼迫していた米沢藩に、縁戚の高鍋藩秋月家から迎えられた鷹山は、率先して大倹約を行うとともに、数々の殖産振興政策を展開しました。そうした中で養蚕と米沢織物が特産品に発展し、藩財政と人々の生活が立ち直りました。また、藩校・興譲館を設立するなど教育にも力を注ぎました。困難な状況の下、「なせば成る」の精神で改革を成功させた鷹山は、現在も理想のリーダーとして高く評価されています。
 
~~~*~~~

地頭長井氏とは、どのような人物なのだろうか?

長井は出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し家祖となった。
大江広元の息(次男)である長井時広が初代である。

なるほど、大江広元! 

九里が米沢に赴いた可能性としてはこの長井時広に付いていったか。

または、三浦・佐原義連の息盛連に付いていったか。

または、水茎岡山城の戦いに巻き込まれた蘆名氏の女(義澄に仕えており、噂では義澄の子どもも腹の中にいたとか…)を蘆名氏に無事に届けるために随行し、そのあたりで浪人となっていたところを声をかけてもらったか。

もう一つ、上杉氏の許に目加田(妻賀田)氏とともにいた九里采女正の子孫や縁戚となる可能性。…など考えられるが、

勉強不足で、まだよくわからない。

そういえば、長岡藩の系も、わが先祖の柏原藩系と仲が良かったらしいが、(同時期に生まれた子を同じような名前にしている。たとえば波之丞と文之丞など)まだ調べていなかった。。。

全国の九里様、もしもお差支えがないようでしたら、ルーツを教えていただけませんでしょうか?
心よりお待ちしております。





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三浦佐原氏と紀伊守護

2016-08-19 | 佐原氏バラバラ情報
【紀伊国守護】

鎌倉幕府
代 氏名             在職期間        出身家

1 豊島有経 としま ありつね 治承8年 - 不詳1184年 - 不詳 豊島家

2 佐原義連 さはら よしつら 不詳 - 建仁3年 不詳 - 1203年 三浦家

3 後鳥羽上皇御          建永2年 - 承久3年 1207年 - 1221年

4 三浦義村 みうら よしむら 承久3年 - 不詳  1221年 - 不詳 三浦家

5 佐原家連 さはら いえつら 貞応2年 - 嘉禎3年1223年 - 1237年 佐原家

6 北条久時 ほうじょう ひさとき 弘安3年 - 不詳 1280年 - 不詳 赤橋流北条家

7 北条時兼 ほうじょう ときかね 正応4年 - 不詳 1291年 - 不詳 普恩寺流北条家

8 北条氏  不詳 - 元弘3年    不詳 - 1333年        北条家

紀伊国と関係が深かった三浦佐原氏であった。

しかも、義連! 盛連は、会津だが、盛連の六男時連(矢部禅尼の三男目)が新宮を名乗る理由は、ココだったのではないだろうか。
つまり、六男が紀伊国守護であった時代もあったのではないだろうか。家連の後にくるのでは?

家連に関して(コトバンク)さはら-いえつら
?-? 鎌倉時代の武将。
三浦義連の子。承久(じょうきゅう)の乱で朝廷方の紀伊(きい)南部(みなべ)荘(和歌山県)の熊野法印快実が打ち首にされたあと,同荘の地頭職(しき)をあたえられる。貞応(じょうおう)2年(1223)紀伊守護。通称は三郎左衛門尉

いつの間にか、また新宮氏関係に戻ってきている。きっとここに何かがあるのだと思う。

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新宮十郎義盛=源為義の子、名を行家と改める!

2016-08-14 | 新宮氏バラバラ情報

令旨の使者に選ばれた熊野の新宮十郎義盛(源為義の子、頼朝、義経の叔父)は、名を
行家と改め、蔵人として諸国の源氏に令旨伝連のため、四月二十七日京都を発った。

人物往来社 歴史読本よりの文だが、これはうっかりしていた! もう一度源行家を読んでみよう。

新宮十郎義盛に新宮義連(佐原)…関係がありそうだ。

佐原義連は三浦義明の子で、現在の横須賀市あたりの佐原に住んでいた。
文治5年(1189年)奥州合戦に従事し、その功により陸奥国会津4郡を与えられた。
義連の妻は武田信光の女であり、妻の兄弟に武田信政・一条信長がおり、その兄弟の母親は新田義重の女となる。

その佐原義連の長男が盛連である。

そして藤原実明の曾孫公名(正三位 権中納言)の母親が佐原盛連の女になっている。

また、新宮氏の説明を見ると「陸奥国(後の岩代国)耶麻郡新宮荘(福島県喜多方市)を支配し、佐原義連の子・盛連の六男・時連を祖としている。」とある。

新宮荘を任されたのが佐原氏ということである。



続く…




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